第13話 ごめんなさい、って言いたくて

 彼女は悪くありません。

 悪いのは、すべてわたしです。

 なにも知らない――いえ、知っているくせに知らんぷりを続けようとしていた、わたしが悪いのです。


 だって、大神さんも言っていました。

「その男は、おまえのことを好きじゃない」と。

 ひなたも同様に言っていました。

「僕は見ているんだよ。この目で、はっきりと、彼の不行跡を」と。


 何度も言われて。何度も、何度も、繰り返しおんなじことを言われて。わかっていました。そうなのかもしれない、と……そんな気がしてしまうと、わたしは胸の奥の奥のもっと奥底のほうで、ひっそりと、そんなことを思ってしまっていました。

 だけど、それでも、信じたかったのです。そんなことはあるはずないと。彼はわたしのことだけが好きなのだと。無理矢理信じて、信じ込ませて、どうにかこうにか気持ちを保っていたのに。――信じていた、のに。


「……真実はどっちなのでしょうか……」


 ぽつりと呟き、枕に顔を押し当てます。

 いえ、違います。最初から全部わかっているんです。真実なんてものは、たったひとつしかないんですから。……わたしがどんなに星に願っても、意味のないことだってことくらい――とうにわかってしまっているんです。


 汽車の中でも、授業中にも、家に帰ってきてからも。……昨日、巨乳ちゃんに言われた言葉が頭の中からずっと離れません。無邪気に笑う声すら、耳の奥にこびりついて取れなくて。彼女は悪くない、悪くないのはちゃんとわかっているのに。……当分は、一緒に帰りたくないなあ、なんて思ってしまって。

 ああ、わたしはなんて心の浅い人間なのでしょう。身長だけに飽き足らず器まで小さいなんて。……最低です。最低の人間なのです。


 うつうつと、もやもやと。わたしの心の中は、ここのところ、ずうっと雨模様です。

 彼氏さんのことはもちろん、大神さんやひなたのことも……いろんなことに悩み過ぎて、なんだかもう疲れてしまいました。最近は安眠することもできていません。体調だって崩しがちです。きっと精神的に参っているのだと思います。だって、どんなに考えたって、今のわたしに解決できることなんて、なにひとつとしてありません。誰かの力を借りなければ……あるいは、借りたとしても……なにも決着がつかないと思うから。

 ……とはいえ、ずっとこのままでいいとも思いません。どうにかしなければ、とは思うのです。これはなにもわたしだけの問題じゃないですから。

 ……ああ、でも、だけど、だからって――。


「あー、もうっ!」


 大きな声を上げながら、枕をぼすぼすと殴ります。枕の形がぼこぼこのぐにゃんぐにゃんになるくらい、何度も何度もグーで殴りつけます。すると、すぐに一階のリビングから「なに大声出してるのっ!」と怒る母の声が聞こえました。わたしは背中の毛を逆立てた子猫みたいに怯え、慌てて「ごめんなさい!」と一階まで聞こえるように謝ります。枕を抱えて、息を潜めました。母が怒って部屋に入って来ないか、足音に耳を澄ませます。母は「まったく、しようのない子……」とぶつぶつ言いながらも、またリビングへ戻っていったようでした。

 ほっとしたわたしは、ごろりとベッドに横になり、小さく息を吐き出します。それから、ぽつんと、ひとりごとを呟きました。


「……なにしてるんでしょうか、わたし」


 近頃はだいぶ情緒不安定です。自分でもわかります。気づけば、ぼーっとしていたり、急に悲しくなってしくしく泣いたり。そんなことばかりを繰り返しています。力が入らないというか、気力が湧かないというか……まさに、心ここにあらず、といった状態でした。

 そんなわたしを見て、母もとても心配しているようでした。隠していたって、悩みがあるなんてことは母にはお見通しなのです。親子ですから。きっと母には、わたしの不安がすべて伝わっているはずです。

 とくに昨日は驚きました。夕飯時、鯖の味噌煮をつついているときです。突然、とっても真剣な眼をして「お母さんはなにがあってもあなたの味方だから」なんて言ってきたのです。あの母がですよ。普段は鬼のように厳しい、あの母が。最初は、なにを言っているんだろうと思いました。でもすぐに、ああ、これはきっとなにかに悩んで暗い顔をしているわたしを安心させようと、そう言ってくれたのだなと気づきました。

 ……つまるところ、そんなことを言わせるほどに、傍から見た今のわたしはもうへとへとよれよれに参っているように見えていたのです。ええ、そりゃあまあ、そこそこ参ってはいましたけど、でも普段は強い母にあんな顔をさせるくらいにひどいなんてことは……思ってもみませんでしたから。


