第12話

 昼食前、俺は参道脇の駐車場までひとっ走りした。もちろん、警察のワゴン車がまだ停まっているか確認するためである。

 汗が流れるのも構わず参道を小走りで駆け抜け、その途中から駐車場を見下ろしてみると……よしよし、すでに警察車両は姿を消していた。

 警察の捜索結果が気にはなるが、それは後からどうにか聞き出すとして、これで俺たちが山に入っても面倒なことにはなるまい。ただ、すでに捜査のプロが調べた後を素人がなめ回したところで、どれほどのものが得られるのか、はなはだ心許ない限りではあるが。

 さて、午後の行動がまず一つ確定したところで、腹ごしらえだ。

 昼食は、美弥子さんの給仕で俺たち三人、参集殿の厨房横にある小さな食堂を使わせてもらった。

 舞依と結依の姉妹は、母屋で家族と一緒に食事を摂るという。とりわけ舞依は、九日ぶりに家族と食事をともにするわけだし、結依は結依で昨日の晩御飯も俺たちに付き合ってくれたのだから、このお昼ぐらいは家族で食卓を囲みながら今後の話をするのがいいだろう。

 ところで少し気になっていたのだが、昨日来、参集殿に宿泊しているとかいう巡礼者二人をまったく見かけない。

 美弥子さんに聞くと、彼らは今朝早く参集殿を出て、緋剣山中の御堂で一週間の修行に入ったという。結依が話していた自給生活というやつらしい。

 だが「御堂」というのが引っかかった。昨夜、お祖母さんが籠っていた例の〈緋籠堂〉だろうか。だとすると少々厄介だ。巡礼者にとっては俺たちが修行の邪魔になるし、こちらにとっては彼らが捜索の妨げになる。せっかく貴重な時間を費やすのだから、それなりの成果を出したいのに……。

 まあ、はっきりしないことを心配しても仕方がない。後で結依に確かめてみよう。

 それはともかく、図らずも舞依・結依とは別の食事の場になったので、この際に栞梛家の家族について美弥子さんからいろいろと話を聞き出したいと思っていたのだが、そういうことに関しては美弥子さんはあまり乗ってこなかった。よく言えば、口が堅くて慎み深いということになるのか。

 辛うじて美弥子さんからは、舞依・結依姉妹のお兄さんは三つ上で勇人という名であることと、あまり家には居つかない生活を送っているということを聞き出せたにとどまった。どうやらお兄さんは、いわゆる〈引きこもり〉でないニートというやつらしい。


 昼食を済ませて十二時四十分頃、母屋の裏口を出たところで結依と合流した。食事前の打ち合わせで、結局、緋籠堂付近の捜索は俺と翔吾と結依の三人で当たることになったのだ。

 舞依は、通夜や葬儀の準備があるため、時間を割くのはさすがに難しい。〈種受けの儀〉から解放されたとはいえ、神社の後継ぎとしての立場は変わらないので、これは仕方あるまい。

 それに、人目を避ける意味でも極力少人数で……ということから、梨夏も除外。

 結依も今夜の準備に忙殺されて、俺たちに構っている暇なんかなくなるかと恐れていたが、本人に確かめたところ

「田舎では、特にうちの場合、神社の氏子の人たちが取り仕切ってくれるから、大丈夫なのよ」

 という返事。ともかく、そういういきさつで、山中捜索は案内役の結依と男二人の出動ということになった。

 結依は左手に膨らんだ紙袋を下げていた。昼食前、俺が結依に話をして準備を頼んでおいた“もの”が入っているのだろう。

 昨夜と同じ道を辿って同じ場所を目指すわけだが、夜と昼とでは、やはり受ける印象がまったく違った。山道もどういうものか昨日より細くてみすぼらしく映る。

 相変わらずセミの鳴き声がやかましい。というか、当然ながら山に入って一層激しさを増したようだ。

「その御堂……緋籠堂だっけ、歩いて何分ぐらいかかるの?」

「十分たらずってところね」

 翔吾の問いに結依が即答した。俺も昨夜の記憶を呼び起こしながら、心の中で頷く。

 道すがら、美弥子さんに教えてもらった「御堂での修行に入った巡礼者」のことを、結依に聞いてみた。

 すると、緋籠堂は栞梛家専用であり、一般の修行者は〈御籠堂〉という別の御堂を使うので、緋籠堂周辺の捜索に支障はないとのこと。まったくの杞憂だったようだ。

 次いで、結依は母屋での昼食時の模様を話してくれた。

 九日ぶりに家族に元気な姿を見せた舞依は、家出から戻った八月七日の夜以来、結依の部屋に隠れていたことを打ち明け、お母さんや成隆氏、君枝さんに心配かけたことを謝ったという。

