壁尻・ザ・ファイヤー

しのびかに黒髪の子の泣く音きこゆる

あの火事で死んだのは生徒が男女一名ずつ

序.尻切れトンボ


「こちらには屁をこく用意があります」


 この期に及んで、目の前の壁尻かべしりはそう言い切った。


「ふざけんなクソ女!」


 ルパンは当然のように激怒し、シリ――男子トイレの壁の穴にめり込む女子高生の下半身――に飛びつく。

 シリは裂帛れっぱくの気合で叫んだ。


発射ファイエル!」


 ブボッという音の後、ルパンは彼女から離れ、虫のようにのた打ち回った。


「ギャアギャア!!」


「まったく、下衆げすめ」


「オエエッ!!」 


「身動きが取れない女性に狼藉ろうぜきを働こうなどと! 弱者の圧倒的不利な状況に浸け込もうなどと! 相手は逃げることは愚か視界さえ封じられていると言う、自分が圧倒的優位な状況でいることに性的興奮を得ようなどと! 禽獣きんじゅうにも劣る所業、恥を知りなさい!」


「目が、目があ! 何も見えねえっ」


 悶え苦しむルパンにシリの説教は届かない。彼は転がり這いつくばって、少しでも臭いの元から逃れようとする。

 だが戸口まで来たところで、彼の鼻をがくすぐった。


「ほほいいっ!??!!?」


 と、奇声を叫んで彼は立ち上がり、トイレ最奥の個室=シリの傍に戻る。ドアはもう火に包まれかけていて、廊下は言わずもがなアツアツだ。

 二人は現在、生きるか死ぬかの瀬戸際にいる。


「畜生……」


 何の変哲もないお昼時だったのに。

 火の手は信じられない速さで校舎全体に広がり、ルパンの逃げ場を奪った。


 深呼吸を一つ、彼は南校舎二階東トイレを見まわす。小便器が三、個室が三、洗面所が二、掃除用具入れ一、窓……換気用で人が通れるサイズではない。

 つまり、出口はシリがはまっている穴だけ。

 ルパンは懇願するようシリに問うた。 


「お前さあ、マジでそこから動けないの?」


「ちょ、やめてください。なに抵抗できないことを確認して良い気持ちになろうとしてるんですか!?」


「だから今そんな状況じゃねえだろ!!」


 二人は現在、生きるか死ぬかの瀬戸際にいる。

 それなのに彼女は指一本触れることを許してくれないのだ。


 取り乱すな、ルパンは自分に言い聞かせる。シリはパニクっているのだ、自分までキレたら終わり。まずは落ち着かせたら、事態を理解して協力してくれるはず。そのあと彼女を押し出すか引っ張り出すかした後、自分も脱出する。シンプルなプラン。


 考えをまとめたルパンはブレザーのポッケに両手を突っ込み強く握った。勢いよく怒鳴ることはできてもコミュニケーションは苦手な性分だ。何と呼びかければいいのかと考えて、名前も知らないことに気付いた。


「あんた、名前は?」


「その手には乗りませんよ」


「え」


真名まなを知ることで相手を支配する――呪術の基本ですよね。体だけじゃなく心まで拘束して支配欲を満たそうとするなんてっ、このド外道!」


「バカバカ、バーカ」


 パニックとかじゃなくて筋金入りのアホだわコイツ、ルパンは次の手を考えようと、シリを観察し始めた。


 紺の制服スカートは随分長めで、脚はひざの裏ぐらいから覗ける。腰はそれなりに量感があるが、全体として肉付きはほっそり。女子の脚なんてほとんど直視したこと無いからわからないが、運動部じゃない気がする、と彼は推測した。


「……視姦してますよね?」


 妄言は無視。

 穴はルパンの腹ぐらいの高さにあって、かかとを浮かせる彼女のサンダルの底は緑。今年は青が三年で、二年が赤だから。


「一年かよ、お前」


「なんだボク、同学年だと思って安心しちゃったの? でも残念。私誕生日四月で、最速で年上だから。以後は二重敬語な」


「俺三年だけど」


「この卑劣漢!」


 ルパンはその尻を青いサンダルで蹴り飛ばしたい衝動を必死に抑えた。


「ああ悪かった。でも信じてくれ、本当に変なことするつもりはないから。ただ外に出てえんだ。どうしたらマトモに話してくれる?」


「問題は構造です」


「はあ」


「貴方が主導権を握り、私は答えるだけ。『問題を解決できるのは自分だけ』というマチスモが私のみならず貴方までジェンダーロールのおりに閉じ込めているのですよ、ふふん」


