お嫁さまは最強の薙刀姫〜戦国 恋語り〜

紺野

第1話

      

 耳に聞こえるのは虫の音ばかり。秋も深まったこの夜、於稲おいねは一人、父の部屋にいた。


 瞼はじっと閉じられている。


 なぜ今宵こよい父に呼ばれたのかは知らない。けれど、察しならついている。自分はもう子供ではないから。本多ほんだの家の長女として、父の役に立つ日が来たのだ。


 今、国は乱れに乱れている。


 於稲の父の名は、本多ほんだ平八郎へいはちろう忠勝ただかつ。徳川四天王と誉れ高い、徳川家康に仕える重臣の一人だ。


「待たせたな、於稲」

「父上」


 現れた父親の声に、於稲は顔を上げた。そして目を見開く。やってきたのは父だけではなかった。


上様うえさま

「ほぅ、本多の薙刀姫なぎなたひめが、これは美しく成長したものだ」


 忠勝とともに姿を現したのは、関東の覇者・徳川家康その男であった。


 天正十六年(一五八八)、時代は混沌極まる戦国乱世。天下は今、豊臣秀吉の手の内にある。この頃、家康四十四歳、秀吉の臣下に甘んじている身であった。


「上様がこの屋敷を訪れるとは珍しいですね。何事でありますか」


 於稲がまじめな顔で問うと、家康は軽く笑って腰を下ろした。忠勝は何も言わず、どこか神妙な面持ちで腰を据える。於稲と目を合わせなかった。


「ふふ、そう急かさずとも良いではないか。秋の夜は長い。この家康と徒然つれづれに話でもしないか」

「徒然に、でありますか」


 於稲はやはり真顔で首を傾げる。こんな夜更けに、わざわざ臣下の屋敷を尋ねてきたのだ。よほど何か――秘密裏に事を運びたいことがあるのだろう。


「そうだ。…それにしてもそなた、まことに美しくなったな。この野蛮な平八の娘とは思えないぞ」

「面立ちは母譲り、気性は父譲りとよく言われまする」


 彼女の母親はすでに他界している。於稲は家康がからかって言っているのだと承知して、照れることもなく返した。


 家康はくつくつと愉快げに笑う。


「ならば於稲よ、我が妻になる気はないか」

「……ご冗談を」


 驚きのあまり声がかすれた。


 於稲は今年で十六になる。武家の娘が嫁ぐにはそろそろ年頃だ。今宵の父からの呼び出しは、きっとその旨であろうとは思っていた。そして、覚悟を決めていた。


 だが、相手が家康となれば話が違う。


「冗談と? なぜそう思う」


 家康は人の悪い笑みを浮かべている。その顔に於稲は平常心を取り戻して、あくまでも淡々と答えた。


「上様には既に若さまがたが大勢いらっしゃる。今さら新しいめかけを貰う必要もありませんでしょ。そして何より、我が父は上様に偽りのない忠誠を誓っておりまする。それは上様も知るところ。本多の娘を拾っても、上様に何の益もありませぬもの」

