第二部 第一章 二 スキャンダルと墓参りと渡りに船

 それからひと月ほど経った、十一月第二週の水曜日のことだった。大学に行き、いつものように研究室のある建物に入った。人とすれ違うたび、どことなく落ち着かないというか、静かにざわついたような妙な雰囲気があった。

 一番乗りで研究室に入って、荷物を置き、届いているはずの郵便物を受け取りに事務室に行った。どういうわけか職員たちはわたしに気付くと驚いた顔をして、見てはいけないものを見てしまったように目を背けた。わずかな間、事務室内が静まりかえった。トイレに行って鏡で顔を見てみたが、いつもとさして変わらない顔だった。そのあとすぐに上司の教授から内線が入った。すぐに部屋に来て欲しいという。

 急いで上司の部屋に行くと、深刻な顔をした上司が開かれた状態の週刊誌を無言で差し出した。

「破廉恥大学教員! 多額の遺産目当てに養子縁組! 女子高生も手籠めに!?」という派手な見出しが躍っていた。そして、わたしたち家族の写真が目を隠した状態で大きく載っていた。写真を見た瞬間、自分の頭から血の気が引いていくのがはっきりとわかった。白黒写真のざらついた感じを見ると、望遠レンズで少し離れたところから撮ったものらしかった。わたしを知っている人が見れば、おそらくわたしだと分かる写真だった。はるみとはるかは笑っているようだが、わたしは憮然とした表情をしていた。着ている服や持ち物からすると、三人で渋谷に買い物に出掛けたときらしかった。さんざん洋服やら雑貨やらの買い物に連れ回されて、疲れて少々不機嫌になっていたときのようだった。でもこんなのは、よくある家族の光景だ。

「これは君のことかね」と上司は聞いた。「わたしもあまり詳しくは聞かなかったが、君の話とよく似ているし、大学もはっきりとではないがうちのことだとわかるように書いてある。写真も君に似ている。どうなのかね」

「ちょっと待ってください」震えた声で言って、震えた手で上司から週刊誌を受け取った。今度は頭に一気に血が上ってきた。

 上司は心配そうにわたしの顔を伺っていた。落ち着こうと思ったが、動悸は一向に収まらなかった。記事の書き出しは次のようなものだった。

「某国立大学の気候関係研究所の教員(四三)は先月、亡き知人の娘(一〇)を養女にした。これだけ聞けば、心温まる話だ。だがもしこの娘に一億円以上もの遺産があったとしたら? しかも同教員は、その娘と仲のよかった女子高生と肉体関係を持って、娘との関係を取り持つように仕向けていたという疑惑も浮上してきた。あなたはこんな教員のいる大学に大切なご子弟を預けたいですか?」

 なかなか頭に入ってこない記事を、進んでは戻り、戻っては進んで、なんとか読み進めた。本文には、わたしたちが家族になったという事実をベースにして、おそらくは意図的な事実誤認と、そして卑劣な憶測までが、まるで事実であるかのような書き方で巧妙に織り交ぜてあった。明らかに情報提供者は後藤だった。後藤が依頼して書かせたのかもしれない。わたしのことを指しているだろう教員が、知人の遺産を目当てにその娘を養女にすることをはかり、娘と姉妹のように仲の良かった美人女子高生と出会ってすぐに関係を持ち、翌日には結婚、そして養女にすることに成功し、まんまと一億二千万円もの財産を手に入れた――という内容だった。記憶喪失についても触れてあり、「そのために世間知らずの無垢な女子高生を言いくるめて、若い肉体をもてあそんだ」と書いてあった。結婚についても、出会った翌日に結婚というのは異常で、「財産を確実に得るための手段か、あるいはよほどその肉体が気に入ったのか」と皮肉っぽい書き方がされていた。さらには、最近手に入れたイタリア製の高級外車を嬉々として乗り回していると、二桁も値段の違うフェラーリの新車と勘違いするように書かれてあった。リード文よりは少しはましだが、ほとんどは事実とは違っていた。はるみが高校生であることは事実だが、通信制であることや年齢が書いておらず、あきらかに誤解を与えようとしていた。はるみと出会ってすぐに結ばれたのは事実だったが、逆にその部分は憶測のはずだった。それにそもそも遺産を目当てになんかしていないし、はるみとはどうしようもなく好きになったから結婚したのだし、はるかのこともものすごく好きになったから自分の子どもになってもらいたかっただけなのだ。そしてふたりもわたしのことを好きになってくれたのだ。だけど、知らずにこの記事を読んだ人は、決してそんな風に思ったりはしないだろう。