 だからわたしは、久しぶりに母と夜遅くまで話すことにしました。最初はくだらない話をしていましたが、徐々に悩みの種を探るようなことを聞かれるようになりました。母はとくに、学校での生活について聞きたがりました。勉強はどう? 学校は楽しい? 友達はいるの? 本当に、学校は楽しい? ――と、そういうことばかり。なにも隠すようなことはないので、わたしはそれに真摯に答えました。勉強はそこそこついていけています、学校は楽しいです、友達はまあそのそれなりに、だから本当に学校は楽しいです、と。

 そんな話をしていくうちに……母は、どうやらわたしが学校でいじめられているんじゃないかと不安に思っているらしい、ということに気がつきました。ああ、なるほど、そういうことか、と。だからさっき、あんなにしつこいくらいにわたしの学校生活のことを聞いてきたのです。わたしは笑い飛ばしました。なにも心配するようなことはありませんよ、お母さん、と。クラスメイトはみな優しい人ばかりですから。全然大丈夫です、心配ご無用です。さすがにいじめられてはいませんよ。ただ、その、うん、めちゃくちゃ浮いてるだけで。


 とにかく。

 母にそこまでの心配を掛け、さらには自分だってこんな気持ちのままでいるなんて……精神衛生上よくありません。それはわかっています。じゃあ、それなら、やはり動くしかないんじゃないでしょうか。どうにもならなくても、どうにかなるように行動すべきなのではないでしょうか。

 でも、そのためには、一体どうしたらいいのでしょう。もういっそのこと、彼氏さんに訊ねてしまいましょうか。事実確認として。『あなた、わたし以外の人ともお付き合いしているそうですね』と。『こういった噂が流れていますが本当でしょうか』と。そうするのがいちばん手っ取り早いことで……。

 ……ああっ、無理です! そんなこと、やっぱり訊けません。訊けるわけ、ないじゃないですか。


 小さな溜め息をひとつ吐きます。

 わたしは臆病です。だって、自分でも、なんとなくわかっているんです。わかっちゃうんです、嫌でも。

 彼氏さんに問いただしてしまえば――わたしたちはもう終わりなのだと。


 自ら終止符ピリオドは打ちたくありません。好きだから。好きなはず、だから。

 悪あがきだってことは重々承知です。無意味なこととも、わかっています。この期に及んで、とも思います。

 でも、もう少しだけ。

 ほんの少しだけ、彼を信じてみたいのです。


「……また、寂しくなってきました」


 寂しくて。……寂しくて、寂しくて。

 枕をぎゅうっと抱き締めます。

 夜はどうしてもつらいです。ただでさえひとりぼっちのわたしが、もっと孤立していくような気がするから。真っ暗な中に、一人ぽんと置かれて。手を伸ばしたところで、彼氏さんにも、ひなたにも、大神さんにも届かなくて。深い、深い、海の底に沈んでいく感覚。わたしは、人魚姫にはなれっこない。


 こんなときは、誰かとお話がしたいです。他愛もない会話でいい、意味なんてなくてもいいから、話したい。そして……少しのあいだだけでも悩みを忘れてしまいたい。こんなの、ただ現実から逃げているだけだとはわかっているのですけれど。

 ああ、人恋しくて、たまりません。誰かに、会いたい、話したい……。


 ……ひなたは今ごろ、どうしているでしょうか。


 あの日。キスをされた日から……ひなたの顔をまったく見ていません。昨日はわたしのクラスに来ませんでしたし、今日も学校で会うことはありませんでした。つまり丸二日間も会っていないことになります。これは相当なことです。幼い頃から仲の良かったわたしたちは、一日でも会わない日があると、その日は必ず電話をして声を聞いていました。話すことなんて、とくになかったけれど……そうすることが当たり前だったから。

 でも、今は……?

 会わない日、我慢できずに連絡をしてきたり夜に会いにきたりしていたのは、必ずひなたのほうからでした。わたしから求めたことはありません。会いたくなかったわけじゃなくて……それは、きっと、ひなたが来てくれると思っていたから。わたしから行かなくたって、どうせひなたから来るのだろうと思って過ごしていたから。おごり高ぶっていたんです、単純に。昨日だって、どうせ甘えた声で電話を掛けてくるのだろうとばかり思っていました。「会いたいよ、沙雫」って。「僕が間違ってたんだ、ごめん」って。そう言ってくるものだとばかり、思っていて。……ああ、でも違った。違ったんです、全然。そして今日だって……このままだと、終わってしまう。


 ひなたはそれでいいのでしょうか。わたしの声を聞きたくないのでしょうか。話したくないのでしょうか。会いたいとは、思わないのでしょうか。

 ……いけない。違います。また慢心している。思い直して。正直になりましょう、わたし。


 会いたいのは、わたしのほう。

 会いたいです。わたし、ひなたに会いたいです。


 おひさまみたいな、あの笑顔。あたたかな手、やわらかな眼差し。わたしを呼ぶ、あの声も。

 今すぐに会いたい、触れたい、確かめたい。

 そしてなにより――「ごめんなさい」って、言いたいのです。

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