第31話 願い

「っ――――!」


 目の前で大きく開かれた口から放たれた怒号のような声で、瞬時に理解した。空を飛ぶ姿は遠目で見た。けれど、その比ではない恐怖が全身を伝い、死を覚悟した体から力が抜けた。


 近付いてくるドラゴンの顔――大きく口が開かれて生暖かい吐息が私たちを包んだ。


 もう、ダメだと抱えた翔を強く抱きしめながら目を閉じた。


「…………?」


 しかし、いつまで経っても思っていたような衝撃が来ずに、恐る恐る目を開けると、イリアちゃんとドラゴンが、真正面から向かい合っていた。


「……イリアか? 何故、ここに来た?」


 声が、頭の中に直接響いてくる。


「ごめんね、パパ……でも、イリアからも言わせて。どうして、出てきたの?」


 地上に、ということか。私ですら話を聞いても半信半疑だったのだから、姿を現さずにイリアちゃんが出てきた洞窟さえ閉じてしまえば、ここまでの騒ぎにはなっていなかったはずだ。


「泣き声が、聞こえたのだ。イリアの声が聞こえ――我は感情の高まりに抗うことをしなかった。イリアを悲しませるモノなど、必要ない。故に人間など、この世に存在する意味も無い」


 理不尽だ。そんなのは理由にもなっていない。けれど、生物として圧倒的な差がある存在としては、理不尽だろうと屁理屈だろうと関係ないのだろう。


「違うよ、パパ。ちがっ……たしかに、人間には悪い人もいる。けど、守ってくれる人もいる。この二人もそう。だから、助けたくてここに来たの。会いに、来たの」


 そう言ったイリアちゃんから視線を外したドラゴンは、座り込んでいる私と翔を値踏みするように確認した。


「たしかにイリアの匂いが染み付いているようだ。しかし、だからといって我が人間を救う理由にはなり得ない」


「どうして? だって、二人ともイリアを助けてくれたんだよ!?」


「その言葉に嘘偽りが無いのはわかる。だが、そんなことは関係ない。人間であるという事実だけで、助けるに値しないのだ」


 それじゃあ、私は――翔は、いったいどうすればいい?


「うん。そう言うのはわかってた。でも……それでも、お願いしたい。ただの人間としてではなく――イリアのお願いだから。イリアの恩人だから助けてほしいの。パパ、お願い。パパの血が、欲しいの」


「いいや、人間に生かす価値などない。イリアよ、お前もここに来るまでの間に見たであろう? 人間の醜い姿を。愚かしく浅ましい姿を。わかったはずだ。人間など、等しく同じだということを」


「そんなことっ――」


「違う!」


 つい、大きな声が出た自分自身に驚いたけれど、腕の中で動かない翔のことを想うと、止められるはずも無かった。


「翔は――翔だけは違う。人間が惨めで醜いのは、そうなんだと思う。だから、世界から戦争は無くならないし、どうでもいいような理由で下らない争いを繰り返している。けれど、翔がイリアちゃんを守っていたのに理由なんかない。ただ、助けたかったから。ただ、守りたかったからそうした。そんな翔が、醜くて愚かしくて浅ましいと思うの? そんなわけない……そんな風に思っていいはずがない!」


 ただでさえ空気が薄いところで息継ぎもままならないように捲し立てたせいで呼吸が苦しい。


「お願い、パパ。この人を救って!」


「イリアよ……何故、その人間だけ特別なのだ? 先刻、お前が連れてきた人間はどうした? 捨てられたのか? それとも死んだのか? これまでお前を救ったのは、その人間だけではないはずだ。それなのに、何が特別だというのだ?」


 問い掛けられたイリアちゃんは、ドラゴンを見詰めたまま口を噤んでしまった。


 答えないのか、答えられないのかは私にはわからない。……その実、私はイリアちゃんについてそれほど知らないけれど、それでもわかることがある。拳を握り締め、真っ向から父と向き合う少女の背中は、ドラゴンの体躯よりも大きく見えた。


「イリア、は――イリアはっ!」


「……もうよい。言いたいことはわかった」


 今にも泣き出しそうな声で噛み殺す様に叫んだイリアちゃんに対して、ドラゴンは制するように言葉を投げ掛けた。それこそ、まさに父が娘に投げ掛けるような優しい言葉遣いではあったが、私にはその深意を読み取るまでは出来なかった。


