第8話 呉越同舟

 事務所を後にした青姑せいこは、楽しげに口角を上げながら大通りへと足を進める。

 束髪シニヨンを飾るリボンと鞄につけた小さな根付が、軽やかな足取りに合わせて左右に揺れる。


 青姑は肩越しに振り返りながら、ほんの一瞬だけその瞳に八芒星を輝かせた。

 人を超えた異形の視界の中、自分に糸がついていない事を確認。

 見透かされた手を、一日と経たないうちに繰り返すほどあの探偵は間抜けではないようだ。


「くふふ……またお逢いしましょう、探偵のお姉様」


 大通りを万世橋方面に歩きながら、青姑は自分の顔がほころぶのを止められないでいた。すれ違う書生が青姑の顔を見つめて頬を染める。

 それに気づいた青姑は、両手で口元を押さえると体を小さくして小走りに離れる。


「ああ、いやだわ。恥ずかしい」


 浮かれているところを見られて、思わず独り言ちてしまう。

 出来ることなら袖に隠した狐面で隠したいくらいだが、昼間の神田では悪目立ちすることこの上ない。


 しかし一縷いちるの事を考えると、抑えようもなく心が弾む。

 手駒に出来れば最上であったが、お互いの信条や立場を確認出来ただけでも上等な結果だ。

 そしてそれこそが無情の傀儡を率いる青姑が、さるお方と呼ぶ存在から賜った命令であった。


 不安定な立場の相手は、敵か味方か分からない分だけやりにくい――それがさるお方の考えだ。

 まだまだやらねばならない事はあるし、邪魔する輩は全力を持って取り除かねばならない。

 これまでも行ってきた事ではあるが、今回の相手は別格と言えた。


 慎重な血姑けつこが退くのは分かる。

 田山という手駒を失う可能性を避け、得手とする術で逃げを打ったのはその場における最適な答えだろう。

 だが血気盛んな白姑はくこを退け、あまつさえ青姑の喚んだ百鬼夜行をかいくぐって一撃を入れるような相手は初めてだ。


 しかもそんな厄介な相手が、まさかあのような美しい男装の麗人とは、思いも寄らなかった。

 まるで吉屋信子の書いた花物語を初めて読んだ時のような、胸の高鳴りを感じる。

 探偵事務所で話をしている最中、ずっとはしゃぎたくなるのを我慢するのに苦労した。殺意に彩られた笑顔も、忘れられないくらいの美しさだった。

 血姑や白姑に渡す手紙にも使った事のない、とっておきの封筒まで出したのに突き返されてしまったのが少し悲しいが、横合いから口を出されて仕掛けを入れたのだからそこは仕方が無い。


 だが、まだ逢う機会はあるだろう。

 そして、さるお方の覚えも良い青姑は、少々の無茶を通せる立場にもある。

 やりあった時に手心を加えるつもりはないが、自分達の側に引き込む機会もまだあるはずだ。


 目的は同じであっても、肩を並べる者達の中にはいけ好かない者もいる。

 便利だから使っているが、田山とそれに取り憑いた通り悪魔も、最後の最後にはさるお方の為に誅さねばならない相手だ。

 三尸さんしの名を与えられた無情の傀儡と、三人の少女を無情の傀儡とした方だけが、青姑にとって本来の意味での仲間と言える。

 その中にあの美しい蜘蛛の眷属が加わってくれれば、頼もしいだけに留まらず楽しくもなろう。




 考え事をしていた青姑は、目的地が近づいた事で表情を硬くする。

 小さな酒屋の横から脇道へと入ると、目立たないように停まっていたT型フォードの前には、黒いスーツに身を包んだ男が二人、青姑を出迎えるように立っていた。

 二人は侍従のように青姑へ頭を下げると、フォードのドアを開ける。

 すると、後部座席に座っていた若い白人の女が、初めて気づいたかのように青姑を見やると小さく微笑む。

 肩に掛かる淡い金色の髪と青い瞳に、明るい格子柄のワンピースに白い革のベルト。膝の上に置いた鞄も舶来品と一目で分かる。ふわりと漂ってくる香水の香りも、女の見目みめに花を添えている。

