モンスターへ乾杯!

有澤いつき

問答無用テイクアウト

「なあ、おい、錦野にしきの?」

「えっへへ、三條さんじょおー、夜はまだまだこれからだぜーえ!」


 俺の再三の問いかけも聞かず、錦野は上気した頬をあげて笑う。右手にはサングリアの入ったグラス。左手は床に。床には……押し倒された俺がいる。

 押し倒す。っていうのはつまりその、最近流行りの少女マンガとかにいう、壁ドン? 古い? つかもう床ドン? やべえ、酒のせいで頭が回らなくなってきた。


 違うそんなスイーツな展開じゃない。本来なら押し倒すってのは、アレだ。男女がナニをするときの、そういう体勢だ。

 じゃあ俺と錦野がそういう関係にあるのかというと、そんなわけない。


「錦野、まじで、やめろって! 正気に戻れッ」


 俺を組み敷いた錦野の目は据わっている。錦野紗矢さや……大学でも美人で社交的だと評判の、有り体に言えばめちゃくちゃタイプの女子だ。正直付き合いたい。もちろんそんなアプローチはしていない。告白なんてもっての他だ。

 俺と錦野は同じサークルの仲間で、学部は違うけど学年は同じだということもあり、酒宴で意気投合した。サークル主催のコンパで盛り上がり、談笑に花を咲かせ、ああ、今日は憧れの錦野と話せてよかったなと。ふわふわした幸福感を抱えて帰路につくはずだった。


 どうしてこうなった?


「あたしはいつって正気よお? ほら、お水がおいしーい」

「アホか、それは酒だっつーの!」


 呂律の回っていない錦野は、酒癖が悪いという欠点を持っていた。

 噂には聞いていた。「紗矢ちゃんは酔うとヤバイから、飲ませ過ぎてはいけない」と、同じサークルの先輩に釘を刺されていた。ヤバイって、ゲロ吐いたりするのかな、それは確かにヤバイなーなんて、あのときは軽く捉えていたけれど。

 まさか自分が「お持ち帰り」されるなんて、誰が想像しただろう。錦野紗矢という大学でも話題の美女に、男である俺が。


「三條、ねえ、あたし熱くなってきちゃった」


 バシバシに長い睫毛が、静かに伏せられる。こんな近距離で女子の顔を見たことなんて、もちろんない。残念ながらそんなご縁はなかった。初恋は無惨に玉砕したけれどそんなことはどうでもいい。

 酒に濡れて湿った唇が、「しよ?」と囁いた。


「……いやいやいや」


 しよって、その、ナニをスルんでしょうか。わからない俺じゃない……けど、今絶対に「うん」と答えてはいけないのはわかる。

 正直、錦野としたいかといわれれば、したい。彼女になってほしいしそういうこともしたいし、下世話な話彼女で抜いたこともある。情けない話だと笑いたいやつは笑え。

 でもこの状況じゃない。それくらいの理性は持ち合わせている。だって俺と錦野は、まだサークル仲間以上の関係じゃない。脈のある対応かどうかなんてわからない、錦野はみんなに優しいから。


 組み敷いた状況を脱すればいい。なるほどそれが最適解かもしれない。熱に浮かされた瞳と、熱い唇と、汗ばんだ肌を前にして離れられるなら、だが。ついでに言うと錦野の片足が俺の脚の間に差し込まれており、要するに男としてとても立ち上がれない状態であることも考慮してほしい。


「……錦野。それはダメだ」


 焼け切れそうな理性を信頼して、俺はなんとか拒絶を口にした。これがそう、俺と彼女のためだ。

 錦野の瞳が不安げに揺れる。断られるとは思わなかったのだろうか。まあ正直俺もかなり揺らいでるし、こんな彼女を前にして流されてしまうのもやむなしだと思う。

 もしかしてこうやって錦野は何人もの男と関係を持ったことがあるのかな、なんて考えが過る。心臓が小さくなった気がした。


「三條はしたくないの?」

「それは、……」

飛鳥あすか


 ふっ、と耳元に熱風が吹き掛けられた。魔性の言の葉だ。下の名前を呼ばれたせいか、耳に吹いた吐息のせいか。体温は上昇するばかりだし、ああきっと酒のせいもあるんだろう、俺の視界もぐらぐらしてくる。

 どうせ酒がすべてを忘れさせる。何を我慢することがあるんだろう。何かが囁く。


「…………したい、けど、今はしたくない」

「どうして?」

「酒の勢いでは、したくない」


 したくない、したくないと、俺はうわ言のように呟いていた。ゼロ距離で押し付けられる胸が辛い。ますます熱くなる身体の芯が辛い。

 傷つけたくないのか、傷つきたくないのか。もう目の前の錦野だってろくに見えていない。これは睡魔か、睡魔なのか。別の何かが俺をこうさせるのか。


「俺は、錦野が、好きで」

「うん」

「好きだから、したくて」

「うん」

「だから、したくなくて」


 もう何もわからない。錦野が好きだ。錦野と恋人になりたい。一線だって越えたいし、それ以上の景色も見てみたい。だけど酒の力で肉体関係を持ちたい訳じゃなくて、そんな酩酊状態で錦野に迫られても嬉しくない。

 俺はそんなことを口走っていた、と辛うじて覚えている。回らなくなってきた口と対照的に、錦野の相づちは落ち着き払っていた気がする。はっきりとは覚えていないけれど。


「……好きだ」


 錦野が好きだ。ああ、俺は錦野に恋をしている。そんなこっぱずかしいことを囁いて、俺はついに意識を手離そうとしている。錦野を食らわなかったわずかな理性の勝利だけが、俺の誇りだった。何を守れたのかわからない。


「あたしは飛鳥がそういう男だって知ってたから」


 ここに呼んだんだよ。

 その意味を噛み砕く前に、とうとう俺は深い眠りに落ちた。

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