クリームソーダと理論と革命

うさぎやすぽん

クリームソーダと理論と革命

クリームソーダと理論と革命


 ぼくはヤクルトのカップで世界を変えることを決意した。


 世間ではあまり知られていないが、クリームソーダの気泡には「ナユタ粒子」というものが含まれている。

 例えばそのナユタ粒子を集めてヤクルトのカップに詰める。ヤクルトのカップはナユタ粒子の対流を引き起こすにはうってつけな形状をしている。そのナユタ粒子をカップに詰めて、自販機の缶のお汁粉に含まれる「ゼロ粒子」を少量合わせ、ラップで蓋をして「ノーキーズ運動」によって生まれた熱で三分間熱する。

 それだけで小型爆弾が完成する。蓋を外し、衝撃を加えると、ナユタ粒子の運動によって生まれたエネルギーが放出されるのだ。

「フレネシ理論」は現代科学を凌駕する理論であるというのに、その存在を知っているのはぼくだけである。

 現代科学によってもたらされた文明には無駄が多い。

 そう遠くない未来、資源は枯渇し、エネルギーを生むことが人類は叶わなくなる。

 しかし、この「フレネシ理論」、世に存在するあらゆるものが知らん顔して放ち散らししている粒子の運動によるエネルギー理論体系を利用すれば、人類は有限資源に頼ることなくあと十世紀は生きながらえることだろう。

 そのはずなのだ。

 ただ、ぼくの発見したこの理論など、誰も聞くことはない。

 そんなことなど、とうの昔っからわかっていた。


 その日もぼくは、神保町の「ラドリオ」でクリームソーダを注文し、文庫本を読むふりをしながらナユタ粒子の採取に勤しんでいた。

 ラドリオは神保町の古書店の一角に存在する喫茶店である。その入り口だけが煉瓦造りになっている意図的なレトロの扉は雑で汚い都会的な街とその店を隔離するにはもってこい。窓が少なく薄暗い店内を照らすシックな色のランプは店内をモダンで古風な雰囲気にする。黒のシンプルなエプロンの少し不愛想な店員はその喫茶店の気取らなさを演出するには重要な役目を果たしている。

「東京 喫茶店特集」なんて見出しの本があれば掲載されがちな、老舗の喫茶店である。ウインナーコーヒーを日本で初めて出した、なんて聞いたことがあるが、ぼくはそんなこと知らんといった心持でクリームソーダを注文する。

 休日には満席のことが多いが、平日の夜のこの時間だと客もまばらで、煙草を吸いながら酒を飲むような大人がたむろするぐらいのもんで、ぼくが奥の四人がけのテーブル席を一人で我が物としても誰も白い目を向けない。

 ラドリオのクリームソーダは、緑のソーダにバニラアイスとチェリーが乗った、いわゆるシンプルなクリームソーダである。しかし、そのソーダの色は透き通っているが緑色がかなり深い。宝石のような光り方をして、シックなテーブルの色の上ではよく映える。

 バニラアイスが溶けた部分から、その透き通ったエメラルドの宝石の色は翡翠のような濁り方をしていく。少し炭酸のきついこのソーダも、その翡翠色の部分になると炭酸も緩和され、舌触りが優しくなる。

 別に、ナユタ粒子なんて自販機のウィルキンソンの炭酸水からも採取出来るが、ぼくはラドリオのクリームソーダから取るのが好きだった。勿論、雰囲気補正である。

 少しだけソーダを飲み、冷房の行き届かない、むっとその気を重くさせた雰囲気の店内から逃れたような爽快な気分を一瞬だけ味わい、そのグラスの縁に「ナユタ粒子採集フィルム」を貼り、文庫本を読むふりをする。薄暗く、心許ない明かりの下で本を読むのはあまり進まないことだが、なんとか踏ん張って文字を追う。