 だが青姑は女の笑顔に応える事なく、その横へと座ると女には目もくれずに窓の外を無表情で見つめた。


 男達はそんな青姑と女のやりとりに干渉しない。

 何をしていようとお構いなしとばかりに、声一つなく前部座席に乗り込むと車を発進させる。

 もし注意深くその様子を見ていた者がいれば、首を傾げただろう。

 帝都では車は珍しいものではなかったが、青姑が乗り込んだT型フォードはエンジンが異様なまでに静かな走り出しだった。

 そして確かに乗り込んだはずの女学生の姿も、車内にいたはずの女の姿も、ガラスの向こうに映っていないのに気づく者は誰も居なかった。


「お嬢様。首尾は如何でした」


 神田を出た車が四谷の辺りにさしかかった頃、外界から隔絶したように揺れもなく静かな車内で女は青姑に尋ねる。

 だが青姑は口の中で舌打ちを一つすると、その瞳に浮かぶ八芒星を赤く輝かせた。


「白々しい……全部聞いていたのでしょう?」


 青姑は袖の中から小指の先ほどの金属球を取り出して、前席にいる男へと投げつけた。

 どんな仕掛けかは知らないが、この金属球は周囲の音を拾って、遠く離れた場所に届けることが出来る。それを受信するのは、男達や横に居る女がつけた耳栓のような金属塊だ。

 そして金属球ほどの性能は無いが、代わりに切手くらいの大きさで周囲の音を拾う仕掛けも一縷へ差しだした封筒に仕込んであった。

 既存の無線技術とは一線を画す英知が、この金属球や封筒には込められていたのだ。


「とてもではないけれど、これを隠せる隙なんて無かったわ。本当に殺されるかと思いましたもの」


 青姑は肩をすくめながら大きく息をつく。

 一縷に伝えた脅しだけでなく、例え蜘蛛の巣の中でも力尽くで逃げられる手段は事前に講じてあった。

 しかしそれでも無傷とはいくまい。

 腕に自信があっても、敵地の真ん中でやりあうような事は、今も治療中の白姑はくこでもなければやりはしない。


「ふふ。やっぱりお嬢様のようなめす餓鬼がき風情には、荷が勝ちすぎていたのでしょうね。脅されて粗相そそうをしたのではなくて? おしめをかえて差し上げあげましょうか?」

「西洋渡りのがらくたは口先ばかりよく動くわ。まるで芸を仕込んだ鸚哥インコのようね。首を落としても喋るかしら」


 女の挑発に、青姑は即座に挑発で返した。

 途端、発条ばねが軋むような音が車内に響く。

 女の掌から肌を突き破って現れた何本もの青銅の棘が、青姑の頭を串刺しにせんとばかりに突きつけられている。棘にこびり付いた汚れは、まごうこと無き血と脂の染みだ。

 香水でも隠しきれない血生臭さが車内に満ちる。


 だが女もそれ以上は動けなかった。

 着物の袖から一瞬で刀を抜いた青姑が、お返しとばかりその切っ先を向けている。

 白く細い首筋には濡れたように輝く刀身が当てられ、青姑が手首を返すだけで、挑発通りに首が落ちかねない。


「あらあら、しのぶ。お母様・・・に何をするつもり?」

「たかだかめかけの一人が母親を名乗るな。私のお母様は一人だけ……お父様が何と言おうとお前じゃないわ、アスミナ。だから私の名前を呼ぶのはこれきりになさい」


 首筋に刃を当てられてもまだ余裕を見せる女――アスミナとは違い、しのぶと呼ばれた青姑はあからさまな嫌悪に顔を歪める。

 瞳に映る八芒星は脈打つように輝き、怒りを込めてアスミナを睨み付ける。


「そういう所が餓鬼でしてよ、お嬢様。お父様のように振る舞うにはまだまだですわね。そんなざまでは、敬愛するあの方にも見捨てられてしまいますわよ?」


 アスミナは諭すように柔らかく言いながら、掌から生えた棘を音も無く傷一つ残さず体の中に戻した。


「お前が口を出す事じゃないわ。それよりも白姑の具合はどうなの? もう治療は終わったのでしょう?」

「私は灰河童はいがっぱの伝令じゃないわよ。前の二人に直接聞きなさいな」


 これまで沈黙を守っていた男達――助手席に座った男は、話を振られるとまるでフクロウのように顔をほぼ真後ろに向ける。

 そして瞳孔の開ききった目で青姑を見つめると、電話越しのような歪んだ声を発する。


「白姑の手術は完了した。骨格は換装。筋肉と腱、それと神経は再生が追いつかないので、我々がこちらで培養したものに変更を行った。頸椎以下の神経ブロックは既に解除してあるが、施術した神経系の定着まであと30時間ほどかかる」

「治るのね?」

「我々の技術は君たちとは違う。あれくらいの傷であれば皮膚組織だけでなく、あらゆる細胞組織に後遺症を残す事なく治療出来る。それに以前よりも筋繊維の出力や神経系の反応速度は向上させてある」


 青姑には彼等――灰河童と言われている者達が言っている事は半分も分からない。医学や化学に明るければ分かるのだろうが、残念ながら青姑の持つ知識では面倒な言い回しに含まれる単語の意味を推測するのが精一杯だ。

 それでも彼等が治ると言った以上、白姑の体が治る事だけは確実だ。


「それよりも血姑が従えてるあれの方を心配した方が良くってよ。あなた達が無茶な付け方・・・をしたせいで、抑えが効かなくなっているようよ。灰河童に任せた方が良かったのではなくて?」


 アスミナが指しているのは田山のことだろう。

 切り落とした腕の代わりに鬼の腕を据え付けると言う無茶をしたが、やはり人とは違うだけあって治療らしい治療もなく繋がった。

 だが、無茶な施術には相応の代償があった。


 四十度近い熱に浮かされる田山は、通り悪魔の抑えが効かなくなり、更には鬼の力を持つという危うい手駒に成り下がっている。

 繋いだ腕が体に慣れてくれば以前の田山に戻るだろうが、それにはまだ数日はかかるはずだ。運良く田山の仕事――帝都を守る警察官としての仕事は、今日は休みであったが、そう何日も休ませる訳にもいかない。


「それもお前が口を出す事ではないわ。最悪、次かその次で刀のにえとします」

「本当に回りくどい事が好きなのね、あの方は。こんな調子じゃあ、策を練っている間にまた戦争が起きてしまうわよ」

「その前に全てを終わらせるのが、わたくし達の務めでしょう。もう黙っていてくれないかしら」


 アスミナの執拗な挑発に、青姑は視線を外して再び窓の外を見やった。

 相手をしていては余計に調子に乗らせてしまう。それは分かっていても、この女の言葉は端から端までしゃくさわる。

 青姑はつまらない女の事を頭の中から追い出すと、一縷を説得する算段を練り始めた。

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