第一部 第二章 四 森野さんの死

第一部 第二章 四 森野さんの死


「もうすぐ着きますから、音を下げさせてもらいますね」運転手はボリュームを下げながら言った。

 駅から二〇分ほど走っていた。ゆるやかな上りを少し行ったところにその施設はあった。畑や林に囲まれた静かな環境のようだった。タクシーは手慣れた感じで施設の敷地に入って行き、玄関の前で車を止めた。学校と寮を足して二で割ったような造りの建物だった。きれいと言えばきれいだが、決して明るい気分になるようなものではなかった。財布を出そうとすると、サカキさんが「沢田さんから預かってきていますから」と言った。

 トランクを開けてくれるよう頼んで、先にタクシーを降りた。もうこの辺りは、落ち葉や枯れ草の、どこか懐かしい乾いた秋の匂いに溢れていた。少女もランドセルと手提げ袋を持ってあとに続いてきた。少女はキャリーカートを支えてコンテナボックスを載せるのを手伝ってくれた。運転手はダッフルバッグを取り出すとトランクを閉め、バッグを持ったまま慣れた足取りで先に玄関の中へ入って、人を呼んでくれた。

「こんにちは、武田です。お客さんをお連れしましたよ」

 わたしたちが玄関に入ろうとしていると、薄暗い奥から五〇代半ばくらいのふくよかな女性が出てきた。

「あら、タケダさん。こんにちは」

 運転手はわたしたちが見えるように脇によけた。そういえばダッシュボードに付いていた運転手の名札みたいのに武田と書いてあった。

「ああ、森野遥ちゃん。いらっしゃい。ようこそ、採光園へ」

 気持ちのゆったりしていそうな人だった。

「こんにちは。よろしくおねがいします」

 少女はきちんとお辞儀をした。わたしとサカキさんも頭を下げた。

「たしか、あなたは、坂木さんでしたね」

「はい。坂木春美です」

「わたしは太田貴文といいます。この子の母親の友人です」

「そうそう、さきほど沢田さんから連絡をいただきまして、そのように伺っております。わたしは園長をしておりますイヌイキミコと申します。よろしくお願いします」

「こちらこそ」

 イヌイさんは四人分のスリッパを並べてくれた。

「さあ、どうぞお入りください。武田さんもよろしければお茶でもいかがですか。今日はちょうどスポーツ大会があってみんな出払っていて、わたしともう一人の職員しかいないんですよ」

 たしかに放課後の学校みたいに、建物の中はひっそりとしていた。

「だったら、ちょっと車を動かしてきます」

 武田さんはそう言って車に戻った。坂木さんがバッグを受け取った。個人タクシーだから勤務時間は自由にできるのだろう。

「イシカワさん、お茶を四つお願い。それから武田さんにも、お茶を差し上げて」

 イヌイさんは奥に向かって声を張り上げた。はい分かりました、と元気のいい女性の声が返ってきた。

「じゃあ、お邪魔します」

 まさかこんなところまで来るなんてな、と思いながら靴を脱ぎ、緑色のスリッパに履き替えた。カートは玄関において、ボックスだけを持った。

 面談室に通された。イヌイさんに促され、電車と同じように少女を挟んで座った。これではまるで親子面談だった。

「荷物もあるし、遠くて、大変だったでしょう?」

 イヌイさんが少女に話しかけた。

「いいえ、わたしはずっと寝てたから。太田さんが荷物を持ってくれたし」

 少女はわたしを見上げた。そんな全面的に信頼していますみたいな顔をされても困る。

「そうですか。太田さんははるかちゃんのことをいくつの頃から知ってらっしゃるんですか?」

 どう答えようか迷っていると少女が先回りして答えた。

「昨日初めて会ったんです」

「あら、そうなの。ずいぶん親しそうだから、小さいときから知っているのかと思った。はるかちゃん、男の人は苦手なのにね」

 少女はこくりと頷いた。

「あの、さっき武田さんにも親子みたいに見えたって言われたんですけど、イヌイさんもそんなことをおっしゃるし、そう見えるんですか? つまり親子くらい親しいように。まあ武田さんからは、よくよく見たら顔は似てないと言われましたが」