 上司には、結婚の報告の時に、はるみが記憶喪失で身元不明であったことやまだ相当若いこと、でも互いにものすごく好きになったこと、また近いうちに亡き友人の娘を引き取って養女にするつもりであるといった程度のことは話していた。それにわたしという人物をそれなりに理解してくれているから、この記事のほとんどがねつ造であることは、説明するまでもなく分かっていたようだった。

「とんだ、災難だな」と上司は言った。「ただ、これが事実とかけ離れているとしても、大学側は問題にするだろうな。君の名前が書いてあるわけではないが、大学も研究所もわかるし、条件を当てはめていけば、すぐに君が特定できてしまう」

「ええ。今朝、研究科の事務室に行ったら、なんか妙な雰囲気だったんですけど、これが原因だったんですね」ため息まじりにわたしは言った。「それで、わたしは、どうすればいいでしょう」

「おそらくは今日の午後からの教授会で話題に上がるはずだから、もし君の名前が出てきたらわたしの方からきちんと説明する。だが、君に来てもらって直接話をしてもらうことになる可能性もあるから、自分の部屋にいてくれ」

 とりあえず記事のコピーをもらって、暗い気持ちで部屋に戻った。はるみに電話しようと思っていたら、はるみの方からかかってきた。

「たかふみさん、週刊誌にわたしたちのことらしい記事が出ていて、なんかひどい書き方をされているの。今朝、事務所の人が通勤中に他の人が読んでいるのをちらっと見て、駅の売店で買ってきてくれた。沢田さんは、後藤さんの仕業だろうって言って、怒っていた。あなたはもう見た?」

「ああ、今、上司から呼ばれて、読んだよ。まったく無茶苦茶な記事で頭に来るけど、大学側としても見過ごすことはできないみたいなんだ。たぶん、午後の教授会で議題になって、もしかすると何か言われるかもしれない」

「だけど、記事は間違っているし、わたしたちは何も悪いことはしていないじゃない」

「うん。でも世間というのは、何が真実かを考えないで、思いも掛けない方向に動くことがあるからね。沢田さんや三上さんはほかに何か言っていた?」

 はるみの声を聞いたら、急に心が落ち着いてきて、冷静な思考が出来るようになってきた。

「名前がはっきり出ていないから名誉毀損で訴えるのも難しいけど、写真は目隠しをしてあってもたぶん肖像権の侵害になるし、わたしたちに不利な状況が起これば何らかの方法で出版社に抗議するか、法的手段に訴えることはできるだろうって。こういうことに強い知り合いの弁護士に今、当たってくれてる」

「そうなんだ。弁護士にも専門分野というのはあるんだろうからね。助かるよ。はるかは大丈夫かな?」

「さっき学校に電話してみたけど、まだ今のところ何もないって」

「よかった。たぶん、大丈夫だよ。少なくともぼくたちは何も悪くない。それに弁護士先生たちも後ろにいてくれるしね」

 はるみは「はい」と答えたが、その声は沈んでいた。当たり前だ。わたしだって、相当落ち込んでいる。でもどんなことをしても、はるみとはるかは守らなければならない。

 教授会に呼び出されることもなく、所属する研究所や研究科からは不問に付された。だが、大学の本部は少し考え方が違っていた。いまは国立大学法人といえども、学生集めは死活問題だった。学生の父母らからの問い合わせがあり、無視できなくなったらしい。記事がほとんどでっち上げであることは認めてくれたが、大学の評判が落ちたことを気にしているようだった。大学の名前が出されたわけではないし、抗議をするとかえって騒ぎを大きくする可能性があるので、静観したい考えだった。ただそれでは学生や保護者に示しがつかないし、かといって停職処分などに該当するわけでもないので、しばらく休暇を取ってはどうかとわたしに勧めた。いったいそれでなんの示しがつくのかわからないと上司も抗議してくれたが、そうして欲しいと本部は頑なだった。わたしの雇用契約は最大五年で、あと三年残っていたが、年度ごとに更新される形を取っていた。大学でのわたしの立場は脆いものだった。

 沢田さんからはすぐにお詫びの電話があった。後藤はあのあと先物取引で起死回生の一発を当てて、金回りが良くなったということだった。沢田さんと別れることになった腹いせと、本人は大金を横取りされたと思っているからその報復のためにやったのだろうと言った。迷惑を掛けて本当にすまないと謝り、最大限の支援をすると約束してくれた。

