最終話-日陰の勇者たち

冬の寒さというのは、玄関を出る前からじんわり伝わってくるものだ。靴箱から靴を出して履く時点で、「ああ、外に出たくない」と思ってしまう。

玄関を開けると、案の定絶望的な寒さが身体を直撃した。思わず「寒っ!」と口に出してしまう。

「朝登校してきたんだから、寒いのは分かってたでしょう」

「もちろんそうなんだけどさ、あたたかい学校生活を送っている内に寒さを忘れてしまったというか……」

「”喉元過ぎれば熱さ忘れる”的な?」

「意味としては合ってるけど、今”寒さ”の話してるから、”熱さ”のことわざ持ってこられるとピンと来ねえわ」

オレのツッコミを受けて、ヤコが笑う。心地いい、いつもの時間。

すっかり冬の装いになったヤコは、会話をしながら、顔をマフラーにうずめていた。

ネイビーのダッフルコート。暗めの赤と黒のチェックのマフラー。全体として地味な色を選択するのが、ヤコらしい。

厚着が、彼女の細い身体を強調していた。黒いストッキングが形作る細い足がスカートのひだに飲み込まれていく。ジャストサイズのダッフルコートは上半身のボディラインを隠すが、マフラーからわずかに覗く首元は、人形みたいに白くて細い。露出がなくなった分、首の細さが引き立てられていた。


学校の玄関を出ると、長い石畳が続く。オレの革靴が立てる足音と、ヤコのローファーが立てる足音が混ざり合う。少しトーンの違う音が、透き通った冬の空によく響いた。

「冬の始まりに吹く風のことを”木枯らし”っていうじゃない?」

マフラーに半分隠れた薄紅色の唇が動く。ヤコからの、他愛ない話題の提出。

「言うね」

「でもさ、春の始まりに吹く風のことを”春一番”っていうじゃん。あれ、対応取れてないの気にならない?」

「分かる。”木枯らし”を”冬一番”にするか、”春一番”を”花咲かせ”にするか、どっちかの措置を取ってほしいよな」

「”花咲かせ”はちょっとセンスなくて引くわ……」

「話に乗ってあげたのに、急にザイル切り離す感じ何なん」

彼女は笑う時に少し首の角度を上げるから、笑うとマフラーから口がはみ出してくる。冬は嫌いだけど、彼女のこの仕草を見るのは好きだ。


肩を並べて歩く。背中に添えられた手から、彼女の体温が伝わってくる。視力に難があるオレの歩行補助も、すっかり慣れた様子だ。

「あれから、もう一年だね」

しみじみと、ヤコが言った。

「そうだね。色んなことがあったなあ」

いつもの学校帰りの道。静寂の住宅街の中で、一年前のことを思い出す。ヤコは、生まれたばかりの赤ん坊みたいに、わんわん泣いていた。

いつまでも泣き止まない彼女を、いつまでも抱きしめていた。静寂の中でふたりだけが切り取られた世界。無限の時間。冷たい空気の中で、彼女の涙だけが熱かった。


あの日を堺に、ヤコは完全に処女喪失以前の様子に戻った……いや、それ以上に明るく闊達になった。

よく笑い、自由に話し、伸びやかに暮らしていた。知性にも美貌にも磨きがかかったように思う。痩せこけた頬は少しずつ健康的なハリを取り戻していき、快活な声も、凛とした眼差しも、元の彼女以上に魅力的になった。

彼女の魅力が日に日に増していくのを特等席で眺めているような気がして、オレはなんだか誇らしかった。

だけど、特等席に座るのを満喫するばかりではない、この一年間は急ピッチで大量の調整を進めなければいけない、たいへんな日々でもあった。

あの日から、オレとヤコは結婚の準備を始めた。生まれてくる子どもの育て方を相談したり、お互いの進路について話し合ったり、お互いの両親に挨拶に行ったり、無限とも思える調整事項が存在した。

だけど、少しも大変ではなかった。むしろ、喜びに満ちた仕事だった。考えが食い違う場所は、その都度話し合った。話し合っていても彼女は大いに理知的で、いつも凛とした態度を崩さない。議論はフラストレーションが溜まるどころか、発見の連続だった。お互いの意見を大いに聞き、相互理解を深め、落としどころとしての結論を出した。


それから、ヤコは高校生にして子どもを産み、母になった。足尾さんの子どもだ。自分の血は引かない子どもなのだけれど、そのことは気にならなかった。

ふたりだけで通学と育児を両立するのは不可能だったので、今は各々の実家に住んだままだ。子どもは主として、ヤコのご両親が面倒を見てくれている。高校卒業と同時にオレもヤコも家を出て、一緒に暮らしはじめることになっていた。


