第14話 愛情と友情は用法用量を守って正しくお使いください(2)

「へえ、ふうん、そうなんですか、なるほどねえ。……だったらいっそのこと、記憶喪失になってみたらどうですか?」


 わたしがその記憶、全部奪ってさしあげますよ。ほら、一発グーで殴ればどうとでもなりますしね。意外と力があるのですよ、わたし。


 ドアの隙間から、ぬっと顔を覗かせたときでした。

 ガターン、といいますか、ドスーン、といいますか、まるでなにか大きなものが落下したみたいなものすごい物音が部屋の中から聞こえてきました。もしかして、ひなたがベッドから落っこちたのでしょうか? あらあら、そうだとしたら大変ですね。今すぐ助けてあげないと。だって意識が朦朧としているのでしょう? なら一刻も早く救出しなければいけませんね。ひなたの命が危険にさらされるやもしれません。死因が「ベッドからの転落死」だなんて悲しすぎます。いちばん親しい友人としては断固として阻止してあげたいところです。


 ということで、わたしはひなたの部屋のドアを断りもなしに大きく開け、中へとずんずん入っていきました。そこにあったのは、グレーの部屋着を身にまとい、頭から真っ逆さまに床へ落ちて、だけど下半身はベッドにもたれかかって、目を丸くしながらじっとこちらを見つめてくる――ひなたの姿でした。

 あは、なんだかその落ち方、器用ですね。ある意味お見事です。さすがスポーツ万能、期待のエース。落下の姿勢まで美しいなんて妬けちゃいますよ、……本当にね。


 わたしは人差し指で自分の顎を指しながら、わざとらしく言います。


「さて、今の落下の衝撃で、もしかしたら頭の中身がすっぽりと抜けてしまったかもしれませんね。大丈夫でしょうか、とってもとっても心配です。少し確かめてみましょうか。……そうですね、いちたすいちは?」

「……に?」


 そのとおりです。確かにそのとおりなのですが……答えるまでに少々ブランクがあったのが気になります。もしかしたら本当に頭を打ったのかもしれません。ふたつ目の問題も出してみましょう。


「では、次に、わたしがお風呂に入ったときにいちばん最初に洗う部位はどこ?」

「おっぱ……いや、髪の毛だ」


 そうです、髪の毛です。

 まだ母と一緒にお風呂に入っていた幼い頃、母はいつもわたしの胸から先に洗ってくれました。心臓の部分に、くるくる円を描くように、優しく優しく撫でながら。「沙雫がいい子で育つおまじない」だそうです。わたしは、それが好きでした。好きだったから、自分一人でお風呂に入るときにも、自然と胸から洗う癖がつきました。しかし、あれは確かお泊まり保育のときでしたかね。同じクラスのお友達に、「胸から洗うなんて変なのー」、「沙雫ちゃんっていろいろとおかしいよねー」と笑われました。くすくすと、けらけらと。ほら、子どもって無自覚に人を傷つけるじゃないですか。悪気なく純粋に残酷で。いじめるつもりなんて、ちっともなかったんでしょうけど。そのときわたしも、「べつにいいじゃんなんだって」と言えればよかったのですけれど……まあ、言えませんでしたね。幼いわたしは、ただただショックを受けました。

 ……それからというもの、洗う順番は、髪がいちばん先。だから、ひなたは合っています。うん、まあ、一瞬おっぱいと言いかけたような気がしますが、気にしません。しかも即答だった気がしないでもないですが、絶対に気にしません。誰にも言っていないはずなのにひなたはなぜ知っていたのかと考えると、どこからか犯罪のにおいがぷんぷんしはじめるので、なにがなんでも気にしません。


 とにもかくにも、第二問も正解のようです。


「それじゃあ、最後の問題です。……ひなた、わたしが誰だかわかりますか?」


 ひなたは目をぱちぱちとしばたかせます。

 そして、恐る恐る声に出し、いつも呼んでいるその名前を呟きました。


「……さ、さな……?」


 ふむ。


「お見事。全問正解です。脳みそはなんとか無事のようですね。安心しました」


 一度深く頷いて、逆さまのひなたを真上から見下ろしました。


「……あのね、もうちょっとマシな嘘をついたらどうですか。なんなんですか、さっきの。まったくもって『四十度以上の熱があって意識が朦朧としている』ようには見えませんけれど」


 ひなたは依然として逆さまのまま、じっと黙っています。……いえ、押し黙っています。

 わたしはその場に腰を下ろしました。膝を抱え、目をそらすひなたの顔を覗きこみます。


「風邪、ひいたんですって?」

「…………」

「それ、完全にわたしからうつったものですよね?」

「違う」

「そうですよ。わたし、まだ病み上がりだったんですよ。……なのに、あのときキスなんてするから」


 言い終えると、ひなたはゆっくりと体の向きを変え、のそりと起き上がりました。それから床にちょこんと正座をし、まるでいじけた子どものようにくちびるをとがらせます。


「なんですか、その顔は。言いたいことがあるのなら、はっきり言ったらどうです? それとも、なんですか、言えないのですか? ちゃんと口があるのに? あらあら、言葉も喋れないなんてまるで赤ちゃんみたいですねえ。ねえ、ひなちゃーん」


