第一部 第二章 三 タクシードライバーの忠告

 郊外へ向かう昼下がりの快速電車は思っていたよりも人が多かった。といっても、座る必要を感じない人がぽつぽつと立っている程度で空席は充分にあった。サカキさんが扉側の端に座り、少女を挟んでわたしが座った。足元にカートを置き、ダッフルバッグをボックスの上に重ねた。電車に揺られると少女はすぐにうとうとし始め、わたしに寄りかかってきた。寝顔を見るのはもうこれで四度目だ。少女のランドセルと手提げ袋を抱えたサカキさんは、姿勢を正して向かいの窓から外の風景を遠く眺めていた。何か考えごとをしているようにも見えた。しばらくするとこちらをちらっと見てから携帯を取り出し、メールを打ち始めた。

 サカキさんは、快速の停車駅を三つか四つ過ぎるくらいの間、ずっと入力していた。表情を見た感じでは大切な内容のメールらしかった。入力しては何度も直しているようだった。サカキさんの人間関係を知らないのでなんともいえないが、友だちに送るにしてはずいぶん慎重だった。彼氏がいるという雰囲気もないが、一人暮らしを始めたと言っていたからそういう人がいるのかもしれない。もっとも、わたしのそういうことに対する感覚はあてにならない。それにしても自分自身の記憶がない場合、どうやって恋をするのだろう。普通に誰かを好きになったりするのだろうか。ちょっと想像ができなかった。

 折りたたみ式の携帯電話を閉じる音がした。サカキさんを見ると、真面目な顔でこちらを向いて小さく頷いた。意味が分からなかったわたしはあいまいな笑みを浮かべた。

 ズボンのポケットに入れている携帯がメールの着信を知らせて震えた。誰からだろうと思いながら、少女を起こさないよう気をつけながら腰を浮かせてポケットから携帯を取りだした。

 坂木春美、と表示されていた。まさかわたしに宛てて書いていたとは。振り向いて目が合うと、サカキさんはわずかに首をかしげながら再び小さく頷いた。笑むこともなく一文字に閉じたくちびるが真剣さを伝えてきた。

 件名は、「遥ちゃんについて」となっていた。

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 太田さんにはお伝えしておくべきだと思いましたので、メールします。このことは口外しないようお願いします。沢田さんと遥ちゃんの関係についてです。これは基本的に遥ちゃんが聞いた話で、一部私自身が聞いた話もあります。

 どこまで太田さんがご存知か分かりませんが、沢田さんは遥ちゃんの未成年後見人になっています。未成年で親のない遥ちゃんに代わって法律上の手続きや財産の管理などをする人だそうです。

 木乃香さんが亡くなる前、沢田さんは遥ちゃんの親代わりになって引き取ると申し出たそうです。でも木乃香さんは断りました。木乃香さんは、養子になってもいいと遥ちゃんが思う人が現れた場合にのみ、もし引き受けてもらえるならばその人に養子してもらうよう沢田さんに頼んであるそうです。これは私が木乃香さんから直接聞いたことです。たぶん遺書にも書いてあるはずです。

 これは遥ちゃんから聞いたことなのですが、木乃香さんは遥ちゃんにそれなりの遺産金を残したらしく、その遺産金は後見人である沢田さんが管理しています。どうも沢田さんの彼氏の後藤さんがそれに目をつけ、株式とかで運用したいと考えているらしいのです。養子にすればそれをかなり自由に使えるようになるらしく、沢田さんに遥ちゃんを養子にするようけしかけているようなのです。

 次は私が直接耳に挟んだことです。私がまだ三上さん(昼食を一緒に食べた年輩の方)の家にお世話になっていたころ、沢田さんがお酒を飲みに来て、かなり酔っぱらったことがありました。沢田さんと三上さんは歳は少し違いますけど、親友みたいな感じです。その時三上さんが沢田さんに後藤さんとはもういい加減に別れた方がいいと忠告していたのです。沢田さんは「ひどい奴だけど彼とは腐れ縁で別れたくても別れられない」と言っていました。もう二十年近く付き合っているそうですが、向こうは結婚をする気もなくて、沢田さんは彼無しでは生きていけないみたいなことを言っていました。沢田さんみたいな人でも、恋愛となるとなかなか自分の思い通りには行かないのですね。

