明日の黒板

薮坂

明日の黒板


 この高校には古くからの言い伝えがある。

 卒業式の日。自分のクラスの黒板に願い事を書いた奴はそれが叶う、というウソかホントかわからない微妙な言い伝えが。まだ誰も試したことはない。だってそれは、卒業の日にしか使えないものだから。


 そしてやってきた、高校生活最後の日。おれはなぜか学校近くの公園で、クラスメイトの話し相手をしていた。卒業式はもう終わったのに。

 それに加えて、そのクラスメイトは男だった。神様は最後まで残酷だ。おれには1ページたりとも青春を寄越さないつもりらしい。


「フラれたんだ、春子に」


 夏男はまるで、厳冬期に震える海パン男みたいな顔で言った。その名の示すとおりいつも暑苦しいヤツだから、こいつがかなりのダメージを受けているのは容易にわかる。痛恨の一撃を食らったら、多分こんな顔になるんだろうな。だけどアレだ、優しくしてやる義理もつもりも、おれはカケラほども持ってない。


「そうか。そら良かったな」


「お前、俺の話聞いてないだろう」


「聞いてる聞いてる。春子にフラれたんだろ? 良かったじゃねーか」


「よくねぇよ! 卒業式の日にフラれたんだぞ」


「逆に考えろよ。入学式の日じゃなくて良かったと。明日から皆、別々だ。その恥はかき捨てられるだろ」


「そりゃ入学式にフラれるよりはマシだと思うけど、って論点ズレてるだろう」


 そうツッコミを入れつつも、夏男はまだしょんぼりとしていた。面倒くせぇヤツ。仕方ない、聞いて欲しそうだから聞いてやろう。甘いな、おれも。


「で? どうやって春子にフラれたんだ。聞いてやるよ、クラスメイトのよしみでな」


「春子に、ずっと好きだった、俺と付き合ってほしいって言ったんだ。そしたら、」


「そしたら?」


「ごめんなさいって。親の都合で、海外に行くことになったって。大学は向こうの大学に決まったらしい。だから付き合えないって、そう言われた」


「あぁ、そういや言ってたな。カナダの大学だろ? トロント大学だっけか。詳しくは知らねーけど」


「お前、知ってたのか?」


 それを聞いた夏男が、急に顔を近づけてきた。もうやめてくれ神様。今日、高校最後の日だぞ。何が悲しくてコイツの顔を間近で見なきゃならねーんだ。


「夏男、落ち着け。春子がお前に言ってなかったってことは、お前には言いづらかったんじゃねーのか」


「なんでだ。なんで俺だけに言わなかったんだ。そこまで嫌われてたのか……?」


「逆だろ、逆。もし夏男と春子が逆の立場だったら、お前どうしてた」


「それは、」


「言いづらいだろ、やっぱり。自分を好いてくれる相手に、海外に行くなんて言いづらいことこの上ない。だから言い出せなかったんじゃねーのか」


「そう、かも知れないな。逆の立場だったら、おれも最後まで言い出せないかも知れない」


 納得したのか、それとも諦めたのか。伏し目がちな夏男は、乾いた笑いでそう言った。放っておいたら泣き出しそうなその表情。


「夏男。泣くほど誰かを好きになれるなんてなかなか出来ることじゃない。フラれたかも知れねーけど、誇っていいとこだぞ。まさに青春じゃねーか」


 泣いてねぇよ。鼻声で夏男はそう言った。完全にアウトだろ、とも思うが無粋なツッコミはやめておくことにした。


「……ありがとう。お前に話を聞いてもらって、よかったと思う」


「やめろ、おれは男からの礼は受け取らない主義だ」


「いや、それでも言わせてくれ。ありがとう。春子と同じ中学だったよな、お前。だから聞いてみたんだ。他に何か知ってるかな、って」


「ふうん、なるほどね。春子のことは他に何も知らねーが、夏男。ひとついいことを教えてやろう。お前、クラスの黒板に願い事は書いたか?」


 夏男は不思議そうな顔でおれを見ていた。怪訝な顔を浮かべて、言葉の続きを待っている。


「言い伝えくらい聞いたことあるだろ。卒業式の日。自分のクラスの黒板に、願いごとを書いたらそれが叶うってヤツ。実はな、もうひとつ条件があるの知ってるか」


「条件?」


「卒業式の日に、最後に願いを書いたヤツ。そいつの願いが叶うんだ。だから、」


