外伝 追憶のレムナント

外伝Ⅰ 不死の魔女/1

 灰色の空からひらひらと雪が降り落ちる夕方、ヴェイルはとぼとぼと通りを歩いていた。朝追い出されるように家を出て、公園で同年代の子供たちの会話にも混じれず、古ぼけた本屋の隅で時間を潰し、そうしてなんとか一日を終える。

 誰との会話もない日々にはすっかり慣れていたが、寒さ相手ではそうはいかない。襟巻きも手袋もない中、ヴェイルは身を縮こまらせて家路を急いだ。

 ノールハルドの小さな街の機織り屋、それがヴェイルの家業だった。美しい糸で物語を紡ぎ、領主に献上するのが代々の仕事で、ヴェイルはそのような家系の末の子として生まれた。両親は忙しく、家は一番上の兄が継ぐことになっており、他の兄姉たちがそれを手伝う。ただ、ヴェイルにだけは、なんの仕事もなかった。

 幼いから、ということもできよう。ヴェイルはまだ六歳だった。しかし——ヴェイルが家の扉に触れた時、彼は何度目かの失望を抱いた。扉は開かない。それが、家庭内におけるヴェイルの立場であり、現実だった。

 ヴェイルは家の裏手の森に回った。ここなら人がこないし、ヴェイルがいると分かれば寄り付かない。ヴェイルはいつも隠れ家としている大木のに身を隠すと、膝を抱えた。

 俯いて寒さをこらえていると、ふわりと暖かいものが手の甲に落ちた。ヴェイルが顔を上げると、背中の燃えたトカゲがヴェイルの手にしがみついていた。そのつぶらな瞳をくりりと動かして、心配そうにヴェイルを見つめている。

 火の大精霊、ラケルダの眷属だ。霊素のみで構成された、星々の力のかけら、それが精霊である。鈍感な者には見えないが、ヴェイルは生まれつきそういったものをよく見通すことができた。

 彼らの姿や声はもちろん、考えていることまで手に取るようにわかる。しかし、見えないものと話し、聞こえないものを聞く、人よりも姿形もわからない得体のしれないものと交わるとなれば、人々は恐れ不気味に思うものなのだ。

 幼いヴェイルには、まだその道理が分からない。人と異なる世界に住んでいるということを、理解できていなかった。ゆえに傷つき、悲しみ、傷は癒えないまま広がっていく。

 ヴェイルはトカゲの背を撫でた。揺らめく炎は獣の毛のようにふわりと凍えた指先を包んで温める。ヴェイルが涙をこらえてふっと笑うと、それまで息を潜めていた他の精霊たちも顔を出した。

 ヴェイルはこの森の精霊たちに愛されていた。言葉を交わさずとも、確かな心がそこにはあった。

 あっという間にうろの中は精霊たちで満たされて、ヴェイルは窮屈だと笑いながら身をよじる。寒さは遠のき、ヴェイルの体はもう凍えていなかった。やがてヴェイルは精霊たちとともにうろから出ると、空腹を紛らわすために木の実を探し求めた。

 この時期ならまだヤマグミが残っているはずだ。ヴェイルの期待通り、それはあった。ただ年齢よりも小柄なヴェイルの体では届きそうな位置になく、うんと手を伸ばしたり、跳ねてみてもかすりもしない。

「取ってあげようか」

 そこへ突然後ろから声をかけられて、ヴェイルはびくりと肩を震わせた。それは落ち着いた少女の声だった。恐る恐る振り返ると、いつの間にそこにいたのか、少し離れたところに、フードを目深にかぶったローブの少女が立っていた。

 街の者ではない——そもそも、。精霊とは違う気配にヴェイルは恐怖に襲われ、咄嗟に手近な木の影に隠れた。

「そう怖がらなくても、君にひどいことをしたりはしないよ」

 すると、すぐ耳元で声がした。ヴェイルは小さく声を上げて飛び上がり、木の幹を背に人影を見上げた。

「はじめまして」

 少女は一歩身を引き、柔らかな声で挨拶すると、フードを肩に降ろした。濡れたような黒髪を、頬にかかる部分だけを長く伸ばし、他は短く切って、瞳は美しい金色をしている。人の形をしているが、その気配は明らかに人智の埒外の存在だった。

