最終話 県道91号日ノ沢森山寺線(通称たぬき坂)

 その日の帰り道。


 僕たちは自転車に二人乗りして帰路についた。背中に感じるミハルの体温が懐かしい。脚はもう疲れ切っていたけど、不思議と漕ぐ力が湧いてくる。言葉はない。しかし、無言でも何も心配はいらない。


 僕は軽快とは行かないまでも、リズミカルにペダルを回して、やがてたぬき坂に差し掛かった。


「カズヤくん、私、降りるよ。さすがにこの坂を二人乗りでは登れないでしょ?」


 スピードを緩めると、ミハルはぽんと軽やかに荷台から腰を上げた。


 月明かりがたぬき坂の路面を照らしている。僕も自転車を降りて並んで歩く。時おり自家用車が歩道の僕たちをすっと抜かして行く。もう八時になろうとしているこの時間は通行量も少ない。

 いつもはもう少し坂の上まで漕いで行って、最後の急勾配だけを歩いて押し上げているが、今日は全力疾走した後にここまで二人乗り。さすがに疲労困憊だ。


「私、たぬき坂を歩いて通るの、初めてかもしれない」

「いつもバスだもんな。俺も自転車通学するまで歩いたことなかったよ。案外景色いいんだぜ、ここ」


 たぬき坂を途中まで上ってくると、街路樹の切れ目から街の明かりが眼下に一面に広がる場所がある。バスに乗っていると、一瞬で過ぎてしまうので気付きにくいが、崖側の歩道が少しふくらんで、簡単な展望スペースのようにしてある。ミハルはその展望スペースの手すりにもたれた。そして、感嘆の面持ちで街明かりを見ている。僕も自転車のスタンドを立てて、ミハルの側に立った。


 僕たちは黙って眼下の街のきらめきを眺めている。

 その光、一つ一つが人々の活動。

 喜びの光もあれば、悲しみの光もある。

 苦しみも、憎しみもあるかもしれない。

 しかし、僕の目に映る光の粒たちは、どこまでも澄んでいた。


 僕たちは、二人で言葉もなく街明かりを眺め続けていた。


 ◇


 マンションに付くと、バイク置き場にアヤネの赤い原付があった。


「アヤちゃん、もう帰ってきてるんだね」

「そりゃあ、もう八時近いからなあ。メシは食ったのかな」


 ミハルと二人でエレベーターに乗って三階のうちの家に行く。

 ただ家に帰ってきただけなのに、とても不思議な気分だ。いつもとの違いは、ミハルと一緒なこと。それだけだ。


 僕たちは、帰って来た。

 そんな当たり前のことがひどく新鮮だった。


「ただいまー」

「ただい、……ん? カズヤくん、なんか焦げ臭くない?」


 ミハルが顔をしかめると同時に、部屋着にエプロン姿のアヤネが「カズ、遅いよ! 何やってたの!」と理不尽な怒りをぶちまけながら顔を出した。


 ???

 エプロン姿の?

 アヤネ??


「なんでアヤネがエプロンしてんだよ!」


 思わず大声を上げた僕に、ミハルの声が続く。


「そうよ、アヤちゃん、待ってたら何か作ってあげたのに。あー、なんか焦がしてるでしょ」


 ミハルはぱたぱたとローファーを脱ぎ飛ばすと、慌てた様子でキッチンに駆けて行った。


 アヤネはそんなミハルを少し怪訝な目で見送って、さっきまでの怒りをどこかに投げ捨てたように、ニヤリと僕の顔を嫌な視線でなめ回した。


「ほほう、うちの弟は、まーたミハをたぶらかしたのか。ホントわが弟ながら女たらしは嫌だねー」

「何言ってんだ、アヤネ!」


 僕は仏頂面でアヤネをかわして玄関を上がると、キッチンでアヤネの作ろうとした何かの焦げ目のついたフライパンを必死にこそぎ流しているミハルの側に立った。


 ◇


 アヤネが何を作ろうとしたのか結局不明だったが、僕とミハルは焦げて燃えカスとなったベーコンを使ってパスタを作った。考えてみたらうちのキッチンで二人で並んで料理するのなんて、数年前まではごく当たり前の風景だった。


