12月23日(日) -9 days to the last day-

走れ!

 ピピピピピッ。ピピピピピッ。ピピピピピッ。


 耳障りな音が聞こえる。


 薄目を開けると、ぼんやりと自分の手が見えた。左手? 右手? もうどっちでもいいや。さっきまで凄く幸せなひと時を過ごしていた気がするのに、どうして邪魔をするんだろう。何をしていたかは覚えてないけど、とにかく楽しかったんだ。戻りたい。目をつむってどこかに帰ろう。


 ピピピピピッ。ピピピピピッ。ピピピピピッ。


 うるさいなあもう。


 身をよじると、少し高い衣擦れの音が聞こえた。ちょうど良いものがあるな。頭から被ってしまえ。なんだかポカポカして気持ちがいい。


 ピピピピピッ。ピピピピピッ。ピピピピピッ。


 でもまだうるさい。


 あまりにもイライラし過ぎて頭が冴えてきた。毎朝のように甲高い電子音を鳴らして邪魔ばかりしやがって。もうちょっと優しく起こせないのか――。


「やばい!」


 目を見開いてガバッと勢いよく飛び起きる。一瞬だけ呆けた後、首をぐるんと回して目覚まし時計を見た。首の骨がパキッと鳴る。完全に目が覚めた。


――九時三分。


 時計を見た瞬間に頭の中で数字が爆発して、複雑な計算式が踊り狂い、数学のテストでは中間点すらもらえないような簡潔さを以て答えが導き出された。


『A.まだ間に合う』


 僕は狂ったように鳴り続ける目覚まし時計に脳天チョップをかまして、スプリングをギギッと大きく軋ませてベッドから飛び降りた。


 部屋のドアを力の限り開け放ち、廊下を駆け抜け、階段を駆け下りて、一目散に洗面所へ向かう。もはや一分一秒も無駄には出来ない。


 シャワーを浴びている暇はないので、洗面台に頭を突っ込んで思いっきり蛇口を捻った。冬の朝の水道水は、かき氷を吐き出しているかのように冷たくて痛い。そのまま顔を洗うと、目の奥がキュッと締まる感覚がして一気に思考がクリアになった。頭から滴る水を無視して顔を上げて、バスタオルを引っ掴んでガシガシと勢いよく水気を取りながら、歯ブラシを手に取って乱暴に歯を磨いた。


 口の中にミントの香りを残しながら自室へとんぼ返りすると、途中、寝室から寝ぼけ眼の母さんが出てきて、「あら光葉、お出かけ?」なんて能天気に声を掛けてきた。昨晩は何時まで呑んでいたんだと余計な考えをよぎらせながら、「うん、そう!」とだけ返事をして自室に飛び込む。


 寝巻のジャージを脱いでからジーパンに足を捻じ込んで、Tシャツとパーカーを頭から被り、靴下を履いてから机の上に置いてある腕時計を手に取った。


――九時十二分。


 オーケー。ここまでは順調だ。少しお腹が痛むので、これからトイレに行くか髪を乾かすかが迷いどころだ。いずれにせよ、九時二十三分に家を出て最寄りの『白明駅はくめいえき』まで突っ走れば、九時四十分発の電車に間に合う。それに乗ることが出来れば九時五十五分には『芝浜駅』に着いて、西口には九時五十八分に到着する。完璧だ。時計の長針が一つ進んだ。


 慌てて腕時計を左腕にはめて、財布とスマホと家の鍵をジーパンのポケットに突っ込んで、廊下へ飛び出る。二階のトイレのドアに手をかけると、「入ってるわ!」と母さんの声が聞こえた。


 僕は「ごめん! 出かけて来るね!」と声をかけて、一気に階段を駆け下りてから一階のトイレに駆け込み、昨晩の豪勢な夕食の成れの果てを思いっきり捻り出した。


――九時二十分。


 スニーカーに足を突っ込んで、玄関脇のクロークに掛けてあるチェスターコートを乱暴に引っ張り、羽織りながら玄関扉の鍵を開けて押し開いた。


――九時二十三分。


 鍵をしっかりと締めてから、足に目いっぱい力を込めて駆け出す。


 走っていると、冬の冷たくて乾いた空気が頬を打ち、しっとりと濡れた髪が乾いて熱を奪った。ただちょっと寒いだけだ。トイレを選択したのは大正解だった。


 日曜の朝の住宅街には、ほとんど人が出歩いていない。ぐんぐんと加速すると、自分がどうしてここまで急いでいるかを考える余裕が出てきた。そんなのは決まっている。楓に会うためだ。この胸の高鳴りは、走っているせいだけじゃない。


 小さな公園を横切ってショートカットすると、ゴールデン・レトリバーを連れたおばさんがベンチに座っていた。


 気分よく「おはようございます!」と声をかけると、おばさんは唖然とした顔で僕を眺め、ゴールデン・レトリバーは「ワンッ!」と一度だけ勢いよく吠えた。


 僕は何だか嬉しくなって、誰かとすれ違う度に挨拶をしてやろうか、と馬鹿なことを思いついて笑った。住宅街を抜けて大通りに出れば人も多くなる。そんなことをしていたら間違いなく不審者だ。


 大通りに出ると信号に捕まった。待っている時間がもどかしい。


――九時三十五分。


 『白明駅』はもう目の前だ。僕のICカードは定期券になっているので、チャージ不足の心配もない。信号が青になった瞬間に、大通りを駆け抜けて駅に飛び込んだ。改札を通ってホームに続く階段を一段飛ばしで駆け上がる。


――九時四十分。


 ホームに丁度到着した電車に乗り込んで、僕はようやく一息ついた。

 

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