 遥ちゃんがどうしても今日施設に行こうとしたことや、昨日太田さんのところに行ったことも、それと無関係ではありません。後藤さんはお金に困っているようで(沢田さんがだいぶ貸しているようですが)、その遺産のことを急いでいるようなのです。そのために必要なら結婚してやってもいいと言っているらしいです。施設に行くとそうすることが難しくなるため、遥ちゃんが施設に行くことになって焦っていたようなのです。数日前も「力ずくでも思い通りにしてやる」と息巻いていたそうです。そんなことを聞いてしまった遥ちゃんは怖くなったのです。

 もちろん太田さんに会いに行ったのはそれだけの理由ではなく、純粋に太田さんに会ってみたい、会っておきたいということだったみたいです。

 長文になり、すみません。遥ちゃんがいるところでは話しにくいのでメールさせていただきました。

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 母親を亡くした以外にも辛い思いをしていたのだなと少女の寝顔をあらためて見た。すやすやと気持ちよさそうに眠っていた。安心しきった顔だった。少女がさっきわたしの子どもになってもいいみたいなことを言ったのは、こういう現状から逃れたいという気持ちも含めて半分くらいは本気だったのかもしれない。

 少女は沢田さんの彼氏のことを嫌いと言っていた。それは母親のことが理由だったが、さすがにこういう話まではしづらかったのかもしれないし、初対面のわたしに話すようなことでもない。彼氏は以前の事務所で同僚だったはずだ。もし弁護士だとすると、株で運用するとか、金に困っているとかいうのはどういうことなのか。まあ弁護士でも金に困ることだってあるだろう。ただ後藤という人が運用するのは、法律的にはどうなのだろう。少なくとも沢田さんは弁護士なのだから、そのくらいのことは分かっているはずだ。

 沢田さんから聞いた話と少々食い違っている点も気になる。一言一句覚えているわけではないが、誰であれ里親は取らないみたいなことを言っていた。少女には一人で生きるようにさせてくれと森野さんが言っていたと。森野さんの手紙にはその辺りは詳しく書いていなかった。メールの内容が事実とすれば、沢田さんは多少なりとも嘘をついていたことになる。それにしても分からないことだらけだ。そもそも養子や後見人のことだってよく知らない。

 森野さんが少女にそれなりの遺産を残して、それを沢田さんが管理している。沢田さんの彼氏で金に困っている後藤氏がその遺産を横取りではなくこっそり借りて、株なんかで運用しよう目論んでいる。でも損失を出せば返すことはできないし、現在金に困っているということは、その可能性が高いと考えた方がよさそうだ。沢田さんは法的に問題があったとしても後藤氏の言いなりになってしまうかもしれなくて、少女を養子にすればその財産を容易に流用できるらしい、ということか。ただ施設に行けば、第三者が介入するし、少女が無理強いさせられる可能性も低いのだろう。


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Re:遥ちゃんについて

 思っていたよりも複雑な状況ですね。それで遥ちゃんは施設に行くことを延期したくなかったのですね。施設に行けば問題はとりあえずは解消しそうな感じですが、もし私で何か役に立てることがあれば言ってください。

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 読み終わってからさらに五分ほどかかって返信のメールを送った。サカキさんはメールが着いて何秒もしないうちに「お願いします。帰りにでも詳しい話をさせてください」と返信してきた。

 簡単に「了解しました」と返事をした。サカキさんは返信を見ると口の端で笑みを作って小さくお辞儀をした。それからまたまっすぐ前を向いて流れていく風景に見入っていた。同じように見てみたが特に何か面白いものが見えるわけではなかった。

 それから十五分ほどで目的の駅に到着した。三時半近くになっていた。郊外の青い空には夕方の気配が混じり始めていた。少女はよく寝たせいか元気いっぱいで、意味もなく駅前の広場を走って行っては笑いながら戻ってきた。タクシーは駅前に列をなしていて、乗り場に並ぶ客を次々にさばいていった。運良く個人タクシーに当たった。いい車両を使っているし、はずれの運転手に当たる可能性も低いから、個人タクシーの方が断然好きなのだ。荷物をトランクに入れてもらった。サカキさんが一番奥に乗り、少女が真ん中、最後にわたしが乗った。少女はまたわたしの手を握った。サカキさんも少女の手を取っていた。サカキさんが行き先を告げた。