 そうやって、バニラアイスをスプーンですくい、ソーダを口に含み、を繰り返している最中だった。

 ぼすっ、と音がする。

 いつもは全く気にならない、誰かが立てる音。誰かの生活の中で生まれる何気ない音。例えば足音とか。荷物を置いた音とか。ため息とか。ヘッドフォンから漏れる音とか。

 その音が、ふと耳に飛び込んでくる。

 ぼくの鼓膜を勝手に揺らした奴の方に、ぼくは視線まで奪われた。

 白のブラウス。ネイビーのチェックのスカート。黒のソックスに茶のローファー。椅子に投げられた黒の鞄は半開きでみっちりとファイルや教科書っぽいのが詰まっている。

 その黒く肩まで届かない髪はウェーブのかかったような動きがあるが、決して痛んでいるわけではない。肌は白いが健康そうだと感じさせる色。眉は整えられているが存在が感じられるほどには太く、そして睫毛が長い。

 そして、首にかけられた赤のAKGのヘッドフォン。

 こんな時間の、こんな喫茶店に、一人でやってきて、その制服のまま、ポケットから赤い丸が目立つ煙草の箱を取り出し、彼女は、煙草を吸い始めた。

 やばい女子高生が来た。

 こんなに人に長い時間視線を奪われたのは初めてだ。

「あっ、煙草気にする人?」

 彼女は俺の視線に気づいたのだろうか、口に咥えた煙草を灰皿に置いて俺に向かって声をかける。

 そこなのか? と思いながらぼくは首を振って、椅子に深くもたれかかった。

「いや、なんでもない。良い趣味だな、と思って」

「一日一本だけにしてるんで、セーフ」

 彼女はまた煙草を口に咥え、ふーっ、と長い時間をかけてその煙を吐き出した。

 そのまま会話をすることなく、ぼくは再び文庫本に目を向けた。しかし、そんなに読みづらい文章でもないはずの「どくとるマンボウ航海記」がなかなか頭に入ってこない。

「あっ、クリソだ」

 そしてまた彼女はぼくの邪魔をする。

「私も好き。ここのクリソ。キミ、良い趣味してるね」

「クリソ? クリームソーダってそういう風に略すの?」

「女子高生は略すのが好きなお年頃ですし」

「女子高生は煙草なんて吸わない」

 ふっ、ふーん、と彼女は悪びれた顔で微笑み、そしてクリームソーダを注文して鞄から文庫本を一冊取り出した。ブックカバーもつけられていない。表紙は見ればすぐわかる。新潮文庫のカミュの「異邦人」

 そこから彼女は黙って本を読みふけった。同じ空間にいることが少しだけ不思議に思えるほど、彼女は一瞬にして本に没頭した。そのくせクリームソーダは器用に飲むのだから、女子高生というものは凄いもんだと感心する。

 しかしやはり、こんな店にこの夜にやってきて煙草を吸って一人で本なんて読んでいるんだから、かなり変な子なんだろう。

 少しだけ、心が躍っているのを感じて、阿呆かと思い直してため息をついた。

「なんか悩んでんの?」

 彼女は、いつの間にかこちらを見ていて、にい、と悪戯っぽく笑った。

「君を見て、日本の未来はやべーなーって感じたんだよ」

 なんとか格好つけようと、動揺を見せなかった。どうだ。

「確かに日本の未来はやべーなーって感じかも」

「お前が言うな」

「だって日本の将来を憂うのは若者の役目でしょ。私、若者」

「そんな一人で行動するのが好きです! みたいな顔してえらくぼくにつっかかるなあ」

「だって君、変だし、面白いし」

 はっ? と頓狂な声が出た。格好悪い。

「だって、私と一緒で予備校から抜け出してきた高校生なんかなーって思ったら、鞄にはテキストとかも一切入ってないし。なんかクリソのグラスにフィルム貼ってるし、変な機械いっぱい出してるし」

 そう言って彼女はぼくのテーブルを人差し指で指す。確かに変だろう。テーブルにはノーキーズ運動が勝手に生じないために置いた「ノーリーターン振動」を空気中に起こす小型の装置や、他にも自作の装置をたくさん置いている。