 おれは言葉を一旦止めた。たっぷり勿体ぶって話してやる。


「日が暮れたら、コレ使って学校に侵入して、最後の権利を勝ち取れ。卒業祝いだ」


 それを夏男に投げてやる。美しい放物線を描いて、夏男の右手に収まる銀色のそれ。ちょっとした事情から手に入れた、この学校のマスターキー。


「お前、どうしてこんなものを?」


「ちょっとしたツテだよ。とにかく、準備をしに一旦帰れ。午後8時には、先生もいなくなるだろうから。早く終わらせろよ。あと、誰にも見つかんなよ」


 ありがとう。また礼を言って、夏男は踵を返して家の方へと帰って行った。

 さて、おれも帰ろうか。これが最後の下校ともなると、感慨深いものである。

 歩き出したその時。スマホが震えるのがわかった。このパターンは電話の着信。


「もしもし、私だけど」


 スマホ越しに、聞き慣れた声が聞こえた。このタイミングでこいつからとは。これがシンクロニシティってヤツだろうか。


「どこの私だよ?」


「春子だよ。スマホのディスプレイに書いてあるでしょ。ねぇ、ちょっと相談があるんだけど」


「もしかしてアレか。夏男を袖にした話か」


「……どうして知ってるの?」


「耳が早いのが唯一の取り柄なんだ。話があるなら、お前ん家の近くの公園でどうよ。そうだな、30分後」


「わかった、すぐ行くね」




 ────────────────────




「待たせたな」


 公園に着くと、制服のままの春子がブランコに乗っていた。桜が咲いていたら絵になるのに。蕾は固く、まだ開きそうにない。空いていた隣のブランコに、おれも腰掛けた。

 ほらよ、とおれは春子にコンビニで買ってきたコーヒーを手渡した。ありがとう、と答える春子。

 こういうシチュエーション、何度もあったっけ。もうこんな事もなくなるのかと思うと、少しだけ寂しく感じるのは確かだった。


「春子、なんで制服のまま?」


「名残惜しくて。もう最後でしょ、制服を着るのは」


「まぁ、そうだな。荷造りは済んだのか。出発いつだっけ」


「もう随分前に。出発は、明日だよ」


「そっかそっか。それで話ってのは、夏男のことでいいのか?」


「うん、夏男のこと。今日、卒業式が終わった後、好きだって告白されたの。夏男から」


「らしいな」


 コーヒーに口をつけて、続きを促した。吐いた息は少し白くて、本格的な春の到来がまだ先だと教えてくれている。


「私、断ったんだよ。それが正しかったのかどうか、いまだに悩んでる。夏男のことは、本当に好きだったから」


「知ってるよ、それも」


「向こうに行っても、きっと夏男以上の人なんていない。でも、夏男を縛り付けることも出来ないと思ったんだ。こっちに帰ってくる見通しなんて、ないようなものだし。だから、どうしていいかわからない」


 目を閉じて、春子はそう言った。羨ましい限りだ。青春の1ページってのはきっと、こう言うことを言うんだろうな。過ぎ去りし日々は美化されるというが、元々が美しい記憶なのだろう。それが時を経て、より一層美化されるのだ。なんとなく、おれはそう思う。

 

「なぁ、春子。いいこと教えてやろうか」


「なに?」


「おれたちの高校に伝わる言い伝え。卒業式の日に、黒板に願いを書くとそれが叶うってヤツ」


「そう言えば、みんな書いてたね」


「あれにはもうひとつ条件があるんだ。黒板に、最後に願い事を書いたヤツのが叶うらしい」


「それ、本当?」


「さぁな。おれは試すつもりはないけど、高校最後の思い出に試してきたらどうだ」


 ほらよと言って、おれは春子に2本目のキーを投げてやった。1回目よりも綺麗な放物線を描いて、それは春子の手の中に収まった。価値のあるものはコピーするに限る。コピーが出来ればの話だが。


「卒業祝いにお前にやるよ。高校のマスターキーだ。使い終わったら処分してくれ。そうだな、には、先生らも帰ってんじゃねーのかな」


「なんでこんなもの持ってるの?」


「備えあれば憂いなし、ってな。あとアレだ、さっきの話。好きだから縛るのか、好きだからこそ突き放すのか。それに正解なんてない。でも、お前らが同じ方向を向いてりゃ、いつかまた会えるんじゃねーの?」