「ならば、あとは――」


 ドラゴンの瞳が私と翔を捉えると、背筋が震えて体温のすべてが持っていかれる様な気がした。


「な、なに……?」


「娘の願いを叶えることは吝かではない。故に、我は欲する。申して見せよ――人間の覚悟とやらを」


「……覚悟?」


 それは、そうか。人であっても余程の良い人かお人好しでなければ無償で人助けをすることなんて無い。だからこその覚悟――私が差し出せるものは。


「あなたが、何を望んでいるのかはわからない。だけど、欲しいものがあるのなら手に入れるし、やってほしいことがあるのなら何でもやる。私を――私の、命を上げてもいい! だから、翔を助けてほしい! お願いします……どうか、血をください」


 頭を下げながらも、視線は感じている。少なくとも、好意的ではない視線を。


「……違う」


「っどうして!? なんだって差し出すし、翔が助かるのなら私は死んだっていい! 私なんてどうだっていいの……だって、私はこれまで翔に何も出来ていない。親代わりにもなれず、姉にもなれなかった。姉弟なのに――姉弟、だからっ! やっと翔が私を頼ってきてくれたのに、それなのに思いに応えることができなかった。だから、せめて……せめて、助けさせてよ」


 私には何もいらない。欲しいのは今、腕の中で死に向かって歩みを進めている翔の未来。代償が必要なら私が支払う。未知の生物と触れ合い、その恩恵を受けることが罪ならば、その罪も私が背負う。だから、どうか――どうかっ。


「違う」


「っ……これ以上、私にどうしろと!」


「違うのだ、人間よ。我の知りたい覚悟は、お前のものではない」


 ドラゴンの大きな瞳は、ゆっくりと私から翔のほうへと下りていった。


「そんなの……だって、翔はもう……」


 もうほとんど――呼吸も浅く、心臓の鼓動も弱い。目を覚ますことは難しく、言葉を交わすことなど、ほぼ不可能に近いだろう。


「…………っ」


 まだ、諦めていない。それなのに溢れ出てくるものを止められない。歪む視界でドラゴンを捉えても、すでにその目には私が映っていないように見える。


 ……悔しい。ここまで来たのに。助ける方法があるのに、もう私には手立てがない。


「……起きて。聞こえていたはず、だよ……起きてっ」


 近付いてきたイリアちゃんは徐に伸ばした手を翔の頭に当てると、そう呟いた。


「イリアちゃん、翔は、もう――っ」


 強がって、大人ぶって子供を諭すような言葉を口にした瞬間に、腕に感じていた重みが無くなった。


 力を振り絞って立ち上がった翔は、真っ直ぐにドラゴンを見据えていた。


「覚悟、か……お前がイリアの父親、だよな?」


「その通りだ。人間よ、我に主の覚悟を示してみよ」


「……さぁな。そんなもの知ったことではない。覚悟も何も、俺はただ守りたいものを守れるだけの力が欲しいだけだ」


「ならば、主は力を欲するのか?」


 違う。翔が望むものは――


「いや、そうじゃない。俺が欲しいの戦う力ではなく――生きることだ。命が欲しい。イリアを守るためには、今のままではダメなんだ。今にも俺の命は終わろうとしていて、それに抗う術がない。だから、これは覚悟でも決意でもない。ただの我儘だ。まだ、生きていたい! それが、俺の望みだ!」


 胸に手を当てて高らかに宣言した翔に、私は体を震わせた。


 ……わかっていた。翔の望みに――イリアちゃんを守りたいと望む心に、私はいない。けれど、そこで『私も一緒に』なんて言えるはずがない。今更、姉面など出来るはずもない。


「俺はイリアと――姉貴と一緒に生きていきたいと思っている。お前の望む答えとは違うかもしれないが、それこそが俺の覚悟だ!」


「っ…………」


 翔の言葉に、私は何も返すことができなかった。だって、背中が語っているから。然も当たり前のような言葉に、これ以上に何を言えばいい? たぶん、一つだけ。


「――――」


 その言葉は翔には届いていない。イリアちゃんにも、ましてやドラゴンにも届いていないけれど、それでいい。


「ふっ、はっはっは! なるほどな。やはり人間だ。最後は欲望のままに、業に生きるのか! はっはっは!」


 頭の中に響く笑い声に、私ですら頭痛を感じているのだから、今にも倒れそうな翔が耐えられるはずもない。倒れそうになる翔に肩を貸して、再び立ち上がらせるとドラゴンの顔が鼻先にまで近付いていた。