「エフェクターかと思ったら違うじゃん。なにそれ?」

「言ってもわかんねえよ」

「じゃあ、試しに言ってみて」

 また、そこの彼女は、えらく楽しげに笑うのだ。

 はあ、とぼくは深いため息をわざとらしくつく。

 誰もわからないことを説明することは、かなり寂しいことだ。

「このフィルムはナユタ粒子を採取してるんだよ。それで、ナユタ粒子を採取した量を測る計測器。これがノーリーターン振動を起こす機械。これが携帯ノーキーズ運動発生器。これがナユタ微粒子の溜まった、まあ、電池みたいなやつ」

 きょとん、として彼女はぼくを見つめた。

 ぼくたちのテーブルを照らすランプはお互い別々のものだ。

 なんだか、二人とも違う世界に生きているような、そんな照らし方をする。

 そして、少しの呼吸の間、店内を流れるシャンソンの音楽がいやにうるさく聞こえた時間を経て、彼女はけらけらと笑いだした。

「ほんっとにわかんない! なにそれ!」

 ぼくの話を聞いて、ここまで楽しそうに笑う人間は初めて見た。

 少し、むっ、と恥じらいがこみ上げる。何かを取り繕うようにぼくは言葉を重ねた。

「いや、笑うかもしらないけど、これはオカルトでもカルトでもなんでもない! フレネシというエネルギー理論体系がこの世には存在して!」

「フレネシ理論! 出た! またわかんない!」

「だから! この世にはお前らの知らない、いや、知ろうとしない、科学とは別の体系で動いてるもんがあるんだよ!」

「なにそれ、魔法? ファンタジー?」

「そんなもんじゃない。まあ、ある種魔法みたいなもんだけどさ」

 へえー、と彼女は微笑みながら目をこすり、そしてぼくのテーブルの上のナユタ粒子計測器を手に取ってまじまじと見る。やめろ、と言おうと思ったけれど、なぜか声が出なかった。

「そのフレネシ理論では、何が出来るの?」

 こつん、とわざとらしく音を立てて彼女は機械をテーブルに置いた。そしてクリームソーダのグラスを持ってストローを指でつまみながら、ちゅうっ、と飲みながらぼくを見る。

「粒子と粒子をぶつけたり、流れを引き起こしたりすることでエネルギーが生まれるんだよ。熱みたいなものにもなるし、運動エネルギーみたいなものにもなる」

「みたいなもの?」

「厳密に言うと違うんだよ。確かに物体は運動するし、熱も帯びるけどさ、それはぼくたちの持ってる各々の粒子の運動で、例えばぼくたちは今、ホーシン粒子を自ずと放ってるんだけど――」

「あー、ごめん。わからない。絶対わからない」

 しかし、彼女はえらく楽しそうにぼくの話を聞くものだった。

 こんなに、誰かと話していて、相手が楽しそうなのは久しぶりだった。

 大学で研究に没頭する父はぼくの話なんて耳にもしようとしなかった。母はぼくの話すことを不審に思って、中学の頃一度精神科の病院に連れて行った。それ以降ぼくが母とする会話は最低限のものだけになった。

 中学も高校も、低レベルな奴らの集まりで腹が立つ。進学校とはいえ、遅れた学問である数学や化学、物理、生物学のこともわからず、必死こいて勉強して頑張った気分になっているのだから、見ていて気分が悪い。

