林檎が二人 1/2

「それじゃあ、マスター。そろそろ行くよ」


 生気の無い顔をしている千見寺と並んで食器を洗うマスターに声を掛けた。


 マスターは「そうか」と呟いて、蛇口を捻って水を止めてから丁寧にタオルで手を拭うと、傍らに置いてあった包みを僕に渡した。


「クロワッサンといくつかケーキが入ってる。保冷剤は入っているが、寄り道しないで行ってくれよ?」


 僕は中のケーキが崩れないようにそっと受け取って、


「ありがとう、マスター。楓に伝えることある?」


「『イヴは元気に出て来いよ』だ。熱で辛そうにしていたが、楽しみな顔もしていたからな。それに、うちのエースにはきりきりと働いてもらわにゃ困る」


 マスターが優しげににやりと笑う。


「わかった。伝えとくよ」


 僕は頷くと、振り返って食後のブレイクコーヒーをたしなむ部長に、


「すみません、部長。用事があるので先に帰ります」


「そうか、帰るのか。ご苦労だったな。なかなか様になっていたぞ」


 部長は珈琲をすすりながら気の無い返事をした。さすがにあれだけ食べたのだから、無理もない反応だ。クロワッサンの後に、天川と一緒になって追加のケーキとハムエッグサンドまで平らげていた。遥が若干引き気味で、見ていて面白かった。


「ありがとうございます。当日は任せてくださいよ。それじゃ、皆も。お先」


 僕は皆に声を掛けてから、『クロワッサン』を後にした。


 店を出ると、外は既に暗く、吐く息が真っ白になるほど冷え込んでいた。ホワイトクリスマスに向けて、空が準備を始めているのかもしれない。コートの襟を立てて、少しでも冷気を受けないようにしながら駅までの道のりを歩く。途中、果物屋でリンゴを買った。雪の日の帰り道に、楓はリンゴが好きだと言っていた。僕が知る、彼女の数少ない情報の一つだ。


 電車に乗って隣駅の『花木町』で降りる。駅から十五分も歩けば、楓の家に着く。自然と早足になっているのが自分でも分かった。楓の家に行くのはこれで三度目。迷うことなく歩を進める。


 ついこの間までは話すことも出来なかったのに大した進歩だ、と苦笑する。


 ささいなきっかけで転がり出した僕の想いは、どんどん加速して一人では最早止められそうにない。もし、僕の背中を勢いよく押した張本人が知らんぷりを決め込んだとしたら、僕はどうやって元の場所に戻れば良いのだろう。砂糖を入れない珈琲を、甘く味わえる日が僕にも来るのだろうか。


 気づくと、楓の家の前に着いていた。僕は箱の中のケーキが崩れていないかを蓋を開いて確かめてから、インターホンを押した。


「はぁい。どちらさま?」


 楓のお母さんの声がインターホン越しでも柔らかく響く。


「楠です。突然で申し訳ございませんが、楓のお見舞いに参りました。喫茶店のマスターからのお見舞いの品もあるので、渡すだけでもよろしいでしょうか?」


「あら光葉くん? すぐ行くから待ってちょうだい」


 ブツリと通話が切れてほどなくして、玄関の引き戸がカラカラッと控えめな音を立てて開いた。


「こんばんわ。突然やって来てすみません。これ、楓に」


 僕はそう言って、大きな袋を二つ差し出す。


「あらあら。わざわざ有難うね。ささ、入って入って」


「え? 良いのですか? ご迷惑じゃ――」


 時計の針は午後七時を過ぎた辺りを指していた。突然の来訪ということもあり、僕はお土産を渡してそのまま帰ろうとしていたので、楓のお母さんの突然の招きに驚いた。


「楓の体調も良くなってきたから、顔を出すだけでもしていってちょうだいな。きっと楓も喜ぶわ」


 戸惑う僕を玄関の中に引き込んで、楓のお母さんは嬉しそうにそう言った。


 楓は元気な様だし歓迎してくれるなら、と僕はふつふつと湧き上がる喜びを隠しながら革靴を脱いで上がり込む。


「あ、中身はクロワッサンとケーキとリンゴなので、ケーキはすぐに冷蔵庫に仕舞ってください。クロワッサンとケーキはマスターの手作りです。とても美味しいですよ」


「あらまあそんなに沢山。どうもありがとう。楓はご飯を食べたばかりでまだ起きていると思うから、そのまま二階に上がってちょうだい。あなた、お腹は空いてない?」


「あ、いえ。家に帰ってから食べますので。おかまいなく」


「それじゃあ珈琲でも淹れるわね」


 楓のお母さんは玄関ホールに僕を残して廊下を進んでいった。


 僕は階段を見上げて『ふうのへや』と書かれたプレートを眺めた。この先には元気になった楓がいる。昨日の別れ際の「ありがとう」がまだ耳に残っていて、少しくすぐったい。沢山の甘いお土産を抱えてやって来た僕に、楓はどういう声を掛けてくれるだろうか。期待に胸が膨らんで、階段を踏みしめる足取りがとても軽くなった。