 それから二日して、金曜日になると、小学校でのはるかに対するいやがらせが顕在化してきた。上履きや筆箱や教科書などが隠されたり、ゴミ箱に捨てられたりした。金持ちなのだから、なくなれば買えばいいという理屈らしかった。わたしなんかと違って、はるかは学内での地位を早くも確立していたらしく、同級生の多くはもちろん、上級生や下級生からも慕われていた。先生方からも好かれていた。そういう子には嫉妬がつきまとうものだ。わずかな心ない者がそういうことをしているらしい。集団的ないじめというほどではないようだが、はるかにしてはずいぶんと落ち込んでいるのが、はるみだけではなく、わたしにもはっきりわかった。

 三上さんに紹介されて、名誉毀損の訴訟などに実績を持つ弁護士に会った。負けることはないだろうが、出版社や記者を相手に訴訟をするのは得策ではないと言われた。裁判で争えば実名がわかってしまうし、他のマスコミまで騒いで、かえってわたしや家族がよけいに傷つくことになるかもしれないとのことだった。最初は訴訟に持ち込む姿勢を見せて、謝罪文の掲載や賠償金などの和解に持ち込む方がいいとアドバイスされた。もちろんそれでは腹の虫が治まらなかったが、はるかやはるみを傷つけるようなことは避けたかった。少なくとも謝罪文が載れば大学側も納得するはずだと思い、最低一ページの謝罪文を和解の条件に上げ、交渉をお願いした。ところがその件を大学側に報告すると、難色を示した。これ以上メディアに取り上げられるのを嫌ったのだ。わたしの方で訴訟をするのは自由だが、大学には一切迷惑を掛けないでくれと言われた。かなり遠回しではあったが、雇用関係をちらつかせた強制に近いものだった。それで、弁護士には動くのを少し待ってもらうことにした。


 気分転換を兼ねて、十一月下旬の飛び石連休に森野さんの墓参りに行くことに決めた。

 森野さんの遺骨は、仙台にほど近い故郷の街の、父親と同じ墓に埋葬されているということだった。東京からはかなり距離があるので鉄道で行こうと考えていたが、はるかとはるみは車で行きたがった。河村教授の墓参りにもずっと行こうと思っていたが、帰国して二年も経つというのに未だに機会をつくっていなかった。教授は、観ておくことを勧めてくれた岩山市のあの祭りに、子どもの頃、家族で毎回行っていたと話していたから、お墓は岩山市周辺にある可能性が高かった。森野さんの故郷から岩山市へは電車だと乗り継ぎが大変そうだったが、車ならアクセスも悪くはなさそうだった。向こうでレンタカーを借りることも考えたが、ふたりは家から車で行こうと言った。ふたりともあの車を気に入ってくれていたのだ。はるかは全体の雰囲気が好きだと言い、はるみは笑っているような顔つきと繊細な淡い緑色が好きだと言っていた。はるかは月曜日に学校があったから、強行日程となるが土日の一泊二日で行って、ずっと車を運転することになるわたしは月曜日に休暇を取って、祝日の火曜日とで連休にする計画を立てた。

 河村教授については生前の研究所の連絡先しか知らなかったので、所属していた大学に問い合わせた。事務室ではさすがに墓地までは把握していなかったが、河村教授と同じ農学研究科の、佐野光一郎という教授に電話をつないでくれた。佐野教授は年に一回は墓参りをしているそうで、霊園の住所や連絡先を教えてくれた。河村教授宛てにわたしから連絡があった場合には佐野教授に回すことになっていたということだった。河村教授と会ったのは十年も前の話で、そんな風に連絡が行くようになっていることにちょっと驚いたが、河村教授からわたしのことは聞いていて、もし来るのであれば、是非会って話がしたいと言った。どういうことかと聞いたが、できれば会ってから話をしたいということだった。わたしの方がよければ霊園も案内してくれるという。日曜日でも構わないというので、会うことにした。

 それだとその日のうちに帰るのは難しくなる可能性があったので、はるかも学校を休ませることにした。はるかの方は学校でのトラブルをすぐに収束させていたから、逃げて休んでいると思われることもない。一体どうやったのかと思ったが、先生から時間をもらって、みんなの前で堂々と事実を伝え、あの記事がもし自分たち家族のことだとしたらほとんどでたらめだと話したのだそうだ。そして、歳の差のあるわたしたちがラブラブで、一緒に住む立場としては少々困っている、と笑いに変えた。「パパとママが授業参観とかで学校に来たときにみんなから冷やかされるかもしれないから、覚悟しておいてね」とはるかは笑いながら言った。家庭裁判所の面接の時もそうだったが、わが子をまた誇らしく思った。自分なんかより、ずっと立派だった。