 この世には「フレネシ理論」という最も優れたエネルギー体系があるというのに、誰もその存在に気が付かない、知能指数が低い、救えない人間ばっかりだ。

 だから、ぼくはこの理論を、あくまで個人的なものに留めることにした。

 こんな世界の奴らのために、使うなんてもったいない。

 そのはずだった。

 けど、彼女は、ちょっと違った。

「えっと、ほら、ぼくの手の上、変なもやもやというか光があるでしょ」

「わっ、ほんと! なにこれ。魔法みたいじゃん」

 なぜか、ぼくは彼女に、この理論を伝えようとしていた。

「これがナユタ粒子の運動が可視化したものでさ」

「へえー。綺麗な光。クリソの色とちょっと似てるね」

「光って言うのもちょっと違うんだ。波動じゃないからさ」

「あー、難しい難しい」

 彼女の微笑みは、やっぱり、少し悪戯っぽくて、ちょっと小馬鹿にしているようなとこもあって、どこか幼くて、でも、小気味よくて―ー。

「いいじゃん、フレネシ理論?」

 もっと見ていたい、そう思った。


 店を出ると、むわっ、と汚くて濁った空気が顔を覆う。蒸し暑い。夜でも暑い、ということを毎回忘れてはこんなときに思い出す。

ビルとビルの隙間から夜空が見えた。

 この街の明かりは現代科学のもたらしたものだから全然綺麗じゃない。

 でも、夏の夜空は冬のそれよりも青く見えて綺麗だ。それは科学なんかじゃ説明できないことだとぼくは思う。

じめっ、とした空気を払いのけても、夏のじめじめした風はぼくたちを包んで逃さない。「あっつー」と彼女は手をひらひらとさせ、額を伝う汗を親指で拭う。

「駅どっち?」

「御茶ノ水」

「私と一緒じゃん、よくここまで来るねえ」

「台詞まで同じだ」

 彼女は神保町から御茶ノ水までの坂を上る間、「予備校が怠い」「学校がつまんない」「数学の加藤が嫌い」などとありきたりな愚痴をぺらぺらと重ねた。そんなこと聞かされても、そう思って少しはうんざりしたけれど、それでも言葉の折々からちらつく彼女の言葉にいちいちぼくは痛快なものを覚えていた。

「みんな、馬鹿ばっかなんだよ。この世の人はさ」

 行き交う車や人の音が慌ただしく聞こえる中で、彼女はぽつりと呟いた。

 ぼくは、そんな雑踏の中でも彼女の言葉だけは聞き逃すことがない。

「なのに、みーんな、自分は賢い! みたいな顔してる。騙されません! みたいな」

「まあ、そうだよ。そういう君はどうなの?」

「嫌味だなあ。私は馬鹿だよ。賢いとか思うの疲れるじゃん。フールガールだよ」

「そうかな。他の人よりは、そんなに」

「褒めてくれるの? やったー」

 信号待ちの交差点で、彼女はぼくの顔を覗きこむようにして笑う。

 神田川が近づいて、少し爽やかな風が吹くようになった気がする。汗ばんだシャツがそこまで気持ち悪くない。

「やになっちゃうよね、こんな世界。生きる意味あんのかなー、この世界で一生懸命さ。くだらないもんに見えてくるんだ、全部」

 そんな彼女は、今までぼくが出会ったこともない人だった。

「私がくだらないからじゃなくてさ、この世界がくだらなく見えるから死にたいなーってときがあるんだよね。死なないけど。死んだら負けた感じするじゃん。私は馬鹿だけど弱くないからね。くだらない世界だーっ! 馬鹿―っ! って思いながらがぜん戦ってやりますとも」