 おののくヴェイルに、少女は満足そうに腰に手を当てて微笑んでみせる。

「うんうん、君は違いのわかる子のようだ。そうとも、私は精霊でも幽霊でもない……けれど、人間というわけでもない」

 そしてそっとヴェイルの小さな手を取ると、壊れ物を扱うように握った。

「私は不死の魔女。古くより生きる神々の僕」

「まじょ?」

 ヴェイルは首を傾げた。聞き慣れない言葉だ。首をかしげると、少女は「ええっと」と続ける。

「昔の魔術を使う女のことだよ」

「まじゅつ……?」

 また知らない言葉だ、と眉をひそめるヴェイルに、少女はしびれを切らしたように先を急ぐ。

「ともかく、私は、君と友達になりたいと思っているんだ」

「ともだち……」

 それは知っている。ヴェイルは少し目を輝かせた。それは、ヴェイルにとって手の届かないものだったからだ。周囲の子供も大人も、ヴェイルが言うことに耳を貸そうとしない。楽しそうなおしゃべりの輪の中に入れず、代わりにヴェイルがすることといえば精霊たちと戯れることくらいで、とはいえ、精霊たちはヴェイルの考える『ともだち』とは少し違っていた。ずっと、自分と同じ姿形をした仲間を探していた。

 しかし、とヴェイルは手を振り払って後ずさった。

「でも、あなたは、知らない人です」

 少女は街の人間でもない。『知らない人について行ってはいけない』と特別言い含められているわけではないが、どこかに連れ去られてしまうかもしれないという本能的な恐怖が優った。それに、少女はおかしそうに笑う。

「そんなの、みんな最初は知らない者同士さ。……ああ、君のことは、精霊たちから多少聞いてはいるけどね、小さきアールダイン。なんでも君は珍しい霊素の持ち主で……」

 少女が身を乗り出してきたので、ヴェイルは木の反対側へと回った。

「そして、人見知りだ。人には見えないものが見え、聞こえないものが聞こえ、誰とも世界を共有できない、寂しがりや。でも、私は君と共に歩める……少なくとも君が大人になるまでは」

 ヴェイルの身の回りにいる精霊たちは、じっと少女の様子を伺っている。彼らが手出しをしないと言うことは、少なくとも悪霊の類ではないらしいことはうかがえた。

「……いっしょにいてくれるんですか?」

 ヴェイルが木の陰から顔を出しておずおずと尋ねると、少女は深く頷いた。

「そうだよ。そして君は、魔術師に——奇跡を起こす人になるんだ」

 少女はヴェイルに向かって白い手を差し出した。

「魔女の友達は魔女か魔術師と相場が決まっているものだ。私の知っている魔術は古いが役に立つ——さあ、小さきアールダイン、君に深智を授けよう」

 ヴェイルはじっと、差し出された手を見つめていた。少女の言っていることはよく分からなかったが、悪意は感じられない。こわごわ手を伸ばし、少女の指先に触れる。

 その指先は冷たく、氷のようだった。寒いのかと思い、ヴェイルは自分の両手で少女の手を包むように握り、身を寄せて息を吹きかける。すると、少女はくすぐったそうに鈴が鳴るような声を出した。

「君は優しい子だね」

 少女の手がヴェイルの手元をすり抜けたかと思うと、ヴェイルの頭を撫でた。その感覚はヴェイルにとって非常に新鮮なもので、どうしてよいかわからず、ただ気分が良くなって、ヴェイルはしばらくされるがままでいた。その様子に、少女は満足げに腕を組む。

「可愛い君には特別に、私の名前を教えてあげよう。いくつもあるけれど……一番お気に入りのものをね。私のことは、ひびきと、そう呼んでほしい」

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