「その言や良し。我を目の前に、良くぞ思うがままの欲をぶつけたものだ。自らの欲に忠実な主になら、イリアを任せても良いとさえ思えた。……手を出せ」


 言われるがままに翔は掌を上にして片手を差し出し、肩を支えている私が代わりにその手に合わせる様に掌を出した。


 すると、ドラゴンは合わせた両手の上に爪を立てる様に手を持ってきた。


「代償など気にしないのであろう? ならば、我の血の飲め。さすれば、主は人間ではいられなくなる代わりに、命を得ることができる」


 爪の先から雫のように垂れてきた赤黒い液体を掌で受けると、翔は躊躇うことなく液体に口を付け、一気に飲み干した。


「うっ……ん……まぁ、飲めないことも無いな」


 だとしても、私は絶対に飲みたくはない。


「翔、体は……?」


「特に変化は……いや、なんだ? 体が熱く――っああ!」


 血を飲んだ直後に顔色が良くなったと思い問い掛けると、翔は突然、苦しそうに蹲った。


「ちょっと、なに……いったい、何をしたの!?」


 睨むようにドラゴンを見ても、表情の変化などは読み取れない。


「案ずるな。人間が我の血を飲むのは初めてだが、正常な反応だ。今まさに、我の血がその者の細胞を変化させているのだ。生きられる体へと――永遠を生きる体へと」


「…………え?」


 聞き間違い、ではない。


「永遠を生きる体? どういう、こと? なに――翔の体に、いったい何をしたの!?」


「言ったであろう? 覚悟と代償だ。永遠を生きることができる我の血を飲んだのだ。さすれば、その者も永遠を生きることになるのは道理。違うか?」


「……それは」


 否定できるはずもない。未知の生物の体から出た、未知の成分を飲んだんだ。どんな変化が起きたって不思議ではない。


 翔を見れば、死にかけていたところからの急激な体の変化に耐えられなかったのか気を失って地面に倒れ込んでいたところに、イリアちゃんが歩み寄っていった。


「そんなの――じゃあ、私にもあなたの血を飲ませて! 私も翔と一緒に生きていくから!」


「それは出来ぬ相談だ。その者に我の血を飲ませたのは、ただの気紛れに過ぎない。何よりも主は自らの命を代償にして、その者を助けるつもりだったのであろう? ならば、今更生きたいと思うなど烏滸がましいにも程がある」


 正論だとは思うけれど、欲望に忠実な翔のことは助けて、烏滸がましいほどの欲を持つ私を助けてくれないのは不条理ではないのか。


 地面に倒れた翔を抱き締める様に膝を着くイリアちゃんを見て、一つの考えが思い付いた。


「……わかった。それなら、私はいい。その代わりにお願いがある」


「その願いを聞くかどうかは別だが、申してみよ」


「戦うことを、止めてほしい。翔ならきっと、そう望むはずだから。だから、お願い。もう、誰も殺さないで」


 人外が、そう簡単にお願いを聞いてくれるとは思わない。だからこそ、今度こそ私の命を代償にしてもいいとさえ思っている。


 目の前に居るドラゴンが何を考えているのかはわからないけれど、少なくとも何かを考えてるのはわかる。


「どう? 代償が必要だというのなら、今度こそ――」


「良かろう」


「……え?」


「元より、此度の遠因はイリアと人間との確執を思ってのこと。しかし、当のイリアが人間を救おうとしたのだ。最早、争う理由などない」


「そう……そっか。それなら、良かった」


「しかし、一つだけ主に約束してもらいたいことがある。契約と言い換えても良いだろうが、どうする?」


 考えるまでもない。


「聞くわ。約束だろうと契約だろうと、私にできることなら」


「ならば契約だ。主は――――」




 私の願い、翔の願い、イリアちゃんの願い。


 どの願いが交差して、誰の願い叶ったのか、私にはどうでもいい。


 翔が生きてくれれば、それでいい。イリアちゃんが幸せなら、それでいい。


 私の背後で翔を抱き締めるイリアちゃんを見たとき、私が永遠に生きる道なんて無くていいんだと思えた。


 だって、二人がまるで天使のように見えたから。そこに私は必要ない。


 そう思っていたのに、ドラゴンは全てを見透かしたように契約を持ち掛けてきた。




「――――主は、主が死ぬまで、その者とイリアと共に、片時も離れることなく、見守り続けるのだ。それを約束するのなら、何かが起きたときは我を呼べ。すぐにその場に駆け付けよう。それが、契約だ」


 感謝すべきなんだと思うし、実際に感謝もした。


「ありがとう」


 と、今度は皆に聞こえるように。私にはそれしか言えなかった。

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ドラゴンの禍乱 化茶ぬき @tanuki3

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