 誰かが言っていたのを聞いたことが無い、そんな言葉を言う。

「でも、キミのその、なんだっけ。フレネシ理論。それは面白かったなー。そんなもの見つけるなんて、天才ってやつだね。見た目は普通だけど」

 そんなに強く記憶に残るなんて見たこともない、そんな笑顔を見せるのだ。

 彼女がどういう人なのか。

 ぼくにとってなんなのか。

 それを説明できる学問も理論も、ぼくは知らなかった。


 彼女とはそれから頻繁に「ラドリオ」で出会うようになった。

 彼女が現れる時間はまばらであったが、平日の夜にふらふらと現れては、「ラッキーストライク」を一本だけ吸い、そしてクリームソーダを注文して本を読む。

「ここでは勉強しないんだな」

「いやー、ここでぐらいは受験のこととか忘れたいじゃん。俗世から離れたいじゃん。ゆるふわ老荘思想―っ、みたいな感じで」

「なんだそれ」

「子曰く、クリソは美味しい」

「あほっぽい。めっちゃあほっぽい」

 彼女の言葉選びはいつも適当で軽い。しかしどこか飄々としていて痛快で、次にどんな言葉が出るのかとわくわくする。

「あーっ、今日もアツがナツい。クリソ日和。クリソ記念日」

「『ピンポン』の台詞だ」

「キミって数学とか科学とかは馬鹿にすんのに、漫画とか小説とかは好きだよね」

「作られた世界はなんとなく好き。現実じゃないから」

「わかるなー。私も創作の世界に逃げたいなー。でもそーいうとこで生きてても『この世界は糞だーっ! 馬鹿―っ!』とか言ってるんだろね」

 彼女はそうやって世界を斜めに見て小馬鹿にして、そしてクリームソーダをストローでちゅうっと吸う。

 いつも彼女が座るのはぼくの隣の席だった。だから、その視線がぼくに向くことはなく、彼女の横顔を見て、彼女がどこを見ているのかと想像することばかりだった。

「今日も世の中くそったれだね」

 でも多分、彼女の見ているものは、ぼくと似ている。そんな気がしていた。


 その日彼女が現れたのは夜遅くのことだった。

 今日は彼女は現れないのだろう、と思ってクリームソーダを飲みほして、そして帰り支度をしていたときに彼女はふらふらと現れた。

 いつもなら「やっほー」とか「わーまたいるじゃーん」とか言って、冗談混じりの声色で軽口を叩くというのに、「やー」と言ったっきり何も言わず、辛口のジンジャーエールを注文して黙っている。

 本も読もうとしない、虚ろな彼女を初めて見た。その視線の先にはないもないような目だった。彼女を照らす電灯が、彼女をこの空間から切り離しているように思える。

 声をかけようかと思ったけれど、隣り合う席のはずなのにはるか遠くにいるように見えてしまって躊躇してしまう。こんな些細なことが出来ない自分に腹が立つ。「フレネシ理論」なんてなんにも役に立たない。

「ねえ」

 すると彼女はぽつりと呟いた。

「やっぱりこの世はくそったれだね」

 いつも言う、彼女の台詞。だけど、今日はいつものようにふわふわ浮いて、ぽんぽんと弾むような軽さがない。

 じんわりと胸に染み込んでいく、そんな重さ。

「なんかあったの?」

「そりゃ、毎日いろいろあるよ。じょしこーせー。キミは学校サボってるからかわからんと思うけど」

「学校なんて、馬鹿ばっかだから」

「いいなー。私も勉強しなくても試験全部百点とりたい」

「あんな勉強、するだけ無駄だよ」

「しなきゃなんないんですー。キミみたいな天才じゃないんだし」

「ぼくは天才なんかじゃない。みんなが馬鹿なだけ」

 だから――、と言おうとして、「そーだねー」と彼女が言葉を遮った。

 はあ、とため息をつかれて、ぼくの言葉は喉の奥で止まってしまう。彼女を包むその空気が、ぼくの言葉を制限する。

 煙草を咥え、ライターで火をつけ、そして、ふう、と煙を宙に散らすその一連の仕草。それは美しく絵になって、ぼくの目に焼き付く。

「あーあ」

 そう言って、彼女はぼくのほうを見た。

 その潤いを帯びて、澄んだ瞳に、何も映っていないかのような目を彼女はする。


「こんな世界、なくなっちゃえばいいのになあ」


 その日、ぼくはヤクルトのカップで世界を変えることを決意した。

 小型のヤクルト爆弾の研究は進んでいく。「ナユタ粒子」と「ゼロ粒子」の分量、「ノーキーズ運動」の加熱時間、また別の粒子との対流の組み合わせ。「フレネシ理論」を完璧に理解しているぼくは、その自分の導いた計算と結果が全く同じになることにいちいち満足を覚えていた。

 実験も怠らず、爆弾の威力を確かめるためにあらゆるものを爆発した。アルタの大画面を破壊したのはやりすぎた。ニュースでは「連続爆破事件」として、渋谷や新宿のあらゆるものが破壊されていくことを報道していると彼女は言っていた。ぼくがやったとは伝えてないけど、彼女はよくその話をした。