 片道五百キロ以上の長距離旅行となった。三人で行く初めての本格的な旅行だった。一泊目は仙台、二泊目は岩山市にホテルを予約した。はるかとはるみはお菓子を一杯買い込んでいた。たった二泊三日の予定なのに、愛車の狭いラゲッジルームは荷物で満杯だった。朝早く出発したから、はるかは昼食を食べると寝てしまったが、はるみは眠らないので、こういうときは助かった。連休に加えて、休日のETC割引によって千円でどこまでも行けたから、高速道路は至る所で混雑していた。サービスエリアの入り口では車を停めるための渋滞が起きていた。女子トイレには長蛇の列が出来ていた。ホテルに着いたときにはもう完全に日が暮れていた。車で座りっぱなしだったから街を散策して、それから牛タンを食べに行った。はるかは森野さんと短い間だが仙台で暮らしていたことがあったそうで、それにお墓に納骨するときにも沢田さんと来ていた。それでも別に感傷はないようだった。

 早起きしてまた街をぶらついた。東京に較べるとずっと気温が低く、はっきりと寒かった。空は晴れ上がっていて、放射冷却が強かったらしい。東京の感覚で言ったら、もう完全に冬だった。ホテルの人の話では、雪がちらつく日もあるとのことだった。ふたりに言われて冬物を持ってきてよかったと言ったら、はるかが「ほらね」と言い、はるみも「ほらね」と双子のように言い、三人で笑った。はるかは、キャンプに行った頃から写真を撮ることがすっかり好きになっていて、わたしのカメラを取り上げて、わが家のカメラマンとなっていた。いつもははるかを真ん中にして三人で手をつないで歩いたが、写真を撮るときは自分が少し先を歩いて、ときどき振り返ってはわたしたちが手を握り合って歩く姿をカメラに納めた。わたしは負けじとはるかからカメラを奪い取り、はるかやはるみの写真を撮ったが、たぶん子どものいる家庭としては珍しく夫婦ふたりの写真がやたらと多いはずだった。ホテルで朝食を済ませてから、森野さんの墓参りに向かった。霊園は車で少し行った市街地のはずれにあった。沢田さんが詳しく教えてくれていたので、場所もすぐにわかった。

 森野さんとの再会がこんな形になるとは、もちろんあの当時はまったく想像していなかった。でも涙が出てくるわけではなかった。むしろ晴れやかな気持ちだった。「あなたによく似た素晴らしい娘を大切に育てていきます」と墓前に誓った。そして「おかげで、このうえない家族を持つことが出来ました」と感謝の思いを無言で伝えた。はるみもたぶん同じようなことを思っていたはずだ。はるかは声に出して、「お母さん、ありがとう。はるかにもお父さんができました。太田さんがお父さんになってくれました。そして、はるみおねえちゃんがお母さんになってくれました」と言った。はるかは手を合わせ目を閉じたまま、しばらくじっとしていた。目を開けてわたしたちに微笑みかけると、はるみがもう我慢できないといった感じではるかを抱き締めた。わたしはふたりを抱き締めた。温かかった。そしてもう一度心の中で森野さんに「ありがとう」と言った。

 はるかはこのときから、はるみを「お母さん」と呼ぶようになった。同時にわたしの方も「お父さん」に切り替わった。最初は驚いたし、はるかは何も説明しなかったが、そう言ったときの笑顔がすべてを物語っていた。


 そこから百五十キロほどドライブして、JR岩山駅の近くで佐野教授と落ち合った。岩山は東北新幹線も停車する比較的大きな駅だが、駅前の規模は東京の郊外のターミナル駅などと変わらない。十年ほど前、山の中の研究所に河村教授を訪ねた時には乗り換えただけなので、駅前に立つのは初めてのことだった。

 佐野光一郎教授は、六十歳くらいの、痩身で物腰の柔らかい人だった。少し縮れたグレーの髪の毛を肩まで伸ばしていた。見た目に関する限り、河村教授とは正反対だった。河村教授は狸っぽい感じだったが、佐野教授をあえて動物に例えるとしたなら犬のアフガン・ハウンドだろうか。河村教授の後輩で、公私ともにお世話になったのだと言った。奥さんも教授の紹介だったという。四人で少し遅めの昼食を取り、佐野教授の車の後に付いて、河村教授の墓地へと向かった。

 墓前では、あの日をきっかけにして、たくさんのいいことが起きたこと、なかなか挨拶に来られなくて申し訳なかったこと、亡くなった森野さんの娘を自分の子どもにしたこと、それが縁で最高の妻と結婚できたこと等々、報告し、お礼を言った。

