海へ帰る日

里内和也

海へ帰る日

 数十年ぶりに訪れた海は、ほとんど景色が変わっていなかった。白い砂浜も、静かに打ち寄せる波も、子供の頃に見たままだ。降りそそぐ日差しが海面で跳ね返り、時折まぶたをでていく。

 私は波打ちぎわをゆっくり歩いた。取り立てて目的もなく、何かに誘われるように。遠くでは小学生ぐらいの子供たちが遊んでいる。無邪気なものだと眺めていたが、近づくにつれてそれがどうやら、何かを木の棒で叩いたり蹴ったりしているのだと分かり、不穏ふおんなものを感じた。

 さらに近づくと、子供たちが取り囲んでいるのが、野球のグローブほどの大きさの亀であることも見て取れた。彼らの表情に悪意はなく、ただ楽しんでいるだけという風情ふぜいだ。その無邪気さに、知らず背筋が冷たくなる。

 どうしたものかと迷ったが、さすがにこのまま見過ごしては亀が気の毒だ。私は深く息をつき、近づきながら声をかけた。

「やめなさい。叩かれれば亀だって痛いはず。かわいそうだろう」

 子供たちはみんな、きょとんとしている。

「大丈夫だよ。ちゃんと手加減してるから」

「それにこの甲羅、すごく丈夫だよ。いくら叩いても蹴ってもびくともしないし」

「今はこいつ、頭も手足も甲羅の中に引っ込めてるもん。下手したら僕らのほうが怪我するよ」

 彼らとの間に深いみぞがあることに気づき、私はそれ以上とがめるのはやめにした。その代わりに、交渉を持ちかけた。

「甲羅の中で縮こまっているだけの物を叩いていたって、大して面白くもないだろう? これをあげるから、そんなことはもうやめておきなさい」

 私は財布の中から、この近くにあるテーマパークの入場券を取り出した。先日うちに来た生命保険の営業マンがくれた物だが、元々行く気もなかったので惜しくはない。子供たちはあっさりとそれを受け取り、棒切れを放り出して去ってしまった。

 私はしゃがんで、亀の様子を確かめた。ざっと見たところ、子供たちが言っていた通りで傷もなさそうだ。ほっと胸をなでおろしたその時、甲羅から頭と手足がにゅっと出てきた。不意を打たれてどぎまぎしている私をよそに、亀は首をふるふると振りながらつぶいた。

「ふう。やれやれ。どうなることかと思ったわい」

 見かけによらず、しゃがれた声だ。案外年寄りなのだろうか。

 亀はつぶらな瞳で私を見上げた。

「助かったよ。ありがとうな。子供の力程度で傷つくような甲羅じゃないが、ガンガン響くし、揺さぶられりゃ目が回る」

「それは何よりです。放っておくのは子供たちのためにもならないと思ったから止めたまでで、礼には及びません」

「さてと。早く竜宮城に戻らなけりゃ。これ以上遅くなっちまったら、乙姫様が心配しなさる」

 亀はこちらに背を向け、さっさと海へ向かおうとした。聞き捨てならない言葉を耳にして、私はとっさに彼を呼び止めた。

「竜宮城から来たんですか?」

 亀は首だけこちらに振り向けた。

「その通りだが、それがどうかしたか?」

「いえ。ただこういった場合、私も竜宮城に連れて行ってもらえるというのが、よくあるパターンなのではないかと思ったので」

「もっとでかい亀ならともかく、わし程度じゃお前さんを乗せて泳げるわけないだろう」

「それは確かに。やはり、もっと大きな亀を助けないと、おとぎ話のようにはいかないんですね」

「でかい亀なら、そうそう子供になんかいじめられやせんよ。むしろ子供のほうが怖がって、簡単には近づかんだろうさ」

 もっともだ。大人でもちょっと距離を置こうとするだろう。

 そのまま行ってしまうかと思われた亀は、首を少しかしげてちょっと考え込んでから、ひょこひょこと私に向き直った。

「お前さんが行きたいのは、竜宮城じゃないだろう?」

「え?」

「海の中なら、どこでもいいんじゃないのか? だからここへ来たんだろう」

 鋭いところを突かれて、すぐには返答できなかった。

 亀はつぶらな瞳で、こちらを見上げている。私は腹をくくった。

「その通りです。昔よく遊んだこの海で、すべてを終わらせたくなったんです」

 私がみずから話すのを待つように、亀は何も言葉を差しはさもうとしない。

「世の中の進む速度が急すぎて、私ではついていけなくなったんですよ。技術が進み、社会通念ががらりと変わり、心のようもかつてとは違う……気がつけば置いていかれ、取り残されるばかりです。家でも会社でも、今やすっかりお払い箱ですよ、私は」

 自嘲気味じちょうぎみ微笑ほほえむ私を、亀は静かな目で見ている。そこには、さげすみも呵責かしゃくも同情もない。

 私は最後の願いを申し出てみた。

「私を一緒に連れて行ってくれませんか? 背中に乗せてもらおうなんて思ってません。ただ、一緒に」

「人間がわしらと同じ時間、ずっと海に潜っていられるはずがない。それでもというなら、好きにすればいい」

 私は小さくうなずいた。亀の隣に並んで、ゆっくりと海へ歩を進める。

 私はもうじき、この世からいなくなる。残るのは自分にかけた保険金だけ。それでいい。

 途中で亀がひょこりとこちらを見上げ、たずねた。

「そう言えば、まだ名前も聞いてなかったな」

「浦島といいます」

 なつかしい海へ帰る日が、ようやく訪れた。

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海へ帰る日 里内和也 @kazuyasatouchi

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