そのニュースの話をするときの「なんか世もマツだねえ」と言っている彼女は少し嬉しそうで、ぼくはそれを見てほっとして、こみ上げる笑みを隠すので精一杯だった。

 いつの間にか、糞暑い夏も、そんなに嫌じゃなくなっている。

ラドリオを出て、御茶ノ水駅に向かう道でそう思って一人で微笑む。

「フレネシ理論」があれば、こうして世界を動かすことが出来る。

 誰も知らない最も優れたエネルギー理論体系を知っているのはぼくだけだ。

 こんな車の音がうるさいのも、通りすぎる大学生たちが歩くのに邪魔なのも、楽器屋で陳列されたギターや金管楽器が嫌味な光り方をするのも、ぼくは爆発して変えることが出来る。

 彼女の言う、こんなくそったれな世界も変えることが出来るのだ。

「世界、マシになった?」

 あの日以来、少し元気になっていた彼女はクリームソーダを飲みながらこう答える。

「まだまだくそったれだね」

 心地よい、快活な微笑みが、ぼくはもっと見たいと思った。


 夕方、いつものようにラドリオに向かう途中、なんとなく道を変えたくなった。

 御茶ノ水駅から西に向かい、少し入ったところで路地に入る。

 この辺りは予備校が多い。うざったい高校生や、くだらない顔をした浪人生らしき奴らがうろうろと歩いていて、気分が害されたのでこっちに来たのを後悔した。

 でも、なんとなくだった。

 この辺りを歩いていたら、偶然彼女に出会うかもしれない。そう思っていた。

 こんなところを歩くんだから、そりゃ世界にうんざりするだろう。

 彼女はくっそつまらなさそうに歩いているに違いない。絶望するのも勿体ないぐらい、絶望的な道だとぼくは思った。

 数人で陽気に話している奴らの話は何が面白いのかわからない。なんだか俯きながら歩いてるあの女の子の悩みもくだらないに違いない。貧相な顔で歩くあの高校生も、なんの価値もない人生を歩んでることだろう。