「あら、武田さんがそんなことを。私ははるかちゃんのことを知っていますからそうは思いませんでしたけど、たしかに二人とも初対面で親子と言われたら信じちゃうかもしれませんね。特に子供の頃はどちらかの親にはまるで似てないように見える時期もありますし」

 サカキさんもそうだというようにこちらを向いて二度頷いた。

「でも、昨日会ったばかりでそんなことを言われても、困っちゃいますよね」

 イヌイさんはにこやかに言った。そののんびりとした話し方は、人をリラックスさせる効果があるらしかった。

「ええ、まあ」

 我ながらずいぶんあいまいな答え方だった。そんな風にみんなから言われると、確信がぐらついてしまう。

 ドアをノックする音がした。ドアが開いて、イシカワさんが入ってきた。ひらがなで大きく書かれた名札が付いていた。まだ若い、体操かなにかやっているような引き締まった身体の女性だった。

「失礼します。お茶をお持ちしました。はるかちゃん、イシカワカスミです。よろしくね」

「よろしくお願いします」

 少女は大人びた感じで言って、お辞儀をした。わたしとサカキさんも続けて頭を下げた。

 イシカワさんは冷たい麦茶を出してくれた。お昼以来水分を口にしていなかったから、身体に染みた。

「そうそう、イシカワさんはバレエ教室の担当なの。はるかちゃんもバレエをしたいんだったわよね」

「はい」

 少女は真面目な顔で首を縦に振った。

「あ、そうだ、イシカワさん、はるかちゃんを部屋に案内してあげて」

「いいですけど、武田さんがお一人になっちゃいます」

「いいわ、私が一声かけておくから」

「わかりました。じゃあ、はるかちゃん、行こうか」

「はい」

 少女は元気よく答えて、すぐに立ち上がった。

「荷物はどうしましょうか」

 わたしはコンテナボックスとその上に置かれたダッフルバッグを指し示した。

「それはあとでこちらでしますから、そこに置いておいていただいて結構です。ちょっと失礼しますね」

 イヌイさんはそう言って立ち上がり、部屋から出て行った。イシカワさんもわたしたちに一礼すると、「はるかちゃん、行こう」と言って、少女を従えて出て行った。少女はドアのところで一度立ち止まり笑顔で振り向くと、わたしたちに小さく手を振った。施設というよりもバレエ学校の寮にでも入るみたいに意気揚々として見えた。

 サカキさんとわたしが部屋に取り残された。

「児童養護施設なんて来るのは初めてだけど、思ったよりよさそうなところだね」

 やたらと静かなせいか、わたしは声を抑えて言った。

「はい。ここだったらいいかなって私も思っています。いくつかの施設を沢田さんと三人で行ってみて、どこがいいと思うかはるかちゃんから相談されたんです。二人ともここが一番いいということで意見が一致しました」

 サカキさんもひそひそ話をしているみたいに言った。

「なんだか二人でここに入るみたいだ」

「もちろんそういうわけじゃないですけど、でも近いです。はるかちゃんがここに入ることが決まってから、ここからそう遠くないところに引っ越したんです」

「そうなんだ。そういえばさっきひとり暮らしを始めたとか言ってたよね」

「ええ。戸籍上は二十歳になったから、三上さんも許可してくれました」

 そこまで言ってサカキさんは少し躊躇するようにわたしを見た。それからドアの方をちょっと振り向いて、さっきまで少女の座っていた椅子に移ってきた。近づいてくるとやっぱりほのかないい匂いがした。例えようもない匂いだった。ふと、あの晩の森野さんの匂いを思い出した。

 近くに人のいないことを確認するように、サカキさんはもう一度ドアの方を向いてから、わたしの方に顔を寄せた。よほどの秘密を伝えるような感じだった。近づくと艶めかしささえ感じた。

「実はそれと、高校卒業程度認定試験に合格したんです。成人することと高校を卒業することが独立するに当たって三上さんの出した条件だったんです。もっとも通信制高校の方はしっかり最後まで勉強するためにまだ続けています。試験を受けたことも合格したこともはるかちゃんにはまだ内緒なんです」

