第11話 晴天

 娘は寒さをものともしない。ベビーカーから身を乗り出して、壁や手すりや落ち葉や幹や電柱やら吹きたまった隅の雪やらにまで興味を示す。手袋に包まれた手を伸ばしては触れない距離を不思議がる。

 真冬でも晴天ならば日のあるところは気持ちが良い。とはいえ、木枯らしが吹く地上には他に散歩の影もない。私は嫌いではなくて、娘も嫌がる様子はない。だから毎日、上がってくる。

 送風口管理建屋の工事車両が歩道をしっぱりふさいでいる。二人きりでのんびり待つ。作業員の礼へ軽く返して誘導のまま道をゆく。昨日も娘と二人、雨の降りそうな空を見ながら、工事車両が入っていくのを待っていた。一昨日は作業中を迂回した。点検工事は日常で、信号でも付ければ良いのにとそろそろ思う。

 歩道を行く。程なく現れる遊歩道へと進路を取る。道の脇にベビーカーを少し避けて、娘を抱き上げ、先へ進む。

 遊歩道は自然観察林の名があった。地下都市の地上部分、農場、工場、集光施設などの合間に設けられた緑地帯とも言える場所だ。熱が地面にたまるのを防ぐためだとか、人工物に囲まれた地下都市住まいの人々が憩う場所だとか言われている。

 とはいえ、真冬の時期に積極的に来たい場所ではないのだろう。風邪が雑木林を抜ける音が、娘の声を彩っている。

 昨夜降った雪の名残が足元を濡らし私を滑らせようと待ち構え、木々の合間に残っていた。私は足元を注意しながら歩を進める。これはこれで神経を使うのが悪くない。

「ほのちゃん、楽しい?」

 あーとか、うーとか、ぱーだとか。声を上げては手を伸ばす。

「葉っぱ。葉っぱだよー」

 ぱっぱ! 

「白いのは雪ねー」

 きー。

「そう。ゆーき」

 うーき!

「言えたねー」

 一〇キロ弱の娘は決して軽くはない。それでも、私は抱いたままで先を進む。

 少しばかり細くなり、少しばかり上っていく。遊歩道の折り返しは少し広場になっている。そこまで、息を切らせて娘を抱えて歩いていくのがトレーニングを兼ねた日課だった。


 選考書類は提出していた。吾川は険しい顔をしながらも、先に進めると受け取った。

 私はまだ迷っていた。経験者の書くエッセイを読んだ。NASAの技術者の論文を読んだ。月面基地の後悔されている画像・映像を見ることが増えた。月面へ行きたいと願う人々のコミュニティーを覗くこともあった。

 作業者として望まれることとは何か。私のスキルと照らし合わせて、私は何ができるのか。私が月へと想いを持ち込む事として。それはプラスになるのだろうか。


 細道を歩いていく。娘は僅かな興奮で小さな足をばたつかせる。小さな手が私の冷たい頬を叩く。横目で巡らせば、手袋がない。

「ほのちゃん、手袋どうしたの」

 あー、あー。

 判っているのかいないのか。手をもぞもぞと動かしている。冷たくなったとは理解しているかもしれないが、余り気にした様子はなかった。

 来た道をのんびり戻っていく。少しばかり気温が高くなっていた。足元は更にぬかるんでいく。体重位置を意識しながら、砂利道と降り積もり木の葉を意識しながら、歩いていく。

 一〇メートルも戻っただろうか。小さな黄色い手袋がぽつんぽつんと落ちていた。

「ほのちゃん、あったよー!」

 娘を抱えたまま腰を落とし。バランス取りに失敗した。

 盛大に尻餅をつく。一瞬遅れて娘の小さな手が肩口をぎゅっと掴む。

「びっくり、した?」

 娘をそっと地面に立たせる。手袋を拾い立ち上がる。娘を抱え上げ直そうとして、盛大に尻と手が汚れているのに気が付いた。

 荷物からタオルを取り出す。自分の手を拭き、娘を抱え、林の奥へと顔を向けた。

「水道、あったよね……?」

 娘はよほどびっくりしたか。抱え上げると肩口のコートを掴み直し、ふえぇと声を上げ始めた。

 ごめんごめん。泣かせたままで先を行く。泣きたいのだろうし、泣いているのだし、気にする人など此処にはいないし、木々の合間に響くだけだ。

 歩道の先、太い木の枝風のブロックで作られた階段の上が折り返しの広場だった。広場には数本の道が繋がっていた。奥へ行けば人工の池があるはずで、入った道の右隣からはエレベータを過ぎた先、もう一本の出入り口へと繋がっていた。

「あぁ、あった」

 ぐずぐずと涙と鼻水で顔を冷たくしている娘を下ろす。裾に掴まらせ、蛇口を捻る。冷たい水がほとばしり、娘は私の足を回り込んだ。

 水道水は想像していた通りに冷たく、そしてどこか錆っぽい。肩をすくめて手を洗い、タオルで拭き取る。そうして綺麗なタオルを取り出し、娘の顔を拭いてやり。

 ふと。

 木立の隙間、晴天の向こう、白々とこちらを見下ろす、月を、見た。


 金属製の水道管は劣化と共に錆びていく。

 使われなくなれば錆が溜まり。錆の匂いを感じたならば錆の除去やら検査やら、適切な処置が求められる。劣化が進めば勿論問題が出てくるものだ。


 娘を抱え、来た道を戻る。足元にだけ気をつけて、ベビーカーを回収する。

 送風口建屋の前を過ぎる。エレベーター前で地下都市の点検工事の予定を見る。

 地下都市は毎週、毎日、どこかしらで点検工事を進めている。送風口、上水道下水道、最下層の水処理施設、エレベーターに階段補修、電気設備、配管設備。

 水道が錆っぽい。風がどうにもほこりっぽい。カビの匂い。害虫発生。住民から寄せられる苦情対応も含めると、日曜すらも休みはない。

 管理組織が計画立て苦情に向き合い、日々。

 ――その稼動は、それだけで会社組織が興るほど。


「ただいま」

 帰宅する。迎えた徹にほのかを預ける。コートを脱ぎ、端末に向かう。

 メーラーを開く。吾川のアドレスを選択する。

『月面基地の点検工事の履歴を知りたい。入手できるかしら』

 送信ボタンをクリックし。そして、大きく溜息がでた。


 もし。初期の月面基地要員に余裕がなかったとしたら。

 もし。センサーなどの僅かな機器の使うエネルギーすら惜しまれることがあったなら。

 もし。機械的なセンサーよりも、効率の良い、ものがあったとしたら。

 もし。いち早く苦情を言う存在があったなら。

 もし。


 自律して動き文句を言う、金糸雀が存在したら。


 メーラーは沈黙している。

 私はコーヒーを受け取って。

 熱い熱い液体が、冷えた身体を温めていく。

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