 風が全くない、蒸し暑い夏の日だった。

 太陽が傾いているから、暴力的な熱さではないけど、じんわりと蝕んでいくように伝わる暑さには参るものがある。

 そのとき、予備校に入り口から、見覚えのある姿が目に映る。

 飄々とした姿勢、快活な歩き方、そして、どこか惹かれるオーラ。そして首に下げた赤のヘッドフォン。

 顔がはっきり見えなくても、彼女だとわかった。

 ああ、と声が出そうになったのが少し恥ずかしい。

 彼女はぼくに気づいていないようだった。声をかけようかと思って彼女が歩いていく方を見ようとする。

 そのときだった。彼女の隣に、見たことのない男がいたのに気付いた。

 普通の高校生、いや、普通というには顔は整っているし、かなりの好青年だ。

 彼は彼女の隣で、彼女と同じように快活に笑う。彼女が何かを言うと、彼はそれに対して何かを言って、そして彼女とまた一緒になって笑う。

 彼女は、うんざりするようなこの道で、わりと楽しそうだった。

 ぽかん、とぼくは口を開けて、好青年と二人でコンビニに入って行く彼女を見た。

 店内に入っても、彼女は結構楽しそうで、ぼくの知らない奴とぼくの知らない話でぼくの知らない笑い方をする。

 なんだ。

 なんだ、それ―ー。

 ぼくはそこから離れるように歩き始めた。

 壊れたとかそんなんじゃない。

 心には最初から何もなかったかのような、そんな感じで。

 つまらない世界で、こんなにもくだらない世界で、馬鹿ばっかりの、世界のはずなのに。

 彼女は、どうしてか笑っている。


 その日、いつものように彼女はラドリオにやって来た。

「今日もアツがナツいねー」

 彼女の言葉に、ぼくは上手く返せなかった。「あれ? ご機嫌斜め?」とからかうような口調で彼女はぼくの顔を覗きみた。

 いつも通りの彼女だ。「世界はやっぱりくそったれだね」と言う彼女だ。

 ぼくは、彼女は違うと思っていたんだ。

 こんな世界でも、彼女だけは違うと思っていたんだ。

 彼女は煙草を取り出して、そして火を点けて、独り言を言うように、別にぼくの返事なんていらないと言うようにして、言葉を紡いだ。

「今日も暑いかったねー」「太陽が眩しくて人殺すってなんかわかるよね」「クリームソーダ日和は毎日だなあ」「あー、やっぱり枯葉は歌詞がつくとダサいなあ」

 いつものように、快活で、ぼくが好きな語り口で。

「あー、今日も世界はくそったれだね」

 ぼくの好きな微笑み方で――。


「ねえ、革命を起こそう」


 そう言うと、彼女は、えっ? と首を傾げた。


「革命だよ。二人で。この世界を変えよう。馬鹿ばっかりのこの世界を変えるんだ。そ、それでさ、ぼくと君が結婚して、それで、二人で国を作って、馬鹿がいない国だよ。フレネシ理論でエネルギーを全部まかなうんだよ。二人で、一緒に住むんだよ、別に、家は大きくなくていいんだけど。別に偉い人とかじゃなくてもいいから、フツーに、暮らすんだよ。君とぼくの子供も幸せでさ。ぼくたちの理想的な世界で。フレネシ理論で――」


 ぼくの言葉に、彼女は何も言わなかった。


「フレネシ理論は最も優れている。だから、ぼくと君とが結婚しても、絶対に幸せになれないことなんてないんだ。ほら、くだらない奴らばかりじゃないか。どんな男も糞ばっかりだ。なあ、そうだろ。そうなんだよ。君もくそったれって言ってたじゃないか。だから結婚して、世界をぼくたちで変えるんだよ。二人で――」