 さらにもう一つ。結依は昼食の前に、学校の先生に連絡をしてくれたそうだ。

 児童生徒は夏休みだが先生はいらっしゃったようで、〈ヤマガミ様〉にまつわる話を聞かせてほしいという突然のお願いにも快くOKしてくれたらしい。

「何でもちょうど、同じような話を聞きたいって旅行者と学校で会うことになってるんだって」

 一歩先を歩く結依が、後ろを振り返りながら言う。

 もしかすると、その旅行者って風早青年ではないだろうか。

 ともかく、学校訪問は午後三時というスケジュールになった。


 しばらく、つづら折りをだらだらと登っていくと、昨夜は気づかなかった分かれ道があった。

 結依が右の道を指さして、

「さっき話した、一般の行者や巡礼者が使う御籠堂が、その先にあるの」

 と説明しながら、左の道に入っていく。

 木々で日光が遮られるものの、身にまとわりつく空気の熱さは、やはり夜とは違う。

 むせるような草いきれがこもる山道を登っていくと、思いのほか早く行く手に緋籠堂が見えてきた。昨夜に比べて、時間がかかっていないように感じる。すでに一度、足を運んでいるせいかもしれない。

「なるほど、あれが緋籠堂か」

 汗を拭いながら翔吾が一人つぶやく。

 真夏の陽光のもとで、改めて緋籠堂の全容が確認できた。間口六メートル、奥行き十メートルというところだろうか。

 前面の入口は、昨夜見たとおり両開きの引き戸になっている。両側の壁には格子窓が開けられており、夏場は換気、冬場は外気を遮断できるように雨戸の開閉もできる造りのようだ。

 五段の木製の階段を上がって、正面入口の両開き戸の前に立つ。

 開き戸の把手には鎖が結わえられ、それを南京錠の掛け金で止めるという方法で施錠されている。

 昨夜、姉妹がここを去る時は鍵はかけていなかったので、施錠したのは、さっき警察の現場検証に立ち会ったという成隆氏だろう。あるいは、昨夜、姉妹が去った後に現れた正体不明の人物かもしれない。となると、その正体不明者は南京錠の鍵を持っていたことになり、そうなると身許はかなり絞り込まれるわけだが。

 その問題の鍵──おそらく母屋で保管しているのだろう──を、結依が懐から取り出し、南京錠を開けた。ほどいた鎖を把手に引っかける。それから両手でそれぞれ左右の把手をつかんで、ゆっくりと開き戸を開けた。

 いよいよ結依の後から薄暗い堂内に足を踏み入れる。

 中に入ると、木材と畳の香りが鼻腔をついた。

 入口に続くのは小さな三和土である。予想していたことだが、やはりお祖母さんのものらしい草履は見当たらない。

「昨日、二人でここに入ってきた時、草履があったかどうか、覚えていないのかい?」

 俺が問うと、結依は昨夜の情景を脳裏に甦らせている様子で、しばし沈黙していたが、

「昨夜はわたしも舞依も平静じゃなかったから、確かとは言いにくいんだけど、婆様の草履はなかったように思うわ」

「すると、どういうことになるんだ?」

 結依の答えを受けて翔吾が頭を振りながら、

「お祖母さんは裸足でここまで歩いてきた?……んなわけはないよな」

「あるいは……推理小説的発想だけど、他の場所で殺されて、ここに運び込まれた、とか?」

 今ふと思いついたことを俺が口にすると、二人は弾かれたようにこちらを見た。

「他の場所って……?」

 結依が探るような目つきで問う。

「例えば、母屋」

 俺の指摘に結依は眼を見開いた。

「結依さんたちがここで遺体を発見するよりも、もっと早い時刻にお祖母さんは母屋に戻って殺されていたと仮定したら? そして、犯人は遺体をここへ運んでくる時に草履を持ってくるのを忘れてしまった……」