 小難しいこと言ってるぞ、としかルパンにはわからない。


「ならお前が考えて、指示してくれ」


 大分おかしい奴だが、とりあえず彼女にも協力する気になってくれたようだ。ルパンの計画は尻切れトンボになったが、今は流れに身を任せることにした。


「じゃあ、先輩のお名前は?」


「ルパン」


「え、!?」


 彼があだ名を名乗ったのはただの気まぐれだったが、これで自己紹介の必要が無くなった。


「一年まで広まってんのか」


「まあみんな噂話大好きですし」


 シリは楽しげに尻を振ってから次の質問をした。


「トイレの外はどんな具合ですか?」


「最悪。お前にかまわず廊下の窓から飛び降りるんだった」


「えーでもサイレンからまだ三十分かそこらでしょう?」


「火元が一つじゃなかったんだよ」


「へえ」


「まずは人気ひとけの少ない南校舎の四階から、その時点でもうボヤのレベルじゃなかった。次に北校舎の四階、多分化学準備室。サイレンが鳴って、生徒や先生の避難が終わったあたりで今度は一階の調理室に職員室と東西の渡り廊下が爆発。上からも下からも来てる」


 もうテロだよなこれ、ルパンの乾いた笑いが個室に響く。


「先輩ずいぶん詳しいんですね」


「何だよ」


「かゆっ」


 シリは右足で左のふくらはぎを掻く。そののん気さもまたルパンのしゃくさわったが、こらえて会話を試みた。


「消防車、とっくに来てるはずだよな?」


「どうでしょう。音はしませんね」


「クソッ。穴の向こうには誰もいないのか?」


 シリはちょっと黙ってから答えた。


「いません」


 校舎の形を思い出すと穴の先は中庭で、かつその前には大きな植木があったような、なかったような、とルパンはおぼろに納得した。

 誰も来ない、絶望的だ。

 つー、彼のもみあげからしずくが伝う。


「段々熱くなってきたな。おい、どうすんだよ?」


「うむ……」


 シリはたっぷり間を取り、それから答えた。


「しりとりしましょう」


「うおおおっ!!!」


 ルパンはシリの腰に掴みかかる。


 ブボッ。


 彼は飛び退き、足下の和式便器に嘔吐おうとした。


「怖っ。発狂ですか?」


「お前……腸にゾンビ詰めてんのか……?」


「ちょっと出してみましょう、ぬっ」


「悪い! 俺が悪かったから……だけど、教えてほしいんだけど、生きていたいという気持ちはあるんだよな?」


「もちろん」 


 彼女は毅然きぜんとして言葉を続ける。


「アイスブレ~クですよ。慌ててててては良い考えが出てきません。お互い緊張をほぐし、理解し合いましょう」


 いやこいつはふざけてる、彼は確信した。


「いきますよ! しりとり」


「離婚」


「りす」


「鈴蘭」


「すいか」


「漢」


「もしや日本しりとり強制終了大会前年度優勝者ですか」


 ルパンが何か言おうとすると爆発音がして、反射的に個室の外を覗く。


「うおっ!?」


「どうしたんですか?」


「手洗い辺りの、て、天井が落ちた」

 