「そうだ。ふふ、そなたは頭も聡い。ますます気に入った」


 家康は満足そうに笑うが、隣の忠勝の顔は晴れない。


「では、於稲。父が徳川に忠を尽くすなら、娘のそなたはどうだ」

「無論…わらわも、この身を徳川のお家のために」

「いっそ徳川の姫になりたくないか」


 於稲が言い切らないうちに家康が問いを重ねる。


「徳川の……姫に?」

 意味を掴みかねて眉を寄せていると、家康は頬杖をついて上目遣いに言った。


「どうだ、秀忠の嫁に来ないか」

「――え……あの」


 秀忠は家康の三男。まだ八つの子供だ。

 まさか本気か。於稲が何も返せずにいると、やっと忠勝が重い口を開いた。


「上様、お戯れはそこまでに…」

「何だ、つまらない男だな平八」


 家康は心底残念そうに言う。


 戯れ、という言葉を聞いて、於稲は胸の内でほっとした。


「仕方ない。では本題に入るとしよう」

「はい」


 家康は穏やかに言ったが、やはり先ほどまでとは声音が微妙に異なる。於稲はスッと背筋を伸ばした。


「於稲、徳川の姫になる気はあるか」

「は? ……またご冗談でありますか」


 於稲は肩すかしを喰らって気が抜けてしまったが、家康はにこりと笑って「いや」と扇を手にした。


「そなたを我が娘として迎えたいのだ」

「………は…?」


 やけにつくりが派手な於稲の目が、限界まで見開かれる。


 彼女の反応に満足したらしく、家康は扇で扇ぎながらまた笑いをこぼした。


 忠勝が決まり悪そうに説明する。


「於稲。お前ももう年頃だ。そろそろ夫となる者のもとへ嫁がねばならん。だが今はこの国にとって、そして徳川と本多の家にとっても最も重要な時期、時代だ。――六年前に三郎公(織田信長)がお討たれになってこの方、羽柴の藤吉郎(秀吉)が大きい顔をしている…このまま放ってはおけん、遠くないうちに必ずや戦となろう。その時のために、徳川には味方が必要なのだ」


 家康が頷く。もはや先程までの浮ついた笑みは消え去り、その眼光は鋭く射るようだ。


「於稲よ。わたしが欲しいのはな、城や土地ではない」


 トン、と閉じた扇の先で床を突く。


「天下だ。わたしは徳川の天下が欲しい。そのためには味方は一人でも多く、一国でも多く、だ。同盟の手っ取り早い手段は婚姻。分かるだろう?」

「……わかります」


 於稲は静かに視線を下げる。


 女は戦の道具。そう、覚悟はしていたはずだ。


 家康はよし、と満足そうに頷く。忠勝は目を伏せた。


「そなたを我が養女とし、徳川の姫として他国の大名に嫁がせる。悪く思うなよ」

「光栄です」


 嘘ではなかった。だが、父の顔を見られなかった。


「しかし困ったことに、肝心の相手が決まっていない。どこもかしこも欲しくてな。まぁ、ある程度格のある家を選んでやるつもりだが……それとも自分で選ぶか?」

「いえ、まさかそんな。上様にお任せします」


 於稲は焦って首を振った。


 ふむ…と家康は深く唸る。


「この機に若者どもをふるいにかけるか」


 家康が悪戯を思いついた子供のようにニヤリと笑むと、忠勝は思わず顔をしかめた。


「他家に恥をかかせるような振る舞いはお慎み下さいませ」

「気取った仮面を剥がさないと人の本性は見えないものだ。のう、そなたもそう思うだろう、於稲」


 話を振られた於稲はにんまり笑う。


「はい。ですが、どのようなふるいにかけましょう」

「稲」


 家康の悪だくみに乗り気になった娘を忠勝が叱りつける。家康が「まぁまぁ」と笑って彼に風を送った。


「良いではないか、平八。お前も、可愛い娘を愚鈍な男のもとへはやりたくないだろう」

「上様……それは、ですが」

「それで、上様。それはいつ頃に?」


 弱り顔の忠勝を尻目に、於稲は心底楽しそうに言った。少々わざとらしくはあったのだが。


「なるたけ早くだ。明日にでも諸国に遣いを出し、目ぼしい大名家の若い連中をこの浜松に集める。その中から婿殿を選ぼう。当日はそなたも城へおいで」

「はい」


 於稲は両手をついて頭を垂れた。


「では、化粧の道具などそろえて、楽しみにお待ちしております」


 その表情は宵闇と黒髪に隠れ、窺うことはできない。


 家康は上機嫌に言った。


「養父となったからには、徳川の名にかけて、わたしが豪華絢爛な嫁入り道具を持たせてやろう。ははは、楽しみだ」

「はい。ありがとうぞんじます」


 深々と頭を下げる娘に、忠勝もまた、静かに目を閉じて顔を伏せた。




 世は無常にして無情。  

 武家に生まれた女は、武家の女として生きる他ない。


 恋だの愛だの、夢のまた夢。


(……なればわらわは、骨の髄まで武家の女として生きよう)


 武家の娘として、妻として。


 ―――この身果てるまで。



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