「それ、どう言う意味?」


「同じ方向を向いてるか、確かめてみろってことだ」


 それだけ言うと、おれはブランコから立ち上がる。すっかり漕ぐのを忘れてたけど、まぁいい。童心にかえる必要もないだろう。それに、あの頃にはもう戻れないのだ。


「そんじゃ元気でな、春子。あぁそうだ、本場のメープルシロップをよろしく」


「甘いの好きじゃないでしょ」


「いやおれは好きだぞ、甘いヤツ。それにメープルと言えば、どう考えてもおれだろ」


「そっか、確かにそうかもね」


「でもな、残念なことに苦いものたちが、おれのことを好きなんだ。あいつらはすぐに寄って来やがる、困ったことに」


 だからだろう。おれの青春は本当に苦い。さっき飲んだコーヒーよりも、ずっと。


「わかった。メープルシロップはちゃんと覚えとくよ。それよりありがとう。あとで使ってみるね、このカギを」


「いつかまた会おう、春子」


 おれは手だけぷらぷらさせて、公園を出て行った。自分で言うのもなんだが、めちゃくちゃ格好良いな。オーディエンスがゼロなのが、おれらしいと言えばおれらしい。

 おれに出来るのはここまでだ。あとは、運命に委ねるしかないだろう。

 この世に神様がいるのなら、2人は夜の教室で会えるのかも知れない。会えなかったらそれは、今はその時じゃないってことだろう。



 ───────────────────



「……さて夏男。状況を説明してくれ」


「状況? 俺はお前と登校する途中だ」


「なにマジメに答えてんだ。逆だ、逆。皮肉で言ってんだよ。おれたちは昨日、卒業したんだぞ。その上クソ早い朝に呼び出されたおれの気持ちを汲めよ、マジで」


「忘れ物だ、忘れ物。ほら着いたぜ」


 卒業式の次の日に登校するハメになるとは思ってなかった。先生に忘れ物だときちんと伝えて学校に入る。アホかお前ら、と言いつつ先生は入れてくれた。


「で、なにを忘れたんだよ、夏男。おれまでついてくる必要なかっただろ。ていうか、昨日は黒板に書けたのか、お前の願い事を」


「あぁ、おかげさまで。ちゃんと書けた」


 黒板に願い事を書いただけ、か。どうやら2人が、夜の教室で会うことはなかったらしい。運命って、残酷だな。


「書けたのか。そりゃ何よりだな。それならもう、忘れ物なんてねーだろ」


「いや、ひとつだけ。教室で、お前と写真を撮るのを忘れていた」


「泣かせること言うじゃねーか、とでも言うと思ったのか。マジで迷惑だ、おれは男と写真は撮らねーよ」


「いいだろ、俺が記念に撮りたいんだ」


 そう言って、夏男は教室の扉を開いた。そこには、黒板に書かれたクラスメイトたちの願い事が所狭しと書かれている。夏男はからりとした声で言った。


「お前のおかげだよ。俺が最後の権利を勝ち取った」


『いつまでも、春子のことが好きだ!』


 恥ずかしげもなく、夏男の筆跡で、馬鹿みたいに大きく書かれてあるメッセージ。これは願い事じゃなくて、ただの決意表明じゃねーか。やっぱりアホなのか、こいつ。

 呆れながらそのメッセージを眺める。相変わらず暑苦しい筆跡だ。そして、その夏男のメッセージの下。そこにもうひとつのメッセージが書かれてあるのを見つけた。明らかに夏男の筆跡とは違うそれ。


「いや、待て夏男。お前のメッセージの下。なんか書いてるぞ」


「え? 誰が書いたんだ?」


 見るとそこには、小さいけれど綺麗な筆跡でこう書かれてある。一目見て、夏男にもわかったようだ。

 これは春子の筆跡であると。


『やっぱり私も好き、だからいつまでも待っていて』


 夏男の顔が一気に明るくなる。だけど、そのメッセージにはまだ続きがあった。


『……そう思っていたけれど

 結局、無理だよね

 キミと私の距離は、とてもとても遠いから』


 読み進めた夏男の、その顔が曇る。痛そうなその顔。きっと心が痛いのだろう。痛みを抑えて、夏男は食い入るように続きを読んでいた。


『でもほんとうに

 私を好きになってくれてありがとう

 キミと一緒だったこと。それは私の青春でした

 さようなら。そして、ありがとう』


 隣で夏男の、鼻をすする音が聞こえた。気持ちはわなるが泣くなよ、男だろ。あえて、おれも何も言わなかった。しばしの静寂。ややあってから、おもむろに、本当にゆっくりとした口調で夏男が切り出した。


