二章 夢と現

 七年前。

 それが〈死神グリム・リーパー〉の誕生した年だ。肉体は十七歳の少年に相応な成長を続けているものの、〈死神グリム・リーパー〉となる以前の記憶は、ほとんど残されていない。


 心とともに、記憶も喰われたからだ。


 七年前エックスデイは、彼が〈黒犬ブラック・ドッグ〉と化した日でもあった。如何いかなる理由からか絶望し、黒い粒子ダークマタに心身を支配されたのだ。

 絶望のくびきを、如何にして脱したのかは判らない。彼の中の何かが闇を拒絶し、克服こくふくした事だけは確かだ。


 あるいはことにかかわりがあるのかもしれない。


 希望もなければ、絶望もまたもたないのが彼ら――〈虚無エンプティ〉という生き物だ。人の心を喰らいはしないが、黒い粒子ダークマタを操り、それとは別種の異能を司る。人の形をした化け物たち――。


「……」


 報告書の作成を終えた〈死神グリム・リーパー〉は、カーテンの隙間すきまから細く射しこんだ光を見た。埃のパーティクルが現れては消えてゆくのを眺めていると、昂った神経が鎮まる。

 やがて〈死神グリム・リーパー〉は身体の芯に淀んだ疲れを自覚しはじめた。休むことも狩人としての務めだ。古びたパイプベッドへ横になり、瞼が閉じるままに任せた。


 こうしている時間だけが、ゆいいつ彼を彼たらしめた。


 心を黒く塗りつぶされた〈虚無エンプティ〉にも、しかし僅かに人の名残というものはある。

 模糊としておぼろな記憶でしかないものの、瞼を閉じたやさしい闇の中には、声が聞こえていた。

 快活な少女の声だった。

 それが彼を眠りにいざなう安らかなしるべだった。


『誰も――を信じなくても、あたしが必ず信じてあげる』


 眼裏まなうらつむぎだされていくのは、少女の姿だ。顔だけを白く塗りつぶされた、のっぺらぼうの少女。小さくてやわらかそうな手が、セピア色の視野にさし伸べられる。


『だって――は、あたしのヒーローだから!』


 ヒーロー。

 そんな陳腐な言葉が、何故か甘美かんびひびきに感じられた。

 漆黒の心に、赫々かくかくと光が射すような。

 どこからか忘れてしまった心を引きずりだされるような錯覚さっかくをおぼえた。


 今更、人にもどりたいと思うわけではない。渇望かつぼうまで、記憶と一緒に蘇ってはくれない。


 それでも彼女の声や言葉を思い出すたび、人間らしい安らぎを覚えた。

 作業じみた眠りより、心地好い微睡まどろみおぼれたいと。夢現ゆめうつつの自分は譫言うわごとをくり返す――。


 ピピピッ。


 しかしその瞬間、彼の夢は破られた。通信端末のやかましい通知音が、彼を狩人に戻らせた。〈死神グリム・リーパー〉は端末を耳にあてがった。


『こちら〈紫煙スモーカー〉』


 聞こえてきたのは女のものだったが、記憶の少女とは似ても似つかないしわがれ声ハスキーボイスだった。


「こちら〈死神グリム・リーパー〉」

『出撃だ』


 訊ねる間もなく、要件は告げられた。彼女も〈虚無エンプティ〉である以上、枕詞で相手の機嫌をうかがう配慮など持ち合わせていない。緊急事態であろうとなかろうと事務的に振る舞う。