 今回は祭りの期間ではなく市内も閑散としていたから、遅れてもキャンセルされる心配はなかったが、ちゃんと早い時間にホテルにチェックインした。佐野教授の話というのは仕事の関係だというので、ホテルの喫茶室で佐野教授と二人だけで話をすることにした。

「河村さんから、もし太田さんから連絡があったら、申し伝えるよう言われていたことがありまして」と佐野教授は言った。

「えっ、わたしにですか? でも、河村先生が亡くなってから、もう七年ほど経ちますよね」

「ええ。残念ながら河村さんの遺志になってしまったのですが、大学院の農学研究科の森林部門と環境研究科の大気・水文部門が協力して、大気森林作用研究所というものを作ろうとしていたんです。河村さんがいらした山の中にある森林植生研究所はご存知ですよね? 改組して、あそこを拠点にしようと考えていたんです。河村さんが亡くなって一度中断したのですが、五年ほど前にまた動き出しまして、ようやく今年度から正式に大気森林作用研究所が発足しました。すでに高さ二十メートルほどの観測タワーも建ててあります」

「へぇ、そうなんですか。それは興味深い話ですね」

 森林における観測タワーというのは、森林とその上の大気との間の物質やエネルギーのやりとりを測る目的で建てられる、森林よりも少し高い鉄塔のことだ。地上から森林の上まで何段階かの高さに超音波風速計や日射計、各種センサーが取り付けられる。そこで計測された風速や温度、湿度、二酸化炭素などから計算して、森林がどの程度日射のエネルギーを吸収して、どのくらい二酸化炭素を取り込んだり、水蒸気を排出したりしているか、といったことを調べるのだ。それに加えて雨量や土壌の水分量なども測って、その森林と大気環境との間の、物質やエネルギーのやりとりの量やその時間的な変化を総合的に把握することができる。

「タワーではいつごろから観測していらっしゃるんですか」

「一昨年の夏からですかね。もうデータも安定して取れています」

「具体的には、どのような研究を考えていらっしゃるんでしょうか」

 研究の話になったら、旅行に来たことなどすっかり忘れて、思わず話に引き込まれていた。

「やっぱり」

 佐野さんは答えずに、わたしの目を見て笑みを浮かべると、研究所の趣旨や構想などについて、資料を出して、詳細な話をしてくれた。それは、わたしが河村教授からデータをもらう前に熱心に伝えた手紙の内容と大幅に重なっていた。わたしがそのことを告げると、「そうでしょう?」と佐野さんは面白そうに笑った。

 つまりこういうことだった。河村教授は、いつかわたしと研究がしたいと、わたしの構想に沿って計画を立て、準備をしてくれていたのだ。そして、準備が整ったら、わたしを呼んでくれるつもりでいたというのだ。

「河村さんは、太田さんから連絡がなければないでいい、うちの大学にとってもこれからの研究として役に立つから、と言っていました。縁や偶然を大切にする人でして、こちらからは絶対に連絡するなと言われていたんです。研究の発想などは柔軟なんですが、普段はもう頑固でしてね。それにしても、いいタイミングで連絡をいただいてなによりです。というのも、河村さんの書いた研究計画なんかで大学の方は許可が出て、研究所を立ち上げるまでは漕ぎ着けたものの、まだ中心になってやってくれる研究者おりませんので、研究のツボがわからないというか、二つの研究科の人間が喧々囂々けんけんごうごう議論して、手探りで進めていたところなんです。研究の核心部分は河村教授の頭の中にあったものですから。ようやくみんなこの研究テーマが面白そうだということがわかってきたというところなのです。もちろんわれわれにも研究者としてのプライドがあります。ですが、そういう経緯もあって太田さんの論文や研究発表についてはずっとフォローしてきて、余計太田さんと一緒に研究していきたいと考えるようになったのです。それで、こんな地方の大学でよければなんですが、その大気森林作用研究所の主任研究員かどちらかの研究科の准教授として来ていただければ助かるのです」

「棚からぼた餅」と「渡りに船」と「一挙両得」を合わせたような話だった。わたしは狐につままれたような顔をしているに違いなかった。

 なにしろ研究者としては願ってもない話だった。現在所属している研究室では数値モデルによる研究が中心で、分野もやや違うので、観測を含めた自分のやりたいと考えている研究の実現はなかなか難しい状況にあった。それに例の記事の件で、今の大学で研究を続けることに嫌気が差し始めていた。上司を始め、他の先生方や周囲の研究者たちはとても気を使ってくれていたが、本部は違っていた。