「……春子の気持ちが知れて、よかった。最後の権利を取ったのは、春子だったんだな。俺もようやくすっぱり諦められる。これで俺も、前に進める」


 泣きながら夏男は言った。泣く姿まで暑苦しいヤツだな、本当に。春子はなんでこんなヤツのこと、好きになったのだろう。

 窓の外には、春の空が広がっていた。抜けるように真っ青なその青。油断すると吸い込まれそうなくらいに青い。その青い春を切り裂くように、一筋の雲を作る飛行機が見えた。

 もしかしたら、あの飛行機には春子が乗っているのかも知れない。夏男はそれに視線を合わせたまま、おれに言う。


「ありがとう。本当に、お前には感謝してる」


「だから男の礼は受け取らねーつってんだろ。それに諦めるのはまだ早い」


「……何が?」


 ずびび、と鼻を鳴らして夏男が問うた。こいつは本当に、人のアドバイスをきかないヤツだ。


「いつもお前に言ってんだろ。逆だよ、逆」


「だから何が逆なんだ」


「春子からのメッセージ。逆から読んでみろ。縦書きだろ、それ。普通ならどっちから読む」


「そりゃ、右から左だけど……」


「お前が書いたメッセージは横書きだな。横書きは、普通ならどっちから読む」


「左から右に決まってるだろう」


「そのメッセージ。お前が書いた横書きみたいに、左から右に読んでみろ」


 昨日、おれは確かに春子に言った。夏男と同じ方向を向いているか確かめろと。それを踏まえてこのメッセージとは、なかなかシャレが利いている。

 左から右に読むと、そのメッセージは真逆の意味を成す。確かに、方向を確かめるのにはあつらえ向きだ。おれはクスリと、夏男には見えないように笑った。



さようなら。そして、ありがとう

キミと一緒だったこと。それは私の青春でした

私を好きになってくれてありがとう

でもほんとうに

キミと私の距離は、とてもとても遠いから

結局、無理だよね

……そう思っていたけれど


やっぱり私も好き、だからいつまでも待っていて



 ───────────────────



 それから1年半が過ぎた。季節は秋。一人暮らしの家に帰ると、宅配ボックスに小包が届いていた。小包に貼り付けられた、フロムカナダとの文字。あの国から何かを送ってくるのは、おれの知り合いではあいつらしかいない。

 中身は写真付きのメッセージと、小瓶に入ったメープルシロップが1ダース分。その写真の中で2人は、楽しげにこちらを向いて笑っていた。


 いつまでも待てないから、俺は自分から春子を迎えに行くよ。

 春子のメッセージを受けて、そう決意した夏男は、それから1年かけて猛勉強した末にトロント大学への切符を勝ち取った。暑苦しいだけのヤツだと思っていたから、それには純粋に驚いた。なかなかやるじゃねーか、と。

 写真の中でも夏男は暑苦しい。成し遂げた感のする笑顔も相まって、非常に腹が立つ。隣にいる春子は涼しげな笑顔だけど、心から嬉しいとわかるような笑顔だった。

 写真のメッセージには、春子の美しい筆跡と、夏男の暑苦しい筆跡でこうあった。


『アドバイスありがとう。感謝しています。私たちは今も、同じ方向を向いてるよ』


『ありがとう。全部お前のおかげだ。あの黒板の言い伝えは、本当だったみたいだな』


 だからおれは男からの礼は受け取らないつってんだろ。それに夏男。悪いがそのセリフはおれのもんだ。

 黒板の言い伝え。これは本当だ。なんせおれが、直々に試したんだからな。

 あの卒業式の日の夜のこと。実は、マスターキーはコピーして3本あったのだ。1本目は夏男へ。2本目は春子へ。そして3本目は、おれが使ったもの。

 だから最後に、あの黒板に願いを書いたのはおれなんだ。

 教室の前ではなく、後ろの小さな黒板。そこの端っこに、小さく書いてやったのだ。

『春子と夏男が、いつの日か結ばれるように』と。


 メッセージから目を離して、メープルシロップに視線を向ける。しかし12本って、いくらなんでも多すぎだろ。そしてそのフタの部分に、春子のメモが付いていたのを見つけた。


『約束のものだよ。キミみたいに甘いヤツ。やっぱり名前と同じだね』


 フタを開けて、一口ぺろりとなめてみた。


「……ゲロあっま」


 おれにこの甘さは耐えられない。

 この味はきっと。

 春子と夏男の、青春の味なのだから。


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明日の黒板 薮坂 @yabusaka

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