「アヤちゃん、できたよ。食べよ?」


 ソファで豪然と脚を組んでテレビを見ていたアヤネは、立ち上がってずかずかとダイニングにやってきた。


 なんでコイツはここまでえらそーな態度が取れるんだ、と呆れる。下手に出たら負けだとか思ってんのかよ、まったく。


 アヤネは会社の重役がするような鷹揚な態度でダイニングに座ると、「あんたたちも座りなよ」と言った。いやいや、おまえに指図されるいわれはないってえの。


 ミハルはそんなアヤネの態度には慣れたもんだった。ふふふ、と小さく笑ってエプロンを外し、席に座る。僕も仕方なくそのままダイニングに腰を下ろした。


「じゃあ、いただきます」とミハルが手を合わせてフォークを握る。

「いただきます」

 文句の一言でも言ってやろうかと思ったけど、アヤネの不遜な態度の叱責は後回しだ。まずは腹ごしらえ。とにかく今日はいろいろあって腹も減っている。僕も手を合わせて、フォークを手に取った。


「待ちなさい!」


 アヤネが鋭く声を上げた。咄嗟のことにフォークを取り落としそうになる。ミハルも驚いた顔でアヤネを見つめた。


「カズ、あんたさ、ミハとヨリが戻ったんだよね?」


 僕とミハルは思わず顔を見合わす。う、改めて言われると……、恥ずかしいじゃねーか。


「で、またなし崩しに付き合い始めてるんでしょ。このままだと前と同じだよ。マンネリこじらせてダメになるとか、私は嫌だからね。あんた達二人の関係がおかしくなるの、もうゴメンだから」


 アヤネは厳しい顔で僕に告げる。……そういうことか。アヤネはアヤネなりに、僕たちが別れることになったのを気にかけてくれていたのか。なんだか、まるでいいお姉ちゃんみたいじゃないか……。


「それもこれも、みんなカズがはっきりしないのが悪いんだよ。だから、今、ここで、私の目の前で、はっきりミハに言いなさい。好きです。付き合ってくださいって」


 えー、やだー、恥ずかしい////、とか冗談でパスできる雰囲気ではなかった。アヤネは珍しく大真面目に僕を睨んでいる。これは、ガチだ。


 ミハルは、「ちょっとアヤちゃん、やめてよー」と赤い顔で手をアタフタさせている。しかし、その眼には期待の色が光っているのを、僕は見逃さなかった。


 ……こりゃ、後に引けないな。分かったよ。


 僕は覚悟を決めた。息を吸って声を上げる。


「ミハル!」

「は、はい」

「ミハルのことが、すっ、好きなんだ!!  お、俺と、ま、また、付き合ってくだ、ださい!!」


 噛んだ。

 声、裏返った。

 ダサい。

 死にたい。


 ミハルは赤い顔をして、でもさらりと微笑んだ。


「ふふふ、もちろん。よろしくお願いします」


 ミハルはちょこんと頭を下げる。そしてほんのり朱の差した顔で、爽やかに微笑んだ。


「よろしい。じゃあ、いただきましょうか」


 アヤネは何事もなかったように、パスタを食べ始める。あくまで偉そうだ。


 僕は一人、動悸が治まらないまま、何回もグラスの麦茶を飲み直した。


 ◇


 一か月後。文化祭も無事終わった十一月の最後の週。


 放課後、僕は部室で文化祭のステージを録画したDVDを再生して眺めていた。ユカはテーブルの向こうでアイドル雑誌をつまらなさそうにめくっている。


「カズヤ、なんであんたが今日部室にいるのよ」


 少し不機嫌な声で雑誌に目を向けたまま聞いてくる。


「俺が部室にいちゃいけねーのかよ。ミハルが文実の最後の委員会だから終わるの待ってんだよ。それよりユカ、今日はサナエちゃんとどっか行かないのか?」


 サナエちゃんはあの後三日ほど続けて学校を休んだ。気になって仕方がなかったが、「あんたたちは何もするな」とユカに言われて、僕とミハルはじっと静観していた。


 四日目にサナエちゃんが学校に出てくると、すかさずユカがつきっきりでサナエちゃんのフォローに回り始めた。休み時間のたびにサナエちゃんのところに来ては無駄話を繰り広げ、放課後は授業が終わるとすぐにどこかに連れ出し、部活のある日はサナエちゃんを連れて来てステージ練習を見学させたりしていた。