 もちろん大きく心が動いた。なによりも河村教授の気持ちが心に響いた。わたしがこんな事態に陥ることを予想していたわけではないだろうが、研究面だけを考えても、河村教授の配慮は胸に迫るものがあった。そこまでわたしを評価して、考えてくれていたとは。それに対してわたしは日本に帰ってきて二年以上も墓参りもせずにいた。まるでついでのようにここに来ていた自分を恥じた。

 でも、東京を離れて暮らすことに対してふたりがどう考えるかわからなかった。でも、はるかはこの地方にゆかりがあるのだし、さほど問題はないだろう。はるみも別に東京にこだわりがありそうでもなかったし、わたしとはるかと一緒ならどこでもよさそうな気はした。一番東京を離れたくないのは自分かもしれなかった。

「こんな地方の大学では、やはり難しいでしょうかね」佐野教授が残念そうな感じで言った。

「いえ」慌てて、否定した。「違うんです。あまりに嬉しい言葉に、呆気にとられてしまって」

 佐野教授はほっとしたように微笑んだ。

「是非、やらせていただきたいと思います。ただ、一応、家族に相談してみないと」

「ええ、もちろんです。前向きに考えていただけますと、わたくしどもとしましてもありがたいです」

 こういう話だとすると、やはりあの記事のことは知らせておいた方がいいだろうと思った。

 例の週刊誌の記事について話を始めると、周囲で話題になっていて佐野教授もざっと記事に目を通したということだった。わたしたち家族があの記事のターゲットであり、どうしてあのような記事が掲載されるに至ったか、推測だと前置きして後藤の話をかいつまんで話した。

「そうですか。そう言われてみれば、あの記事と同じような家族構成ですね。それで娘さんのお歳の割に、奥さんがあんなにお若いんですか。大学教員で分野も近いですから、われわれの間でも話題になっていました。でも実際はあんな記事、誰も本気にしていませんよ。まして、太田さんにお会いすれば、あの記事がいんちきなものだとすぐにわかります。研究所の話にはなんの影響もありません」

「そんな風に言っていただけますと、わたしもうれしいです。でたらめだとわかっていても、精神的には結構ダメージが大きくて。それに現実的にはいろいろと面倒なことが起きてしまいますし」

 佐野さんは、そうでしょう、大変でしたね、という風に小さく頷いた。

 そんな佐野さんの表情を見ていたら、ふと、この人は森野さんを知っているのではないかと思った。

「ところで、佐野先生はいつからこちらの大学にいらっしゃるのですか」

「わたしはもう三十年近くになりますね。学位は京都で取りましたが、それからずっとこっちです。学生の頃から河村さんにはお世話になっていたんですよ」

「へえ、そうですか。では、もしかすると河村先生のところに出入りしていた森野木乃香さんという女性はご存知でしょうか。もう十年くらい前の話ですけど」

「ああ、森野さん、よく覚えていますよ。彼女、河村さんと大学の連絡係というか、ファクスで送れないような署名や印鑑が必要な書類があったりしたときや、河村さんが大学にある機材とか資料とか図書館の本が必要になったときなんかに、便利屋さんじゃないけど、そんな感じで動いてくれていましたね。あの麓の地区の人たちにも重宝されていたようでしたよ。必要な物を頼まれて、市内に出たときに購入したりして。美人で明るくて、でもちょっと影があって、うちの研究室でも人気でしたよ。太田さんのお知り合いなんですか」

「ええ。実はうちの娘、森野さんの子どもなんです」

「えっ、ということは森野さん、亡くなったということですか?」

「そうなんです。八か月ほど前に病気でなくなったそうです。わたしも亡くなってから、知りまして」

「そうなんですか。それは残念です。娘さんが森野さんの忘れ形見とは。驚きました」

 佐野さんはあの後藤とは正反対で感情の動きが穏やかなので、驚いているようには見えなかったが、感慨深そうに目を閉じて頷く姿はやはりそれなりに驚いているらしかった。

「そう言われてみれば、どこかで見たことがあるような笑顔だと思いました」

「やはり、そう思われますか。笑顔が本当によく似ているんです。さきほども少しお話しましたように、いろいろいきさつがあって、わたしが引き取ることにしたんです」

「それはそれは。じゃあ、太田さんもわたしどもとかなり縁があるということになりますね。河村さんの遺志でもありますし、今回の件、是非お引き受けいただければと思います」

 佐野さんはそう言って、わたしに握手を求めた。拒む理由はなかった。形式的な審査や事務手続きもあるので、気持ちが固まったら、履歴書や職務経歴書、主要論文を送って欲しいと言われた。