「お仕事、どんな感じ?」

「ん、めっちゃ楽しいよ。一冊の本って、こんなに丁寧に時間をかけて作るんだなって、発見の連続だよ」

オレは、小さな出版社に就職が決まり、卒業を待たずにその会社でアルバイトとして働き始めていた。「とにかく少しでも早く慣れておいて欲しいから」と、社長に頼み込まれて、土日や放課後を惜しみなく出版社に注ぎ込んだ。卒業までの毎日が、とても慌ただしくなってしまった。

「作家さんと喋ったりもするの?」

「するよ。めちゃくちゃ小さい会社だから、事務っぽいことも編集者っぽいことも営業っぽいことも、何でもやらされる」

「いいな〜!ねえ!虫本先生と仕事することがあったら、私も会わせて!」

「ないない。そんな大御所と仕事できるような会社じゃないから」

「何言ってるのさ。キミが成長させるんでしょ。大御所の作家と仕事できるような立派な会社にしようよ」

「どんな力があったらそうなるんだ。よっぽど悪いことでもしないと無理なのでは……?」

「もうこの際犯罪行為にも目をつむるから、私を虫本先生に会わせて!」

「少女みたいなキレイな願望を、汚い方法で成就しようとするのやめろや」

ヤコが笑う。上がった口角の先にある頬は、少し赤みがかっていた。彼女の白い肌は、寒さの影響をモロに受けるみたいだ。


この一年は、ひたすらに激動の期間だった。

ふたりでたくさんの議論をして、たくさんの決定を下した。「足尾さんのことはふたりだけの秘密にしておこう」というのもその一つだ。ヤコが産む子どもはオレの子どもであることにしよう、と決まった。生まれる子どもがその事実を知ってしまうのもあまり好ましくないだろうと思ってのことだ。

そのせいで、婚前交渉に大いなる疑問を持つヤコのご両親にめちゃくちゃ嫌な顔をされて追い出されそうになった。触角もないし貞操観念もない男だと思われる最悪のスタート地点から、ご両親の前にどうにか普通に顔を出せるようになるまで、凄まじい労力を必要とした。

就職活動も難航した。地元で名の知れた名門校の生徒であることのボーナスは、触角がないというハンデが容易に打ち消した。世間の風当たりは強く、オレの就職希望は、何社も何社もあっさり断られ続けた。

ハードなことばかりだった一年で、毎日気絶するようにベッドで眠った。

それでも、不思議と辛くはなかった。ヤコと、毎日会ってそれを共有できたから。

厳しかった一年間は、ヤコにとっても同じだった。両親を何度も必死で説得したり、周囲のからかいの声が止まらなかったり、高校生ながらに出産を経験したり、大変なことばかりだ。


”普通の”生き方をしそこねてしまったオレたちに、世間の風は冷たかった。

だけど、そんなことはどうでもいい。オレたちは身を寄せ合って生きていける。

彼女を抱きしめたいと思ったとき、この両腕で、いくらでも抱きしめることができる。それだけで、十分幸せだった。


「いいなあ、出版社。キミもいつか、”この本はオレが作った”って得意げな顔をできるわけでしょ?」

マフラーに顔をうずめたまま、ヤコの目線だけがこちらを向いた。

「今のところ雑用ばっかで、オレもそんな得意げな顔は全くできそうにないけどね。いつかできるようになるのかな?」

「なるでしょ。雑用ばっかりしてたと思ったら、急に自分の番が回ってくる。仕事なんてそういうもんだよ」

「ある日突然世界を託される、勇者みたいだね」

「そうだね。案外、ゲームの世界って間違いじゃないのかも。勇者なんだよ、みんな」

そう言いながらヤコが吐いた息は、白かった。静かな住宅街はまた冬を迎えて、より一層静かになったみたいだ。


オレたちは、自分の命という物語を必死でやり通そうとする、勇者だ。

ゲームの中の勇者みたいに、カッコいい能力はなくて、すごい武器も持っていないけれど、不格好だけれど、必死で戦うことはできる。

はたから見た時にかっこ悪いこともある。ただもがいているように見えるだけのこともある。それでも戦うしかないし、戦っている限りは、勇者なんだろう。

必死で戦いながら、一歩ずつ冒険の道を進んでいこう。


ヤコの手の熱を背中に感じながら、オレも手を彼女の背中に回した。オレが彼女を押し、彼女がオレを押す。

このまま、どこまででも歩いていけそうな気がした。



***


ダンゴムシ─学名はArmadillidium vulgare。英語では、Pill BugともRolly Pollyとも呼ばれています。


日の当たらないところを好み、日中は日陰に隠れている、日陰者です。


でも、日陰者は日陰者なりに、力強く彼らのドラマを生きていきます。これからも、ずっと。


***

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日陰で生きていくということ-ダンゴムシたちの特殊な性と愛 堀元 見 @kenhori2

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