「ポイントは?」

はや瀬川せがわ高校』

「被害状況は?」

『現在、〈ノートゥ〉は確認されていない』


黒犬ブラック・ドッグ〉は宿主の憂鬱に宿って発現し、他者の精神を喰らうことで成長する。〈ノートゥ〉は、その過程で精神をむしりとられ廃人となった者だ。

虚無エンプティ〉の役割とは、この〈ノートゥ〉被害を最小限にとどめることにある。即ち、早急な駆除を求められている。


死神グリム・リーパー〉は、黙々とカーボンファイバースーツを身につけながら言った。


「だが、学校は人口密度が高い。〈猟犬ハウンド〉に成長する恐れがある」

『すでに〈拳闘士グラップラー〉、〈星光ティンクル〉が現地に向かっている』

了解オーケー。じきに俺もでる。お前は、索敵を継続けいぞくしろ」

了解オーケー


 この短時間のうちに〈死神グリム・リーパー〉は、フルフェイスメット、ロングコート、黒手袋、警棒収納ホルスターにワイヤーフックまで、ほぼすべての装備を装着し終えていた。


 無論、迅速な行動の裏に、人心救助の大義はない。彼らはあくまで組織から下された生き方めいれいに従っているだけだ。〈虚無エンプティ〉とは、そのような外部からの干渉がなければ、自ら生きることすらできない抜け殻だった。



――



 現場は騒然そうぜんとしていた。

 グラウンドにあつめられた生徒、教職員らが上げる当惑とうわくの声だ。彼らは、学校の出入口を封鎖ふうさした屈強な男たちに、不安げな一瞥いちべつを投げていた。


 ヘッドギアで目許を隠し、プロテクターで防護をかためた男たちは、見るからに胡乱うろんである。一般市民の目には、さながらテロリストのように見えることだろう。


 にもかかわらず、勇気ある教師の幾人かは、男たちに説明を求めていた。そこに容赦ない暴力がかえることはないものの「危険ですので、指示があるまで待機してください」の一点張りで、納得のいく答えもまた返ってくることはなかった。


 一方、生徒たちはスラックスやスカートが汚れると悪態あくたいをついている。それは恐怖や不安を紛らわす方便でもあったが、同時に、非現実的な出来事イベントに対する期待のあらわれでもあった。


「なになに?」、「コワーい」、「なんかヤバくね?」


 不安を表する言葉とは裏腹うらはらに、声音はハプニングを待ち望んでいるようだ。校則やルールに縛られた若者たちは、常に刺激をもとめていた。


 そんなグラウンドの様子を一瞥した〈死神グリム・リーパー〉は、校舎と体育館の連絡通路――通用口と通用口にベニヤ板をわたしただけの――で足を止めた。そこに悠々ゆうゆうと煙草を吹かす、四十がらみの女を見出したからだった。


「どういうことだ?」


 開口一番、彼はたずねた。

 女は〈死神グリム・リーパー〉を一瞥いちべつすると、疲れたように眼差しを虚空こくうへと転じた。


「……解らん。報告した通りだ。突然、〈黒犬ブラック・ドッグ〉の気配が消えた」


 そう言うと女は、煙草をふかく吸いこんだ。顔をしかめ煙を吐けば、中で黒い粒子ダークマタがまたたいた。


「索敵は?」

継続けいぞく中だが、〈黒犬ブラック・ドッグ〉らしき反応は確認できない」

「逃げられたのか?」


 訊ねると〈紫煙スモーカー〉は首を傾げた。


「そうとも言えるな。だが、足が追い付かなかったというわけではない。忽然こつぜんと消えた。移動の痕跡こんせきすら認められず消失した」


死神グリム・リーパー〉は相棒バディ怪訝けげんに見つめた。だが感情の涸れた〈虚無エンプティ〉が嘘をくとは思えない。


「被害状況に変化は?」

「調査中だが、今のところ〈ノートゥ〉は確認していない。そのような報告もない。学校側には点呼を呼びかけている。詳細しょうさいは、おのずと把握はあくできるだろう」

「……」


死神グリム・リーパー〉は沈黙した。これ以上訊ねることはないと判断した。彼女の言葉どおり、じきに状況は明らかとなる。それまでは待機するより他にない。


 本案件をどう取り扱うかは、〈黒犬ブラック・ドッグ〉討滅機関――白犬ホワイト・ドッグが判断することだ。〈死神グリム・リーパー〉が、わざわざ出しゃばって推理する必要はない。社会はすべからく人間の判断によって動かされるのだから。〈虚無どうぐ〉は、その意向に従ってさえいればいい。