 醸し出す気配に較べて、話の内容は拍子抜けするほど子供っぽいかった。話が終わると、すっと動いて元の椅子に戻った。

 それから三〇秒くらいすると軽いノックの音がして、イヌイさんが入ってきた。

「すみませんでした。もう手続きは済んでますし、沢田さんも明日見えるということですので、特にお二人にしていただくことはありません」

 イヌイさんはゆったりとした動作で座った。

「太田さんはこういうところにいらっしゃるのは初めてかしら?」

「ええ。思ったよりも家庭的な雰囲気なんですね」

 学校みたいで好きではない、とはさすがに言えない。

「ありがとうございます。そういう施設を目指しています。それにしても昨日はるかちゃんと初めて対面して、ここへ連れていらっしゃることになるなんて、なにかご縁でもあるんでしょうかね」

「どうなんでしょう。まあ、そうなんでしょうね」

 縁というよりも、妙な流れに乗ってしまったような感じだった。湖だと思っていたら実は岸も見えないような大河でゆっくりと流されてしまっているように感じた。イヌイさんは会話の糸口を見つけようとしているらしかったが、答えようもなく短い返事になってしまった。イヌイさんがちょっと困ったような表情を見せた。

「お母さんのご友人ということですが、ご質問などはございますか?」

「そうですね」ちょっと考えてはみたが、武田さんから聞いたこと以外、何も思い浮かばなかった。「いえ、特にはありません」

 また素っ気ない返答になってしまったが、虐待とかいじめとかのことを直接聞くわけにもいくまい。救いを求めるような気持ちでサカキさんを見た。そうしたらメールのことを思い出した。

「そうだ。聞きたいことがありました」

「なんでしょう」

 イヌイさんの表情がぱっと明るくなった。

「里親になるとか養子にするとかいうことはそれほど難しくないことなんでしょうか」

「それは、太田さんがはるかちゃんの親になりたいということでしょうか」

 イヌイさんは職業的な真剣な目に変わった。

「えっ? いえ、そういうことではありません」

 あわてて否定した。ああいう訊き方をすれば、そう受け取られても当然だ。

「一般論としてどうなのかをお聞きしたくて。単なる好奇心とか興味とかで申し訳ありませんが」

 イヌイさんはにこやかに受け止めてくれた。割と感情を素直に表に出す人らしかった。

「もちろん構いませんよ。制度を知っていただくことも私たちの仕事ですから。条件という意味ではそう難しいものではありません。一般の方ですと、子供をちゃんと育てる気のある方なら、研修を受けていただくとか、世話をできる環境にあるかとか、いくつかの条件をクリアすれば里親の候補となることができます。むしろ引き取ってからの方が大変なことが多いです。よろしければ、種類や条件などを説明した文書を差し上げますが」

「いえ、そこまでは。あ、でも、一応いただけますか」

 少女を取り巻く状況を正確に把握するための参考になるはずだと思い直した。

「もちろん。今、お持ちしますね」と言うと、さっと立ち上がってイヌイさんは部屋を出て行った。見た目よりもずっと軽やかな動きだった。サカキさんは笑顔でわたしを見ていた。サカキさんの性格からすると、わたしが慌てふためくのを笑っているわけはなかった。

 イヌイさんは一分ほどで書類と冊子と茶封筒を手に戻ってきた。座るとすぐに紙を静かに差し出した。サカキさんがすっと隣に来て、紙を覗き込むようにわたしに肩を寄せた。ふわっといい匂いに包まれた。

「ただ漠然と説明をしてもわかりにくいと思いますので、よろしければ仮に太田さんがそういう希望があるという前提でお話ししたいと思いますが」

 それもどうかなと思ったが、嫌とも言いにくい。

「ええ、では、仮に、ということで」

 誤解されないように念を押した。

 イヌイさんはにこりとしてから、里親の説明を始めた。里親には四種類あり、そのうち養育家庭と養子縁組里親というのがわたしのような一般的なケースに当てはまるという。前者は、子供に家庭というものを知ってもらうのが目的で、養子縁組は目的とせずに一定期間子供預かる。後者は養子縁組を目的としていて、子供の引き合わせ、施設からの外出、外泊などある程度の交流期間を経て、里親になる。もちろん養子縁組が成立してはじめて、法律上の親子となる。子供を委託する形になるので、養育費も支給されるらしい。