 と得意気にまくしたてている途中で、矛盾に気づいてしまった。

「いや、ダメだ。見つけた時には遺体はまだ温かかったって言ったよな。殺害から発見まで、そんなに時間が経っているはずがない」

「それに母屋で殺されただなんて、そんなの……」

 硬い声色で独り言ちた結依の横顔が、心なしか強張っている。さすがに自分たちの生活の拠点を殺害現場と考えるには抵抗があるのだろう。それに俺の発言は、突き詰めれば「家族の中に犯人がいる」と言っているようなものだからな。

 結依は少し気を悪くしたようだ。

 三和土から畳敷きに上がったすぐのところに、御簾が垂れ下がっている。

 その内側には座布団が無造作に投げ敷かれており、座布団の向こうには曰くありげな祭壇が堂々と鎮座していた。本来であれば、座布団は祭壇に向かって正面中央あたりに敷かれるべきものだろうが、殺害時に犯人と被害者が格闘して蹴飛ばすか何かしたのであろう、大きく左のほうに外れてしまっている。もっとも、事件当時の状況がそのまま保存されているのであればの話だが。

 堂内の照明器具は、吊り下げ式の灯油ランプが一つと、祭壇上の雪洞ぼんぼりが二基。灯油ランプは、天井からぶら下がった細長い金具に引っ掛けられるようになっている。

 昨夜、ぼんやりと闇に滲むように堂内から洩れていた灯りの光源は、このランプだったというわけだ。

 今度は上から下に視線を下ろし、ついでにしゃがみ込む。這うようにして目の粗い畳も調べてみたが、血の痕らしきものはどこにも見当たらない。

 再度、視線を上げて狭い堂内を見渡すと、複雑な装飾が施された祭壇の右奥に襖が見えた。

「向こうにも部屋があるんだ」

 何気なく洩らした俺のつぶやきに、結依が反応した。

「ああ、襖の向こうね。物置になってるのよ」

 物置か。それもそうだ。建物全体の寸法から考えると、それほど大きな空間が祭壇の向こう側に広がっているわけがない。

「一応、調べてみるか」

 誰にともなく声をかけると、翔吾が無言で頷き、先に立って襖を開けた。

 彼の肩越しに内部を覗くと、窓がないのか真っ暗だ。少し足を踏み入れると、空気がねっとりと澱んでいて暑苦しい。もっとも、こちらは建物の裏手にあたり、外にはすぐ山肌が迫っているのだから、窓を開けてもあまり意味はないのだろう。

 結依が、手にした紙袋の中から懐中電灯を取り出し、スイッチを入れた。一条の光を中心に、ぼんやりと周囲の様子が浮かび上がる。

 物置は奥行き二メートルほどの板張りの狭い空間だった。

 入口正面には、右の板壁に接するように灯油缶と手動式の簡易ポンプが置いてある。照明用のランプに使うものだろう。

 その横には古めかしい箪笥、さらにその左奥には大きな長持ちがあった。幼い頃、曾祖母の家で見たことがある。確か畳紙たとうしとかいう紙に包まれた着物や帯を、重ねて収納してあったっけな。

 長持ちの反対側、祭壇の間と物置を隔てる壁を背にして、布団や枕といった夜具が数人分、積み上げられている。

 ひと通りあちらこちらに目を向けてみたが、やはり草履など見当たらないし、これといった発見もない。

「緋籠堂の中で調べるところは……このくらいね」

「じゃ、残るはこの周りだな」

 堂内での成果はあまり期待していなかったので、俺たちはそれほど落胆もせず、外に出た。

 緋籠堂の周囲には、背の低い雑草が一面に生えているだけだ。

 母屋の裏手からここまで続いてきた山道は、建物の右側で草むらに紛れるように途切れている。昨夜は様子がわからなかったその先は、緩やかな崖というか、灌木の茂った上り斜面になっていた。ところどころ土の地肌が覗いている。