 駐車場まで佐野さんを送っていった。車が見えなくなって、ひとりになってみると、なんだか、佐野さんとの話は現実のものとは思えなかった。でも、右手にはまだ佐野さんの力強い握手の感触がはっきりと残っていた。

 部屋に戻ると、ふたりはベッドに寝転がって、これからどこに行こうかと計画を立てていた。まだ四時前なので、ちょっとした観光ならできそうだったが、まずは今の話をふたりに聞いてもらいたかった。

 ここの大学で働かないかと誘われたこと、さきほど墓参りをした河村教授がわたしのために準備をしていてくれたこと、そしてまさにわたしがこれからやりたいと思っている研究を実現できる環境にあることを簡単に話した。そしてふたりはどう考えるか聞いてみた。

 まずははるかに考えを言ってもらった。

「また転校か。でも、はるかはいいよ。山とか森とかある方が好きだし。洋服とか買い物がいまいちかもしれないけど、今はネットで買い物もできるしね。たまには東京に連れて行ってくれるなら、いいかな。最低でも年に一回くらいはね」

 はるかはわたしの知っている限りでも、わずか二か月の間にもう二回も転校していた。沢田さんのところから採光園に行き、採光園から今の家に来た。森野さんも転々と居所を変えていたというから、もう自分でも何回転校したかはわからないらしかった。でも転校もこれで最後にしてあげられるかもしれない。

 はるみを見ると、黙って微笑んだ。そして想像通り、「わたしは三人一緒ならどこでもいい。それにわたしは静かなところが好き」と言った。弁護士事務所での仕事のことを訊くと、「うん、まあ、ちょっと残念だけど、それよりたかふみさんのやりたい仕事なんでしょう? こっちで新しい仕事を見つけてもいいし、はるかやあなたのためにいろいろやってあげたいこともあるし、どっちでもいい。そうだ、時間ができたら大学にも通ってみたいな。早くしないとはるかに追いつかれちゃうし」と笑って答えた。はるみがそんな希望を持っていたなんてわたしはまるで知らなかった。相変わらず知らないことだらけだ。どうやらはるかは知っていたらしく、わたしの顔を興味深そうに観察していた。はるみは強い希望を持っている時はわたしにはっきりと言ったが、漠然とした思いの段階でははるかにしか話さないらしい。いつか、はるかを追い越してやる、と大人げないことを思いながら、わたしは負けじとはるかの瞳を覗き込んだ。

 馴れた職場を離れることについては、ある程度はわたしに気を遣ってくれてのことだろうが、それだけではなく、はるみはどうしても東京を好きになれないらしかった。はるみを怯えさせる大きい音だけではなく、人々のぎすぎすしたところややたらと人が多いところとか。そして、風の音とか、雨の音とか、鳥の鳴き声とか、自然の音に包まれているとすごくリラックスできるらしい。はるみは自分の出自を無理に探すつもりはないと言っていたし、わたしもはるみの出身地を探そうと思わなかった――というより、むしろ知りたくなかったと言った方が近いだろう――から、そのままになっていたが、おそらくはどこかの地方の出身だということは推測できた。研究者という職業柄もあってわたしはたぶん些細な情報から真実を探り出すのが得意な方ではあるが、はるみの話す言葉は完全に標準語だったし、三上さんが言っていた通り、具体的な手がかりはわたしにもまったくと言っていいほど見えてこなかった。


 すんなりと結論は出たが、どこかへ出掛けるには時間が遅くなってしまったので、川沿いを散歩することにした。わたしの気持ちは東京を出発した時とはまるで違っていた。何もかもが、信じがたいほど、すっきりしていた。だから、はるかにお願いして、わたしが真ん中になって、右手にはるみの手、左手にはるかの手を握って歩いた。幸せというのを絵に描いたらきっとこんなのだろう。それは夢にさえ見たことのないものだった。

 もう山並みに隠れてしまった夕陽が稜線の空を薄オレンジ色に染め、藍色に重なる山々は複雑なグラデーションを造り出していた。ときどき止まっては、刻々と移りゆくそんな景色を三人で眺めた。わたしはその光景を心に焼き付けた。それから夕暮れの街をぶらついて、この近くで名産の牛肉を扱うステーキハウスでちょっと贅沢な夕飯を食べた。

 その席ではるかは、こちらに転居してくることを前提に、一軒家に住みたいと言い出した。

「わたし、お父さんがいて、お母さんがいて、こういう家族で、新築の一軒家に住むのが夢だったんだ。こうして地方に来たんだし、土地も安いだろうから、ねえ、お父さん、家を建てようよ」

