◎番外編◎プラトニック【お題:ピアス】

 窓に何かが当たった音がした。また彼だ。あきれた顔で窓を開けると、案の定向かいの古びたアパートの窓から彼が顔を出していた。

「プール行こう!」

 ぬるい風が吹いてきて、彼の髪をなびかせた。彼が目を細めて笑うのが、月の光に照らされて半分だけ明るかった。

「いつ?」

「いま!」

 きっと家が近くなければ、彼が連れ出すのは別のだれかだったのだろう。一緒に育ってしまったから、彼は相手に私を選ぶのだ。でなければ、友人の多い彼が私みたいな人を選ぶ理由がわからなかった。

「ねえ、ほんとうに行くの」

 彼は平然と笑っていた。

「ついてくるでしょ」

 私はなにも言わない。肯定したら、なにかが変わってしまうことくらい、わかっていた。私はいつも、優等生のふりをする。彼に呆れた顔を向けて、怒るふりをして、今日もベランダのサンダルに足を引っかけて外に出た。

「心配性だなあ、不法侵入しても怒られるだけで済むのなんて、学生のうちだけだよ」

 いつもそう。突拍子がなくて、めちゃくちゃで、そして決まって私をつきあわせる。彼はいたずらを思いつくと、決まって目を糸みたいに細めて笑う。

 彼は軽々と柵を乗り越えて、夜のプールに忍び込んだ。夜のプールだけじゃない。授業をサボって立ち入り禁止の屋上の鍵のピッキングを熱心にしていたこともあったし、こっそり練習したんだとか言ってバイクの無免許運転をしたこともあったし、終いにはうちの鍵をこじ開けて入ってきたこともある。

「ほら、来いよ」

 夜と同化してしまったTシャツとスキニーパンツを脱ぎ捨てて、彼はプールに潜った。なかなか水面に上がってこないから不安になったけれど、それよりもフホウシンニュウという響きが恐ろしくて、私は柵の外から真っ黒なプールを見つめていた。やがて水面に上がった彼は私を一瞥して、つまらなそうに舌を鳴らした。

「なんだ、つまんねえの」

「ごめん」

「いいよ。期待してない」

 真っ暗なのに、彼の唇が動くのが見えた。闇の中の薄赤は妖艶にも見えて、私は手に力がこもるのを感じた。表情はわからない、瞳も、髪も、夜の一部になってしまった。でも、唇だけはなまめかしい赤が生を、その存在を主張している。

「水に潜るって、セックスしてるみたい」

 赤が、動いた。感情をめいっぱい抑えたみたいな声だ。

「え?」

「水の中は、息苦しいから」

 私はじっと暗がりを見つめた。瑠璃色に紛れて、彼の笑う声だけが聞こえた。

「なーんてね。おまえセックスしたことある?」

 あるわけない、だけどなにか答えたら負けたような気分になるから、私はいつも彼に言い返さない。彼もそれ以上なにか聞いてこないから、私もその言葉の裏側は探らなかった。

「あーあ、海に行きたいなあ」

「……勝手に行けば」

 息を吐いた。たぶん、笑っていた、と思う。顔を上げたら、彼の瞳がじっとこちらを見ていた。いつもみたいに、目尻を下げて、きゅっと目を細めて笑わずに。

 あ、目が笑ってない。

「うん、おまえには期待してなかったよ」

 顔も声も笑っていたのに、瞳だけが深い闇だった。彼の顔についているふたつの穴ぼこが恐ろしくて、私はその場を逃げ出した。

 彼はこの日以来、私を誘い出さなくなった。

 高校を卒業してから疎遠になった彼が亡くなったと聞いたのは、大学二年生の夏だった。長いこと会っていなかっためちゃくちゃな男は、やはり最期もめちゃくちゃで、私は思わず笑ってしまったものだ。

 彼は何も遺さなかったらしい。まるで自分の存在なんて元々なかったみたいに、何もかもを捨てていた。大学をやめ、SNSを消し、母を殺し、自分の住む古いアパートを燃やした。人気者だった故にその行為は誰もが疑問を持ち、実は彼は殺されたんじゃないかとまで言われた。彼が犯してきた小さな犯罪たちは、きっと私しか知らないのだろう。

 彼の穴ぼこを知る者は、いない。

 あのとき一緒に海に行っていたら、と思ったけれど、そんなのは救いでもなんでもない。彼とセックスなんかして、ひと夏の恋くらいはしたかもしれない。あるいはセフレにでもなっていただろうか。どちらにせよ、それだけだ。

 彼はどうして、死に場所に海なんて選んだのだろう。


「ねえ、本当にやるの?」

「うん、思いっきりやって」

 夏にピアスを開けると膿んじゃうかもしれないから、と聞いて、大学二年の冬にピアッサーをふたつ買った。何月の誕生石だか忘れた青い石のファーストピアスがついた、ピアッサーだ。

 バチン、と大きな音が鳴った。時間を少し置いて、反対側も。鏡を見たら、瑠璃色の石が耳元で輝いていた。

「大丈夫? もしかして痛かった?」

 友だちは私の顔を見て、目を見開いた。

「痛くないよ」

 そうだ、全然痛くなんかない、こんな小さくて浅い穴じゃ、痛みなんてわからない。

 ずっと、穴ぼこが怖い。深い深い闇が続く、底の見えない穴が。

「……ぜんぜん、痛くない」

 彼の穴ぼこを、今でも思い出す。水に潜るのが苦しいと話しながら、海に潜って亡くなった彼の、真っ黒な瞳を。私はもう、その深い闇の底を知る術をあの夏に置いてきてしまった。

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ユートピア サトミサラ @sarasa-mls

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