「今日はサナエちゃん、用事があるって帰って行った」

「ふーん。それでユカはふてくされてるのか」

「違うわよ!」


 ユカはぞんざいにアイドル雑誌をテーブルの上に放り投げて、吠える。


「私が怒ってるのはイインチョ―ヤローのことよ。あのヤロー!」

「何アツくなってんだ。血圧上がるぜ? 古田がどうかしたのかよ」

「アイツ、性懲りもなく今度は1年生の子に手を出してるんだよ? なんなのよ、アイツ。ミハちゃんにフラれてもノーダメージ。ノータイムで1年生に手を出すんだよ?」


 ……見込みのない女子には無駄な恋愛エネルギーは使わない、ってことか。ホント、ご苦労なこった。イケメンも楽じゃねーな。しかし、女子にモテてないと生きていけないのかね。

 僕は、そんなわりと冷めた感想しか湧いてこなかったが、ユカは烈火のごとく怒り狂っている。正義感が強いのはユカのいいところだけど、それにしても怒りすぎじゃねーかな。


「ユカ、そんなこと言って、ホントは古田のこと好きだったんじゃねーの?」

「そんなわけあるか!! カズヤのバカ!!」


 ユカは腹立ちまぎれに、テーブルの上に置いてあった厚さが二センチもある「2020最新アイドル図鑑」を僕に向かって投げつけた。


「おっと」


 飛んでくる本を僕は少しのけぞって避けた。ユカの攻撃パターンはだいたい見切っている。


「ぐわっ」


 が、空中を飛来するアイドル図鑑は、部室の扉を開けて中に入ろうとしたイガラシの腹部に直撃してしまった。


「あー、イガラシ、大丈夫?」

「だ、大丈夫じゃないっス。いつからうちの部室には、入室しようとすると本が飛んでくるトラップが仕掛けられてんスか」

「ゴメンって。それもこれも全部カズヤが悪いから。それより今日は部活ないよ? 何しに来たの?」

「あ、俺、ちょっと忘れもんス。これから中央公会堂でヨネハラさんとデートっス」


「サナエちゃんと、デート!?」


 驚きのあまり、思わずユカとハモってしまった。

 先に態勢を立て直したのはユカだった。


「中央公会堂って、セイントアージュの握手会?」

「そうっス。ヨネハラさんの持ってた握手券と合わせて百枚っス! ちせっぽ抱きしめるのも余裕っス!」

「イガラシ、やめとけ。捕まって出禁になるぜ」


 握手券は一枚十秒の持ち時間らしい。六枚で一分だから、百枚だと十六分。確かにそれだけあれば抱きしめるのなんて余裕だ。


「冗談っス。握手会の後、アイドルショップに行くことになってますんで。ちせっぽごときに貴重な時間を使いたくないっス。それじゃ、俺、行きますんで!」


 あ、こいつちせっぽごとき、とか言いやがった。ショウタローが聞いたらキレるぞ。イガラシは棚からちせっぽのハッピを掴むと風のようにバタバタと部室から出て行った。


「ユ、ユカ。今、イガラシ、サナエちゃんとデートって言ったよな?」


 事情が呑み込めない僕は、してやったりとにんまり笑うユカに解説を求めた。


「ふふふ、あの二人いい感じに急接近してるよね」

「なに? イガラシのヤツ、サナエちゃんと接近してんの?」

「イガラシが全連見に来てたサナエちゃんのこと気に入ったみたいだったからさ、文化祭当日に二人の時間作ってあげたのよ。あんたとミハちゃんがいちゃいちゃしてる間にね」

「い、いちゃいちゃなんかしてねーし」


 ユカはふっと笑ってごく柔らかい表情になった。


「思い切りフラれた後は、思い切り好かれてみるといいのよ。これでサナエちゃんも立ち直れるかもね。しかし、あんたたち、付き合って一ヶ月ですっかりそれっぽくなったよね。やっぱり積み重ねた時間の違いかなあ。なんか、妬けるなー。ショーなんか相変わらず私を置いて握手会とかに一人で行っちゃうしさ……」