「採光園ですね」

 運転手は施設の名前を復唱しながら振り返り、わたしの顔をちらっと見た。きちんと刈り込んだ髪の毛も、短く揃えたあごひげも灰白色だった。六十歳くらいだろう。

「はい、お願いします」

 サカキさんが運転手の方をのぞき込むようにして明るい声で答えた。

 ルームミラーの中で運転手の目が素早く動いた。ミラーを微調整する振りをして運転手はわたしたちを観察したらしかった。どこか不自然な組み合わせに見えたのかもしれない。

 タクシーはおだやかに走り出した。駅前通りから街道に入るとすぐに渋滞につかまった。運転手が顔を半分後ろに向けて話しかけてきた。

「土日はいつもここは混んじゃうんですよ。ところで失礼ですが、おじょうちゃんは採光園の子じゃないですよね」

 少女は突然話しかけられたので驚いたらしく、つないでいた手をぎゅっと握ってきた。

「今日からそこにお世話になることになっています」サカキさんは必要最低限のことしか話さないと思い、代わりに答えた。「だけどどうしてそんなことがわかるんですか」

「ここいらの個人タクシーの有志でボランティアをやっていまして、採光園の子供たちを年に二回、ドライブなんかに連れて行くんですよ。だから全員の顔を知っているんです」

 運転手は顔をさらにこちらに向けてわたしの質問に穏やかに答えた。

「へえ、そうなんですか」

 そういうボランティアもあるのかと軽く驚いた。どういうわけか前を向いた運転手の横顔が少し険しくなったように見えた。前の車が一台分ほど進んだので、運転手は車を少し前進させた。

「こんなことを私が言うのも口幅くちはばったいですがね、娘さんを施設に預けるのは考え直した方がいいんじゃありませんか」

 運転手は前を向いたまま出し抜けに言った。控えめながらも重々しい口調だった。

「はっ?」

 予想もしていなかったことを言われ、答えに窮した。

「そりゃね、採光園さんは悪いところじゃないですよ。虐待とかいじめとかもほとんどないみたいだし」

 意外にも少女の手は無反応だったが、あまり聞かせたくはない話だった。でも下手に話を中途半端に終わらせない方がいいかもしれない。わたしたちの関係を勘違いしているようだが、施設に詳しそうなこの運転手の話をもう少し聞いてみたいと思った。

「それはどういうことでしょう?」

「少なくとも採光園さんでは虐待はないと思いますよ。でもほかの施設じゃ、いろいろあるんですよ。いじめだって今のところはないみたいですけど、入所してくる子供によってはそういうことやっちゃうやつもいるわけでさ」

「そうなんですか」

 そんなこと考えてもいなかった。漠然と施設で集団生活をするなんて嫌だろうなと思ったくらいだった。集団生活では十分にあり得る話だった。でも少女も沢田さんのところにはいたくないだろうし、一応自分で気に入った施設らしいから、とりあえずは行ってみるしかないだろう。

「そうなんですか、って、お客さん、他人事じゃないんですよ」

 運転手は少し怒りを含んだような口振りに変わっていた。

「説教してるみたいで申し訳ないけどさ、あんた、いくら若くてきれいな奥さんをもらったからって、自分の子どもを施設に押しつけちゃうっていうのはどうかと思うんだよね。奥さんも奥さんですよ。自分の子どもじゃなくても、覚悟して一緒になったんでしょう? だったらもう少し頑張ってみたらどうかね。私の見たところじゃ、きっと上手くいくと思うんだけど」と、まくしたてるように運転手は言った。

 少女とサカキさんは顔を見合わせていた。やたらと不安にさせないためだろうか、サカキさんの少女を見る目は穏やかに笑っていた。それにしても運転手の思い込みは独走していた。車が徐々に進み始めた。