「失礼ですが、太田さんはご結婚をされていらっしゃいますか」と、イヌイさんが訊いた。

「いいえ、独身です」

「そうですか」

 イヌイさんは残念そうに言った。

「東京都の制度では結婚されている方が基本となります。独身でも保育士や看護士などの資格があって、養育の補助をしてくれる同居人がいれば大丈夫なのですが」

「そうなんですか。両方とも該当しませんね」

 わたしまでつられて残念そうに言ってしまった。「いえ、でも、あくまでも一般論として聞いただけなので」

 後藤氏が結婚してやってもいいと言っていたのは、たぶんこのことなのだろう。

「そうでしたわね」

 イヌイさんは残念そうな顔をしたが、すぐに明るい顔に戻った。

「余計なこととは思いますがもう少し付け足しますと、児童相談所を通さずに直接養子縁組をすれば独身でも大丈夫です。はるかちゃんの場合には本人の意志と、未成年なので後見人の沢田さんが了承が必要になりますが、太田さんは母親のご友人ということですし、なついてもいるようですので、家庭裁判所で認められる可能は高いと思います。いえ、あくまでも可能性の問題ということで」

 押しつけがましさはなかったから嫌な感じはなかった。イヌイさんがわたしが少女を引き取ることをあまりにも期待しているようなので、かえってちょっと可笑しくなった。

「なついているといっても、たった一日一緒に過ごしただけですから。それに正直に申し上げますとわたしは子どもが嫌いなんです。自分の子どもでさえ欲しくないのに、まして他人の子なんて考えられません」

「あら、そうですか?」

 イヌイさんは目をぱちくりさせた。

「ええ」

 そんなに驚くことかなと思いながら、確信に満ちた声で答えた。

 イヌイさんの表情がホッと緩んだ。

「そういうことでしたら仕方ないですね。立場上、子供が嫌いだという方に里親になってもらうわけにはいきません。それに男の方ひとりでは実の子でさえ面倒を見るのは難しいですから、私としてもお勧めできません。でもそういうことって意外とコロッと変わったりするんですよ。実際に子供と接していたら可愛く思えてきたりして」

「そんなものですかね」

 少女のことが可愛く思えてきたことは否定できないが、それと引き取るのとは別の話だ。

「ええ」今度はイヌイさんが自信に溢れた声で答えた。「もちろん人によって違いますけど、太田さんの場合はそうだと思います」

「どうしてそう思われるのですか」

 理由も言わずに決めつけられると、かちんときて、つい強い口調になってしまった。

「そうですね」

 イヌイさんは一度言葉を切って、わたしをじっと見た。

「もし間違っていましたら申し訳ありませんけど、太田さんは親御さんから、特にお父さんから、精神的な虐待というか、虐待とまではいかないにしても、ひどく傷つくようなことを言われたりしてはいませんでしたか。あるいは傷つけられるような出来事はありませんでしたか」

「えっ? 父親から虐待?」

 思いがけない指摘にわたしは少々驚いた。

「私には太田さんが子供嫌いには見えないんですよ。お話をしておりますと太田さんは、いまここにいることでもわかるようにとても心の優しい方だと思います」

 隣のサカキさんもうんうんと頷いた。サカキさんに肯定されると素直に受け取りたくなる。

「はあ、ありがとうございます。でも、そんな虐待といえるようなことをされた覚えはないですね。ああ、でも、そういわれると、意地悪というか、変にライバル視しているというか、そういうところはありましたね。親だったら褒めてくれてもいいようなときに、えらく皮肉っぽいことを言われたりして。そのたびに傷ついていたと思います。なんか、嫌な、さびしい気持ちになるというか。なんでそんなことを言うんだろう、って」