 なんだ、ショウタロー、今日欠席してるなと思ったら、学校サボって握手会行ってんのか。アイツも懲りないやつだな。ユカが不機嫌なのはそれが理由なのか。


「それは違うぜ、ユカ。時間というよりも、積み重ねた失敗の違いかな」

「失敗してるのはほとんどカズヤじゃん」

「それは……反省してます。海より深く、山より高く、川の流れの絶えざるがごとく」

「あはは、意味わかんない。まあ、なんにしても良かったんじゃない? 落ち着くとこに落ち着いた感じだよね」


 ユカはやっとのことでいつもの快活な顔に戻ってそう笑った。

 そうしていると、部室の扉が静かに開いた。イガラシがまた戻ってきたのかと思ったら、顔を出したのはミハルだった。


「あら、ユカちゃん。今日部活ないんじゃなかったの?」

「あー、ショーが来るの待ってるんだ。握手会の後で部室に来るって言ってたからさ。私にお構いなく」

「そっか。じゃあ、俺たち、帰るから。じゃあな、ユカ」


 ユカとミハルはひらひらと手を振り合った。


 ◇


「なあ、ミハル」

「ん?」

「ショウタローにちょっと言っといた方がいいかなあ。なんかユカ取り残された感なかった?」


 僕たちの自転車は、二台並んでバス通りを走っている。秋の空はどこまでも青く、どこまでも深い。頬に感じる空気は、はっきり冷たくなってきていた。ミハルは早くも手袋にマフラーの完全防寒体制だ。もうすぐたぬき坂の上りにさしかかる。

 昼下がりの下校時間帯のたぬき坂は、さほど交通量は多くない。朝夕の自動車で混雑する時間帯には無理だが、この時間はゆっくり並んで走っても問題はない。


「そうね。ショウタロー君、ユカちゃんにプレゼント買うとか言ってアルバイトしてるから、放課後はいつもいないもんね」

「ナイショにしといてくれって言われたけど、……さすがにほったらかしすぎだよな。その割には今日とか学校さぼって握手会行ってるし」

「んー、ショウタロー君の中のプライオリティ優先順位がイマイチ分かんないよね」

「……まあ、あいつが、訳が分からないのは、……昔からだけどな」

「ユカちゃんには、私からあんまり心配しなくてもいいよ、って言っとく」

「……そうだな、それより……ミハル」


 息が切れて来た僕は、ミハルに懇願する。


「もう少し、……ゆっくり……走ってくれよ」

「ふふふ、たぬき坂って思ったよりも楽勝ね。私も自転車通学にして良かった。こうして毎日カズヤくんと一緒に帰れるからね」

「いや、……それは俺も、……やぶさかじゃないけど、……ミハルだけ、電動アシスト自転車ってのは、……反則だろ」

「ふふふ。がんばって追い付いてね!」


 そう言うとミハルは、たぬき坂最後の一番急な上りを、ごく平然とスピードを増して上って行った。

 みるみる僕とミハルの距離が離れていく。


 僕たちの帰り道には、たぬき坂という急な上り坂がある。僕たちは毎日、二人でこの坂を上ることにした。


「そして、私に追い付いたら……」


 僕も、腰を浮かせて立ちこぎであらん限りの力をペダルに込める。

 でも、長い坂道は一時に力を集中してもダメなことが最近分かってきた。


 長い上り坂。

 少しずつ力を入れたり、時々力を抜いたりしないと、坂を上り切れない。


「……二度と私を離さないでね!」


 たぬき坂上のバス停に一足先に到着したミハルは、自転車のスタンドを立てて僕に向かって声を上げる。


「当たり前だろ!」


 僕は最後の坂道を必死に上りながら、叫んだ。


 そして、僕は、またたぬき坂との格闘に挑む。


 今日の、僕たちの帰り道は、もうすぐ終わる。

 でも、ミハルがそばにいてくれる限り、僕たちの帰り道はいつまでも、いつまでも終わらない。

 僕は、そう信じている。

 

 僕は、肩で息をした。

 そして、たぬき坂上のバス停のベンチで休んでいるミハルに向かって声を上げる。


「ミハルー!……今日も、うちで、……なんか食ってくよな!」

 

 ミハルは一瞬だけ思案顔をして、にっこりと微笑んで首を縦に振った。


「うん!」




 <了>

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僕たちの帰り道 ゆうすけ @Hasahina214

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