 言葉ではそう言いながらも、心の中でしゅんとします。

 だって、喧嘩を売りに来たわけじゃないのです。

 わたしはただ、ひなたに会いたくて――純粋に、会いたくて、来たのに。

 ああ、なんでわたしはこんなに……あまのじゃくなんでしょう。自分に嫌気がさします。こんなんじゃ、ひなたに嫌われたっておかしくありません。……最低です。


 ひなたはふてくされた表情をし、そっと口を開きます。


「言いたいことなら、たくさんある」

「じゃあ言ってください」


 ひなたの瞳は、わたしをとらえます。

 しかし、ふいと目をそらし、考えるようにうつむいて、もう一度ひなたはわたしを見ました。わたしのほうが、そらしたくなるくらいに――真っ直ぐな眼差しで。


「キスしたこと、僕は後悔してないよ」

「わたしは後悔してますよ」

「僕とするのは嫌だった?」

「嫌ではありませんが、突然でした」

「事前に断りをいれていたらよかったの?」

「考える余地はありました」


 淡々と答えていくと、ひなたは今度こそ不機嫌を全面に出した表情をします。そして一言、「嘘ばっかりだ」と呟きました。心外です。わたしがいつ他にどんな嘘をつきましたか。A4用紙三枚ほどにまとめて詳しく教えてほしいところです。


「……ひなた」

「わかった。もうわかったよ。沙雫は僕の想いが迷惑なんだろう。うざったいんだろう。だったら、もういい。もう僕は沙雫にはいっさい触れないし、話もしない。電話もしないし……会わない。それでいいんだろう」


 ああ、もう。どうしてそうなるのですか。

 そういうところ、昔から全然変わっていませんよね。

 ひなたは大げさなのですよ。今までも何度かこういうことがありました。こうして言い合えば、「もういい」と、「話さなければいいんだろう」と、そればっかり。それで最後には――「会わない」と言うんです。昔から。

 あーあ、呆れて溜め息が出てしまいますね。


「わたしはひなたが好きですよ」


 はっとする、ひなたの顔。

 しかし、すぐにまたむっつりと目を細めた表情へ戻ります。


「だから、それは……友達として、だろう」

「もちろんそうです。だけど、普通の友人以上には好きだし、大切に思っています。わたしにはひなたがいないとだめです。どうしようもなく空っぽになってしまいます。つまんなくて、真っ白で、誰にも必要とされない人間になってしまいます。ねえ、わかりますか。あなたには、本当に……感謝しきれないほど、感謝しているのですよ。わたしは、ひなたがいるから赤く色づいていられる」


 できるだけ優しい声音で言いました。それから、声が震えないように。わたしのほうが先に泣いてしまわないように。……そっと心の中でだけ、気合いを入れて。

 ひなたの頭をそっと撫でます。指のあいだから、さらりと髪が流れ落ちていきます。

 今にも泣き出しそうな横顔。揺れるまつげ。震えるくちびる。大丈夫、わたし、ちゃんとわかっているつもりですから。みんなのヒーローであるひなたの心は、本当は誰よりもなによりも壊れやすくて、もろくて、繊細で、……いちばん守ってあげなきゃいけないんだって。


「愛情と友情は別物です。ひなたの想いをやすやすと受け取ってしまって、友情を愛情にすり替えるようなことは、わたしにはできません。それは、ひなたのことが大事だから。大切で、大好きだからこそ、傷つけたくないのです。……わかってくれますか?」


 捨てられた子犬のような瞳に、わたしが映っています。


「……僕のことが、好き?」

「はい」

「大好き?」

「はい」

「どれくらい?」

「そうですねえ……」


 斜め上に視線をやり、少し考えてから……わたしは、ひなたを見てにっこりと笑みを浮かべました。


「わたしの好きな童話より、もっとずっと、大好きです」


 納得、してくれたんでしょうか。ひなたは、ふっと笑い返してくれました。

 ありがとうございます、ひなた。だからわたしは、あなたが大好きなのです。

 言葉よりも、こっちのほうがよっぽど想いが伝わるはず。そう思い、わたしはそっとその体を抱き締めました。


「ひなた、ごめんなさい。それから……ありがとう」


 言えた。やっと言えました。こんなに短くて簡単な言葉。わたしには難しすぎた言葉。でも、伝えられました。よかった、本当に……。わたしは心の底から……ほっとしました。


 いろいろごたごたとしてしまいましたが、こうしてわたしとひなたの一件は、どうにかこうにか無事解決したというわけです。めでたしめでたし。

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