 御堂の周りは歩くのには問題ないが、建物の裏側だけは、基礎の部分からすぐに上りの崖が始まっているため、足を斜面にとられて歩きにくい。

 緋籠堂の外側を一周してみたが、やはり草履は見当たらなかった。

 結論を先延ばししたくて未練がましく、床下を覗いてみる。通常の神社建築と同様に床が高く張られているので、床下の空間は広い。

 床を支えるための短い柱である床束と根がらみ貫の間から床下に目を凝らしてみたが、視界の届く範囲に草履らしいものを見つけることはできなかった。

「やっぱり見つからないな、草履は……」

 翔吾が汗を拭いながら、ため息をつく。

 こうなったら、いよいよ結依に用意してもらったものを使うしかない……か。

 躊躇しながらも、結依に目で合図を送る。

 意図を了解したらしい結依が、紙袋の口を開けて中身を見せながら袋ごと俺に手渡した。怪訝な表情の翔吾に、俺が説明を加える。

「お祖母さんが以前履いていた古い草履だよ。これを崖から投げ捨てて……事故を装う」

 翔吾は呆れたように

「証拠隠滅……じゃない、捜査攪乱じゃないか」

「事故で落ち着きそうな流れだけど、あれでも警察の方の方針が変わって、草履を捜索しろってことになるかもしれないからな」

「いいのかよ、そんなことまでして」

「いいわきゃないだろ。けど、念には念を入れよ、だ」

「素人が下手な工作なんかすると、藪蛇になるかもしれんぜ」

 かなり際どいやり取りを交わしながら、緋籠堂西側の原っぱを横切り、昨夜、姉妹が遺体を投棄した崖に着いた。

 高所恐怖症なので、怖いのを我慢しながら崖のきわまで恐る恐る近づき、首を伸ばして下を覗いてみる。

 思ったよりも急な崖だ。重量物だと、それ自体の重みで簡単に下まで落ちていくことだろう。ただ、崖の斜面には丈の短い灌木や雑草が茂っているため、草履程度の重さの場合、軽く放っただけだと途中で引っかかってしまう恐れがある。茂みに視界を遮られて、下を流れているはずの川も目にすることができない。

 事故説を補強するための証拠だから誰かに見つけてもらわないと意味がないのだが、あまり強引な細工を重ねると、翔吾の言うように藪蛇になりかねない。

 指紋をつけないように、周到にも結依が用意してくれた軍手を右手につけて、袋の中から草履を取り出した。赤い鼻緒で本体が畳表風の薄茶色の草履である。

 確認の意を込めて結依の顔を見ると、彼女は無言で一つ頷いた。翔吾はというと、もう諦めたような表情だ。

 左右両方の草履を右手で鷲づかみにし、後ろに下がって少し助走をつけながら野球の遠投よろしく下方に思い切り放り投げた。二つの草履は何だか頼りなさげに、ほぼ同じ軌道を描きながら落下していき、崖にへばりつく灌木の枝葉に隠れて見えなくなった。


 大っぴらにはできない大仕事を終え、徒労感と奇妙な成就感を抱きつつ、俺たち三人は緋籠堂を後にした。矛盾した複雑な感情に翻弄されながら、ほとんど無言で山道を下る。

 坂をほぼ下りきって、ちょうど母屋の裏側が視界に入ったところで、参集殿の隣にある祭具殿の正面扉から、いきなり誰かが出てきた。

 成隆氏だった。

 何の遮蔽物も置かないまま、お互いがもろに相手の姿を視認することになってしまった。

 双方ともに一瞬凝固して、とっさに言葉が出てこない。特に俺たちは、避けなければならなかった人目に微妙な場面を見られてしまったことに戸惑い、動揺を隠せなった。

 先に口を開いたのは成隆氏である。

「結依さん、緋籠堂に行っとったんか?」

 結依は狼狽の様子を見せながら、

「ええ……っと、珍しいものだから、みんなを案内して……」

 しどろもどろの受け答えを聞いても、成隆氏はあまり表情を変えないまま、

「婆様の件でさっき警察が調べた後じゃけ、しばらくはあの辺りをうろうろせんほうがええ」

 そう言い捨てると、感情の読みとれない一瞥を俺たちに投げかけて、成隆氏は参集殿のほうに歩いていった。

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