「二人で、革命を起こそう」


その店内を流れるシャンソンの音も聞こえなくなって、ぼくも彼女も何も言わなくて、長くもなく、短くもない、沈黙が流れて、彼女は、やっぱり何も言わなくて――。

嘘じゃない。

世界は、やっぱりくそったれの、はずなんだ。

彼女も、そう言うはずなんだ。

「ははは、出来ないよね。ごめん。忘れて」

 そう言い残して、ぼくはお金だけ置いて、ラドリオを走り去った。

 いつもより蒸し暑い、くそったれな夜だった。


 ヤクルトのカップに、ありったけのナユタ粒子を詰め込んだ。

 ゼロ粒子も膨れ上がるほどに詰めた。ノーキーズ運動で加熱したまま一晩寝た。

 ぼくの計算では、これで大爆発が起きる。それはもう、いつもの小型爆弾なんて比較にならないほどの、世界がこれ一つで変わってしまうほどのヤクルト爆弾だ。

 空の色は真っ青だ。くそったれた世界だけど気持ちいいと感じてしまうぐらいの快晴だ。

 あえてそんなのを吹き飛ばしてしまうのも爽快だ。ぼくに敵うものはなにもない。

 フレネシ理論は最も優れている。

 これを知らない奴なんて本当にくだらない奴らだ。目を向けようとしない奴らは向上心の無い屑だ。

 新宿から御茶ノ水に向かう途中、早く爆発させたくて仕方なかった。でも爆発させるなら御茶ノ水駅だとぼくは確信していた。

 世界を変える。

 ぼくはこの世界を変える。

 くだらない世界だ。くそったれな世界だ。

 ぼくのことなんて誰もわかりやしない。馬鹿ばっかりだ。

 期待なんてしない方が良い。

 結局、誰も知らないのだ。

 こんな世界、存在する価値もないことを。

 御茶ノ水駅から出て、人ごみにイライラして、御茶ノ水橋の真ん中に立つ。

「BIG ISSUE」を売る男の前で、ぼくは欄干に手をついて、橋の下にびよんと伸びて存在する駅を見る。

 中央線が止まって、ぞろぞろと人が降りている。黄色の総武線の色とオレンジの中央線を見て、なんだか気分が悪くなる。

 やっぱり、ここを選んで正解だった。

 壊そう。何もかも。世界を壊してしまおう。

 ポケットからヤクルト爆弾を取り出した。

 ラップをはがして、放り投げるだけだ。

 粒子の運動は重力なんてものともしないから、一直線にホームに届くことだろう。

 そして、ホーム、いや線路でもいいんだけど、どこかにぶつかったときにエネルギーの放出、爆発が起きる。

 そのとき、世界が変わる。

 巻き込まれても知らない。そんなことはどうでもいい。

 このくだらない、くそったれな世界を変えることが出来たら、それでいい。

 ぼくが変えるのだ。

 この世界を。ぼくが。

 ヤクルト爆弾を太陽にかざすなんてキザみたいなことをした。

 そして、ラップをはがした。

 駅に向かって、大きく振りかぶった。

 そのとき、総武線のホームに、赤のヘッドフォンをつけた女の子を見た。

彼女だ。

彼女が、そこにいた。

 えっ―ー。

 なんで――。

 ヤクルト爆弾は、ふわふわと浮いて、ホームに一直線に向かう。

 彼女と目が合った。橋の上のぼくに向かって、彼女は少し驚いた表情をしたあとで、軽快に、いつものように笑って、そして手を振っている。

 何かを言おうとして、両手を口元に添えて、でもやっぱりだめかみたいな顔をして、ちょっと恥ずかしそうに笑っていた。

 やばい。

 大変だ。

 このままでは、彼女が――。

 だめだ。

 爆発してはだめだ。

 まずい。やばい。どうしよう。

 だめだ。だめだ。無理だ。なんで。なんで、彼女が―ー。

 くそったれ。

 世界は、やっぱりくそったれで、くだらなくて、馬鹿ばっかりで、存在する価値もなくて、だから、革命が必要で、ぼくが変えなきゃいけなくて――。

 そうだ、彼女もくそったれなんだ。

 彼女も奴らと一緒なんだ。

 馬鹿だ。

 存在する価値もない屑だ。くそったれだ。

 でも、こんなはずではないんだ。

 こんなはずじゃ―ー。

 フレネシ理論じゃ、こんなはずじゃ――。


 ヤクルト爆弾が、線路にぶつかった。


 そのとき見た光は初めて見た色をしていた。

 駅のホームから立ち上った一筋の光。例えるなら宝石の緑のような。でも、そんな色の宝石を見たことがなかった。

 その光は力強く、天に伸びて、こんな快晴の空の中でもきらきらと光って、辺りに輝きを散らしている。

 あれに似ている。

 クリームソーダ。

 天高く伸びていく、ヤクルト爆弾の届いたところから溢れ出る光は、その力強さを保ち続けたまま、空に昇るのを止めることがない。

 道行く人が皆その光を見ていた。駅にいた人は皆空を見上げた。

 晴れた日に降る雨のように爽やかだった。

 くだらない世界を照らす、くそったれな世界に輝く。

 クソ美しい光だった。


 ヤクルト爆弾は爆発しなかった。

 計算が間違っていた。そもそも計算なんてしてなかったから仕方ない。

 フレネシ理論は優れているのは間違いない。まだ、ぼくの知らないことがあるだけで。

 その光が止んだとき、彼女はホームから姿を消していた。

 ぼうっと橋の上に立っていると、彼女がやって来た。

 額で光っていた汗を親指で彼女は拭って、少し荒げていた呼吸を整えて、はあ、とため息をついて笑った。

「ねえ、見た? 今の光」

 うん、とぼくは黙ったまま頷く。「すごかったねー」なんて彼女はいつも通り、軽い言葉を呟いてその光の昇って行った空を見た。

 何も言うことが出来なかった。

 それを察していたのだろう。彼女はぼくを見て、少し真面目な顔をして、にい、と優しく微笑んだ。


「いいよ、結婚」


 くそったれな世界だ、というその口調で、彼女は言った。


「素敵な婚約指輪をくれたらね。とびっきり綺麗なやつ。さっきの光ぐらい」


 そして、少し照れたように笑った。


 やっぱりこの世界はくそったれだ。

 世界は変わっていく必要がある。

 それだけは変わらない。

 わかったのは、ぼくも、同じようにくそったれで。

 ぼくも、また変わっていく。

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