「早いですねー。三階にも何か仕掛けてあったのかもしれません」


 ジュウジュウ、爆発の余韻の耳鳴りに混じって聞こえてくる。蛇口が壊れて水を噴き出し、燃え盛るロッカーや天井材にかかって蒸発する音だ。

 むわっと水蒸気が二人に押し寄せる。


「じゃ、仕切り直しで。しりとり」


「嘘だろ!?」


 ルパンにはもうこの壁尻が狂っているとしか思えなかった。

 んふふ、くぐもった暗黒微笑。


「私、貴方に興味があるんですよ」


「俺は無い! なあ、何か道具とか無いのか? その穴広げられそうなの」


 すると彼女はわっと歓声をあげた。


「持ち物検査ですか! いいですね、やりましょ。私からで」


 そう言って彼女は尻を突き出してくる。


「ポケットだけ、そこ以外に触ったらファイエリます」


 しかしルパンが便器を乗り越えて狭いスペースに立つと、ほとんど身を寄せ合う体勢になってしまった。そろそろと手を伸ばし、腰をまさぐる。

 心臓がバクバクする。やましさは無く、純粋に屁への恐怖で。


「あう」


 と、シリがおふざけ無しの純粋なあえぎを上げたのは、ルパンの指先が腰骨の輪郭に触れた時で、脳裏のうり走馬灯そうまとうがよぎった。


「いやいや、死の間際に思い出が次々去来きょらいすることを走馬灯に例えるのであって、実物を想像しても意味ないですよ」


「お、おお俺の心をよ読むんじゃねえ!!」


 そんな苦労までして得られたものはヘアゴム一本きりだった。


「なんか尖ったもの、ペンとか」


「ブレザーの方です。ガッツリはまって手も出せません」


「引っ張ってもいいか?」


「ダメです」


 ルパンは複雑な体勢のまま溜め息。


「先輩は?」


「ティッシュ、ワックス、財布、家と自転車の鍵。スマホは落とした」


「それだけ? 本当かな」


「……何だよ」


「ちょっと離れてもらえますか。便器より」


 ルパンが言われたとおりにすると、彼女の右足が跳ね上がった。


「ふーむ」


「うわっ」


 サンダルが吹っ飛び、黒いソックス越しに足裏がルパンの腹やももを撫で回す。


「よせ、やめろ、あっあっあっ」


 もぞもぞ動く指や爪がこそばゆく、身をよじっても、足がもつれてその場から離れられない。ルパンは為すがまま蹂躙じゅうりんされた。


「ここ上着のポケットですか? 何か柔らかいものが」


「ちが、違う、そこは……ああ」


 その反応でシリもそこが股間だと気づいた。


「おう、五十点ブルズ・アイ


「いい加減にしろ!!」


「あははは」


 彼女がケタケタ笑うのに合わせて右足がブラブラ揺れる。さっさと降ろしてほしいので、ルパンは外に転がるサンダルを拾いに行った。


「あーおかし。男子とこんなに盛り上がったの初めて」


「いや、あんたなら初対面の宇宙人とでも徹カラできるだろ」


 皮肉もそこそこにサンダルを履かせてやると、彼女は素直に地に足をつけた。


「そんなこと無いです。普段は陰キャで友達もいないし。いい気分ですね、誰かをイジるのって」


「あっそ」


 ルパンは舌打ちをして壁にもたれかかる。

 火の手はますます速まり、ドアに近い方の個室がすでに燃え始めていた。


「どうすりゃいいんだ……」


 『人間って困ると本当に頭を抱えるんだ』と現に実行する自分を客観視して、彼は現実逃避した。

 一方のシリは足を組み、いまだ│余裕綽々よゆうしゃくしゃくだ。


「え、でも役に立つのあったじゃないですか」


「ヘアゴムが?」


「貴方の鍵ですよ。これは大きな助けになります」


「小さいし、これで穴を広げるのは無理だ。どう助けになんだよ?」


 ふむーと息を吐き、シリはとくとくと語り出した。


「先輩、諏訪湖の遊覧船ゆうらんせん乗ったことあります?」


「あんなくせえ湖、年に一度も見たかねえよ」


 この高校の付近にある湖は観光名所だが水質は劣悪で、つい先日の一周マラソン大会でもうんざりするほどよどんだ緑の水面みなもを拝んだ。


「小さい頃、いつも忙しいパパとママの休みがたまたま重なり、私が『どこでもいいから』ってわんわん騒いだら連れてってくれたんです。白鳥と亀の形のがあって、白鳥を選びました。まつ毛が長く二階建てでかわいくて、でも亀の方が速いんですよ? それで『追い越せ追い越せ』とはしゃいでいたら、向こう岸に着く前にどっちも引き返しちゃったんです」


「そりゃ遊覧船だし」


「でも私むくれちゃって。実は両親も当時から仲が悪く、三人ともしかめっ面で帰ったのでした。ちゃんちゃん」


「ふーん」


 ヤマもオチもなく話は終わり、二人は口を閉じた。


 パキリ。


 どこかで木材が崩れる音がして、ルパンが気付く。


「鍵は!?!!!???」


「こんな状況ですし、私も走馬灯をよぎらせてみました」


 と、尻がふんぞり返る。

 要するにまた揶揄からかわれたのだ。


「クソ女、いつまでふざけんてんだよ!」


「行きたかったなー向こう岸」


 ルパンは八方塞がり。さすがに辛抱ならないが手は出せないし、怒りをぶつけても彼女は屁の河童だ。


「あ、先輩の走馬灯も聞きたいです。教えてください」


「……」


「え、無視?」


「……」


「もー仕方ないですね」


 憎々しげな視線をしり目に、彼女はゆったりと切り出す。


「では、そろそろ核心に入りますか」


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