 無意識のうちに肘を机にのせて手を組んで口の前辺りに置いていたことに、言い終わって気付いた。サカキさんの手が伸びてきて、わたしの右腕にそっと重ねられた。

「具体的にはどんなことでしょう」

「そうですね。たとえば一緒にテレビのニュースかなにかを見ていて、父親がコメントみたいなことに言ったとします。するとわたしがそれよりももっと鋭いことを言ったりするらしいんです。そういうときにすごくネガティブなイメージで〝先生〟とか〝評論家に向いている〟とか言うんです。褒めながら落とす、というか。まあ、そんな程度なので、虐待とかいうレベルではないですけど。ただそのたびに嫌な気持ちになったことはいまだにはっきり覚えていますね。ある程度大きくなってからは、この人は感情表現が下手なんだと思えるようになりましたけど。それに両親が離婚して、そうなるまでは家庭は凍り付いたような感じで、家にいるのが結構辛かったことも影響しているのかもしれません」

 イヌイさんは何も言わず一度だけ頷いた。その表情はとても真剣だった。ものすごくエネルギーを使って、精神と心を集中して聞いてくれている感じだった。この人が園長なら虐待とかいじめとかは起きそうになかった。

「たぶん、太田さんは、ご自分では意識されてないかもしれませんが、子供と接することが怖いんですね。自分が傷つけられたように、子供を傷つけてしまうのではないかと。だから距離を取ろうとしているのだと思います」

 そうなのだろうか? そういわれてみるとそういう気もする。

「うーん、そうですね、そうかもしれません。でも単純に、わがままでうるさい子供に我慢できないというのもありますけど」

 あまりに自分についての真面目な話になって照れくさかったので、混ぜっ返したくなって、最後はちょっと冗談っぽく言った。

「子供はやかましいですものね。そのくらいの方が元気があっていいんですけど」と、イヌイさんは言って小さく笑った。わたしの気持ちを察してくれたようだった。

 不思議なのは、この手の自分自身に関する話を素直にしてしまったことだった。普段なら絶対に避けるはずなのに。イヌイさんのカウンセラーとしての腕前なのだろうか。そういえばあの晩も、森野さんにつられるようにして、わたしも自分について率直に話した。出会ったばかりなのに森野さんにずいぶんと心を開くことができた。そう、だから、好きになったのだ。もっと愛したいと思ったのだ。それに森野さんだってわたしと生きていきたいと思ってくれていたのだ。

 でも、森野さんは死んでしまった。森野さんは死んで、もうこの世にはいない。

 そう思ったとたん、閃光のようなものが脳裏をよぎり、何かがわたしの胸を暴力的に掴んだ。

 突然、森野さんの死が、さっきまではできの悪い映画の中の出来事のように漠然としていた森野さんの死が、現実のことなのだとはっきり感じられた。まるで森野さんが息を引き取る瞬間に立ち会ったみたいに。まるでそのときに手を握っていたように。

 白い壁に、白いカーテン。白衣の医師と看護師。白っぽい消毒の匂い。血の気のない森野さんの顔。あの日のまま美しく、ただ生命だけが抜けてしまった白い顔。

 少女は泣いていなかった。母親の手とサカキさんの手を握っていた。サカキさんは悲しげな顔で森野さんを見つめていた。泣いてはいなかった。沢田さんだけが口に手を当て涙を流していた。

 何者かがほとんど押し止める間もなく凄まじい勢いで胸に込み上げてきた。嗚咽とともに涙が溢れてきた。涙を止めることも、声を抑えることもできなかった。

「えっ?」

 イヌイさんが驚いて声を上げるのが遠くに聞こえた。たぶん自分の話が原因で泣き出したと思ったに違いない。

「違うんです。森野さんが、森野さんが、森野さんが死んでしまったなんて」

 声が震えるのを抑えようとしたが無理だった。うまく伝わったか、自信はなかった。笑っているみたいな奇妙な泣き声だった。こらえようとすればするほど、そんな音になった。サカキさんがわたしを包み込むように抱きしめてくれた。そしてイヌイさんに向かって頷くのが感じられた。わたしの涙の意味をイヌイさんが理解したような気配が伝わってきた。

「わたしはちょっとはずしますね」

 イヌイさんはサカキさんにそう告げて、そっと部屋を出て行った。ドアが静かに閉まる音が聞こえた。

 どのくらいの時間泣いていたのかわからないが、たぶんそれほどしないうちに心は落ち着いていった。身体の震えが急速に収まっていった。サカキさんに抱きしめられているという状況をようやく冷静に判断できるようになった。