 一軒家だとしても、借りるか、せいぜい中古住宅を買うくらいに考えていた。そんな風に言われると、新築というはるかの願いを叶えてやりたくなってしまう。ここに腰を落ち着けるつもりだったし、新築も悪くはないと思ったが、先立つものがなかった。

「でも土地を買って家を建てるのは、それなりにお金がかかるから、まだ無理じゃないかな。職場を変わったばかりということになるから、銀行とかでもお金を貸してくれるかどうかわからないし、あと何年かしたらね」

「そのことなら心配しないで。わたしが建ててあげてもいいし、あのお金を担保にして借りてもいいし。もしそれでお父さんのプライドが傷つかないなら」

 はるみは微笑んでいた。はるかの戸建て願望を知っていたのかもしれない。

「プライドはいいけど、あの週刊誌のこともあるし、お前のお金を使うわけにはいかないよ。そんなことをしたら、やっぱり遺産目当てだったなんて言われるかもしれない」

 はるかはそんなことどうでもいいじゃないというように小さく肩をすくめた。

「この辺なら土地だってそれほど高くないだろうし、家の方は二千万円くらいで建つでしょう? もし家族が増えても大丈夫な大きさのが」とはるかは続けた。

「えっ、はるみ、子どもが出来たの?」

 はるみは笑顔で首を横に振った。

「お父さん、あわてないで。家を建てるなら、そのくらい考えなくちゃ駄目でしょう?」

「まあ、そうだな」

「それでもし普通に住宅ローンが組めないのなら、必要なお金を、三、四千万円くらいとか? を定期預金にして、預金担保にして銀行で住宅ローンを組んだらいいと思うの。ほかのもっと金利の低いところで借りられるのなら、そっちでもいいし」

「そこまでして、新築の戸建てに住みたいんだ」はるかがそこまで知識を持っていることに驚かされ、わたしはため息混じりに言った。

「うん」はるかは力強く頷いた。

「だけど、はるかはなんでそんな詳しいことまで知ってるんだ? 普通、お前くらいの歳で預金担保なんて知らないぞ。っていうか、僕だってよく知らない。まあ言葉からだいたい想像はつくけど」

 するとはるみがおかしそうに笑って、「前からずっとそんなことを言っていて、わたしと一緒に調べたの」と言った。「都内だと一軒家を持つのは大変そうだけど、木乃香さんの故郷ならいくらくらいかかるとか、いろいろ調べさせられたのよ。ね?」

 はるかはちょっと照れ臭そうにして、肩をすくめた。

 完全にわたしの負けだ。

「わかったよ。でも、もしかすると山の中にある大気森林作用研究所というところに研究室を置くかもしれない。そうすると、もう少し山の方に行ったところに家を建てることになるけどそれでもいいかな」

「わたしは自然の多いところが好きだな」とはるかが言い、はるみは口元に笑みを浮かべ、「わたしはとにかく静かなところがいい」と言った。今の東京の家でも、時折暴走族みたいなのが走っていくことがあり、その音にはるみは悩まされていた。こっちに住んでもいいのと同じ理由で、ふたりとも山の方でも構わないらしかった。

「じゃあ、決まりね。早速あした、不動産屋さんに行って、どんな物件があるか調べてみようよ」

 はるかはどこまでも積極的だった。

 さらにもう一泊することにして、明日はドライブがてら、まずは三人で研究所の辺りを見に行ってみることにした。十年前は電車とバスだったし、地図は出発前にネットで少し見ただけで、岩山の市街地と研究所と里山中地区との位置関係はかなりあいまいだった。車にカーナビは付いているが、地図データは十年近く前のもので、画面上では車の位置を示す矢印がときどき道のないところを進んでいたから、閉店間際の本屋でこの地方の詳細道路地図を買った。ホテルは空室が多いようで、急な連泊を頼んでも部屋を移動する必要はなかった。

 ホテルに戻って地図を見てみると、研究所は、車であれば、あの公民館のあった里山中地区を通らず、市内から直接行くことができるようだ。しかもバイパスが途中までできているらしい。それでも距離はあるから一時間くらいはかかりそうだが、思っていたよりもずっと近いみたいだった。

 部屋にはセミダブルベッド二つとエキストラベッド一つが用意されていたが、はるかはわたしと寝たいと言った。それで、はるかがすっかり寝入ってしまってから、わたしははるみのベッドに忍び込んだ。こんな嬉しい話が合った後で、どうしてもはるみを抱き締めたかったのだ。そうしてからまたはるかの横にそっと戻った。



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