 万が一の事態を考慮し、二人はその場に留まった。

 携帯灰皿に煙草をつっこんだ〈紫煙スモーカー〉は、次の煙草を抜いた。キンとジッポが鳴けば、フィルターに暗い火がくすぶった。

 そして、きだす煙を吸いこむと女は、


「ゲハッ……! ゴホ、ゴホッ!」


 むせた。


因果いんがなものだな」


紫煙スモーカー〉は煙草が苦手なのだ。

虚無エンプティ〉と言えど、感情は皆無でなく好悪こうおもある。あるいは肉体のほうが苦楽を覚えている。


「ゴホッ……。仕方がない。これが私の役割だ。それよりも一つみょうな事があった」


 胸をでながら、〈紫煙スモーカー〉がふいに切りだした。

死神グリム・リーパー〉は沈黙で先をうながした。


「〈黒犬ブラック・ドッグ〉の気配が消えたとき、その近辺、あるいは同座標に人体の生体反応を確認できた」


黒犬ブラック・ドッグ〉は五感のうち触覚しかもたない。その機能をになうのが黒い粒子ダークマタであり、それを拡散させることによって周囲の状況を三次元的に把握している。


紫煙スモーカー〉の索敵能力は、その性質を利用したものだ。煙草のけむりを操る彼女の異能は、煙に粒子をさせることで、広域な索敵網の展開を可能にする。

 しかしそれは裏を返せば、取得可能な情報が触覚的なものに限られることを意味する。あらかじめ高濃度の黒い粒子ダークマタを展開しておかなければ、正確な位置を割り出すことも難しかった。


「それらが〈黒犬ブラック・ドッグ〉と関係しているのは間違いないだろう。候補は三人の女生徒だ。現在もマークしているが、〈黒犬ブラック・ドッグ〉の反応は見られない。精神状態にも極端きょくたんな変動はないようだ」

「なるほどな……」


 彼女が妙だと言った理由は明白だった。

黒犬ブラック・ドッグ〉が突如とつじょ消失したとなれば、考えられる要因は一つしかない。しかし――。

死神グリム・リーパー〉は己の手を見下ろし、じわじわと黒い粒子ダークマタ粟立あわだたせた。


「〈虚無エンプティ〉として覚醒かくせいした線は考えられないわけだ」

「ああ、だが一度は反応がしょうじた以上、放置はできんだろう」

「ああ」


 なんとも不可解な事件だった。

虚無エンプティ〉とて細やかな驚きを自覚するほどだ。このような事象には前例がない。


「局長には?」

「報告済みだ」

「……」


 しかし沈黙の直前に発せられたのは、やはり事務的な確認にぎなかった。

 狩人は職分を侵さず、組織の判断を待った。


「はーい、みんな静かに」


 命令は間もなく〈死神グリム・リーパー〉の許へ届けられた。

 彼は大人のあとに付き従いながら、とある室内に足を踏み入れた。

 そこに待ち受けていたのは、一様に座した三十名ばかりの少年少女――。


「もう知ってる奴もいるかもしれんが、今日から彼がお前らと苦楽を共にすることになる。転入生のぉ……ん、自己紹介たのむ」


 ここまで〈死神グリム・リーパー〉を先導してきた教師が、気安く彼の肩をたたいた。〈死神グリム・リーパー〉は緊張した風を装ってはにかんだ。

 

「えっと、永田ながた裕司ゆうじと言います。仲良くしてくれると嬉しいです。これから、よろしくお願いします」


 そして、改めて生徒たちを見渡す。

 その中に、事前に記憶した三つの顔があるのを認めた。


紫煙スモーカー〉がマークした、例の三人の少女だ。


 クラスメイトとして校内に潜入し、彼女らの動向を監視する――それが〈死神グリム・リーパー〉の許に届けられた新たな任務であった。

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