 楓の部屋の前に立って、一つ深呼吸。控えめにノックして、


「楓、起きてる?」


 心臓が口から飛び出ない様に注意して声を掛けた。


「へ? 光葉――?」


 呟きが漏れてすぐ、扉の向こうでバタバタと慌ただしい音が聞こえた。30秒ほどそれが続いて、


「ど、どうじょっ」


 勢いよく噛んだ可愛い声が聞こえた。思わずにやけながらドアを開ける。


「楓、元気になった?」


「う、うん。熱は下がった――と、思う。光葉、いきなり、どうした、の?」


 顔を真っ赤にした楓が、ローテーブルの前でちょこんと正座して僕を見上げていた。僕は先程からの楓の反応に悪戯を思いついて、


「それならよかった。でも、本当に熱下がった? 昨日より顔が赤いよ?」


「――だって……いきなり来るんだもん……」


 楓は一度ぱちくりと大きく瞬くと、長い睫毛を少し伏せて、ゆっくりと視線を下げながらしおらしく言う。少し丈の長いパジャマの袖の陰で、クッションを指で掻く仕草がやけにわざとらしい。あまりの可愛さに、今度は僕の顔がかーっと熱くなった。


「僕が――悪かった」


「うむ。許そう」


 思わず謝った僕に、顔をがばっと上げた楓がにへらと笑って答えた。ミイラ取りがミイラになるとは正にこのことだ。


「わざわざお見舞いに来てくれたの? あ。ほら、座りなよ」


 先に頬を薄桃色まで回復した楓が、足を崩しながら向かいのクッションを指す。僕は軽く深呼吸をして落ち着いてから、赤くて丸いクッションに腰を下ろした。思えばこんなに間近で向かい合うのは初めてだ。そう意識すると、せっかく沈めたざわめきが息を吹き返して、尻に敷かれたふわふわな物体に全身を侵食される幻想で頭がいっぱいになった。


 そんな僕を見て楓は、


「二回目なんだからそんなに照れないでよ。こっちまで恥ずかしいじゃない」


「先に緊張して噛んだのは、楓のくせに」


「え、そうだっけ? わたし、噛んでないよ?」


「――風邪引いて大人しい方がいいんじゃない?」


「ひどい。病み上がりに言うこと? それ」


 そんな楓の目は楽しそうに笑っている。軽口を叩いていたら、いつの間にかずいぶんと落ち着いていた。


「楓、元気になってよかった。心配したよ」


 思うまま素直に言った。


「えっ。――そう、――ありがと」


 途端にコンコンとドアを叩く音が聞こえた。


「はーい! どうぞー!」


 楓が声を張り上げた。ガチャリとドアが開いて、トレイを危なげなく持った楓のお母さんが部屋に入ってくる。


「そんなに大きな声で言わなくても聞こえるわよ――。光葉くんが持ってきてくれたリンゴを剥いてきたわ。クロワッサンとケーキも頂いたけど、病み上がりだから明日にしておきなさい」


 楓のお母さんはそう言って、一口サイズに切られたリンゴがずらりと並ぶ大皿と珈琲カップ二つをテーブルに置いた。


「わざわざありがとうございます」


「ふふっ。いいのよ。あら、この部屋ちょっと暖房効きすぎかしら? それじゃあ、ごゆっくり」


 楓のお母さんは、僕ら二人を見てそう言うと、暖房の設定温度を下げたりもせずにそのまま部屋を出てパタパタと階段を降りてった。


 不自然な発言に首を傾げながら、楓のお母さんが出ていったドアを見つめて珈琲を啜っていると、向かいから強い視線を感じた。顔を向けると、にんまりとした笑顔を貼り付けて、楓がこちらをじっと見つめていた。


「な、なんだよ」


 僕がいぶかし気に言ってカップをソーサーに戻すと、


「ふうん。光葉、覚えていてくれたんだね、りんご」


 カチャリと音が鳴ってから、腕がピクリとも動かない。


「うふふ。この部屋、暑いね?」


 シャクリとリンゴを美味しそうに齧りながら、楓は笑う。


 僕はなんとかリンゴに手を伸ばして、


「そうだね。ちょっと暑いかも」


 しばらく無言のまま、二人でリンゴを齧り続けた。


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