「ありがとう。もうだいじょうぶ」

 わたしがそう言うと、本当に大丈夫かどうか確認するかのように二秒ほど待ってから、サカキさんはゆっくりと身体を離した。

 組んだ手を額に押しつけて顔を隠すようにして泣いていたらしかった。イヌイさんが持ってきた紙がところどころ濡れてしまって、小さな起伏を造り出していた。バッグからティッシュペーパーを取り出そうとすると、サカキさんがさっと差し出してくれた。

「驚かせちゃったね」無理に笑顔を作って言った。「自分でも驚いたよ。昨日、森野さんが亡くなったって聞いてから、全然実感が湧かなかったのに、なんか、突然」

 まだ鼻が詰まったような声しか出なかった。サカキさんは小さく頷いた。

 コンコンとドアを叩く音がした。少女がドアの窓から覗いていた。サカキさんがすっと立ち上がり、ドアを開けると、部屋の外に出た。ドアは閉めなかった。

「おじさん、どうかしたの?」

「うんうん。なんでもないよ」

「うん、それならいんだけど。ねえ、おねえちゃん、ちょっと来てくれる?」

「いいよ。なに?」

「それは行ってから」

 そう言った後で、少女はサカキさんに何か耳打ちをした。

 サカキさんは一度部屋に戻って、ダッフルバッグを持つと、「太田さん、はるかちゃんが来て欲しいって言うから、ちょっと行ってきます」と言った。

 わたしは無言で頷いた。少女が窓から手を振った。笑顔を取り繕って手を挙げて応えた。

 二人が行ってしまうと、ふぅと大きくため息をついた。もうしばらく泣いたことなんてなかったのに、昨日の晩に続いて、二度目だ。それにさっきのあの感覚はなんだったんだろう。見たはずもない森野さんの死の瞬間をあれほどリアルに感じるなんて。

 本当に森野さんはもうこの世にいないのだ。本当にいなくなってしまったのだ。

 あの日からわたしの中で変わることのなかった森野さんは時を止めるという形で動き出した。少女という忘れ形見をわたしに送り届けて。

 ぼんやりと考えていたらノックの音が聞こえた。イヌイさんが戻ってきた。

「突然、取り乱してしまって、すみませんでした」

 立ち上がって、イヌイさんに謝った。

「いえいえ、いいんですよ」イヌイさんはわたしに座るよう促した。「あんなことをお尋ねした直後だったので、ちょっとびっくりしちゃいましたけど。お父さんとのことはもう完全に乗り越えているはずだと思って訊いたものですから」

「でもどうして乗り越えていると思われたんですか?」

「基本的には経験から来る直感です。強いていえば、行動とか話し方、話す内容などから推測しました」

「でも、まだ子供が嫌いということは、引きずっているということではないんでしょうか」

「過去の幻影に怯えているだけだと思いますよ。確かにそういうことをされた人は、子供にもしてしまいやすいと言われています。でも、太田さんは自覚しておられるし、そういうときには謝れば分かってもらえると思いますよ。ちゃんと認識していれば、傷つけてしまったことも分かりますし、謝ることもできますから。もちろん傷つくようなことを言わないことに越したことはありませんけど」

「はい」そんな風に言ってもらうと、少しは人生の肩の荷が下りたような気がする。「でも、いずれにせよ、わたしにはあの子を引き取ることは無理です。とても、ひとりで世話をする自信はありません。自分ひとりの生活で手一杯ですから」

「ええ。ただ、お母さんのご友人ということでもありますし、もし時々会ってあげられるのでしたら、会ってあげてはいかがでしょうか。たぶん、はるかちゃんも喜ぶと思いますよ。その気がおありでしたら、明日、沢田さんが見えたときに相談してみますけど」

「そうですね。そのくらいのことはしてあげたいと思います。お願いします」

 当初想定していたよりもずいぶん深くかかわることになってしまった。そう思う一方で、遊園地に連れて行ったら喜ぶだろうか、森野さんと同じでキャンプは好きなのだろうか、といった考えが頭をよぎった。そして、そんなことを考え始めている自分に気が付いて、愕然とした。



【次回、第一部 第二章 五 少女の踊り】毎週木曜日更新



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