「あの、運転手さん、ちょっと誤解されているようなんですけど、わたしたちはこの子の親ではないんです。それにわたしたちは夫婦でもないですし」

 運転手は驚いた顔で振り返ったが、車が動いていたのですぐに前を向いた。

「あれぇ、そうなの? えっ、ほんとに? いやいや、そいつはまたとんだ失礼をしました」

 困って酔っぱらいのように顔を赤らめた運転手はハンドルに頭をぶつけるように頭をちょこちょこ下げ、ルームミラーを通して目でもわたしに謝っていた。

「すみません。なんか、そんな風に見えたもんだから、つい。偉そうに説教まで垂れちまって、いや、こりゃ恥ずかしい。いや、ほんと、すみません」

 前が詰まって車が停まると後ろを向いて、さらに何度か頭を下げた。前の車が数台分進んだ。

 少女がわたしの手を引っ張った。少女は、運転手さんおかしいね、という感じで笑った。サカキさんは、虐待とかいじめとか言われたせいか、不安の入り混じった笑みを浮かべていた。

「わたしたち、親子に見えましたか?」と、わたしは運転手に訊いてみた。

 今度は赤信号で完全に停車したので、運転手はシートベルトを緩め、乗り出すように後ろを振り向いてわたしと少女を見比べた。

「そう言われてみると、顔が似てるってわけじゃないですね。いや、ただ雰囲気がね、仲のよさそうな親子に見えたもんだから。旦那の連れ子の面倒が見られないって預けられた子を知っているもんでしてね。つい熱くなっちまいました。ほんと、すみませんでした」

「いえ、まあ、いいんですけど」

 悪気があったわけではないし、言われたこと自体は腹を立てるほどのことでもない。ただこれから施設に入る子どもを前にして言うべきことではなかった。

 少女と目が合った。少女はにこりとした。ついこちらも笑顔になってしまう。幸い本人はまるで気にしていないようだった。

 信号を抜けると車が流れ始めた。運転手はもう口を開かなかった。車内に残った気まずい空気を払拭しようと思ったのか、カーステレオのスイッチを入れ、低く音楽を流した。穏やかな、バイオリンとピアノのクラシックだった。演奏も悪くなかったが、装置の方も低音量でも楽器の響きがよく分かるいい音だった。

「運転手さん。この曲は誰の曲ですか?」と、少女は今までの話がなかったと思わせるような子どもらしい親しげな声で話しかけた。

「あー、これはベートーベンです。たしか、バイオリン・ソナタの『春』って曲だったな。おじょうちゃんはクラシック音楽を好きなの?」

 少女は「はい」とだけ答えた。運転手は「そうなの」と、まるで孫娘にでも対するように満足げに頷いた。音量を少しだけ上げた。

「もうちょっと大きな音にしてもらえますか」

 少女が頼んだ。

「えーと、どのくらいかな」

「コンサートに聞こえるくらい」

「コンサートねぇ」

 運転手はつぶやいた。成り行き上、拒否もしにくいだろう。

「じゃあ、ちょっとずつ上げていくから、よかったら言ってね」

 少女が頷くと、運転手は徐々に音量を上げていった。普通に会話できる限度という音になっても少女は止めなかった。古い音源特有のノイズがはっきりと聞こえるくらいになってようやく「これくらいでいいです」と大きな声で言った。

 大音量にするとステレオの音の良さはよりはっきりした。運転手は平気な顔をしていたから、このくらいの音量で聴くことを想定してシステムを組んだのかもしれない。少女は踊っていることを想像しているかのようにリズムに合わせ体を小さく動かした。運転手も少女の様子を見てまんざらでもなさそうだった。クラシックの嫌いな人には耐え難いだろうが、どうやら四人とも好きらしかった。

 少女は手を引っ張ってわたしを呼び寄せると、「春だって」と耳元で言って、嬉しそうにした。わたしは微笑んで頷いた。少女はサカキさんにも同じようにした。サカキさんもにこやかに頷いた。サカキさんはそれからわたしをちらっと見たが、すぐに目を逸らした。

 車がスムーズに流れると、景色は住宅地、そしてだんだんと田園へ変わっていった。空ははっきりと夕方へと傾いていた。



【次回、第一部 第二章 四 森野さんの死】毎週木曜日更新


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