第ニ章




「お、おとっ」


声を絞りだし、おせんは外へ飛び出した。

辺りは薄暗く、静まり返っている。


「勝負にもなるまい」


紺色髪の男が呟く。

と同時に、月明かりに照らされ、遠くにぼんやりと人影が見えた。


しなやかに歩くその姿は、次第にはっきりとなっていく。

おせんはその光景に、小さく息をひゅっと飲み込み、身体が硬直した。



灰色に輝く髪は所々赤く色づき、見えている口元からはポタポタと何かが滴り落ちている。

それを美しく白い手で拭い、舌で舐め取った。


その仕草はあまりにも妖艶で、恐ろしく、おせんは目を離せずにいた。



まるで人間ではない、物の怪の類。

あるいは、今この全てが夢なのか。


灰髪の男がこちらへ近づいて来る程に、おせんは心の中で何度も唱えた。


夢ならば、早く覚めて欲しい、と。



「こんな野郎におまえを連れて行かれたと思うと、まったく腹が立つね」


男は腕を舐めながらそう言うと、おせんの前に立ち腰を屈めた。

猫面が、目の前へ来る。

肌は本当に白く、口元は薄っすらと赤み帯びている。

紅のさされたような唇よりも、濃く、錆びた鉄の匂いがする、赤色。


血だ。


誰の血なのか、など聞くまでも無かった。



男の口端は少し上がっている。

まるでおせんに微笑みかけているようだった。


目からは静かに涙が流れ落ち、身体の震えは止まらずにいる。


男は、そんなおせんをじっと見つめていた。


震える手を伸ばし、そっと猫面に触れる。


なぜそうしたのかは分からなかった。

それでもおせんには、男が面を外してみろと訴えている気がした。



面を、少し持ち上げる。



すっと筋の通った鼻に、切れ長の目。

まるで、雪のような色の肌。

ああ、物の怪で無ければ、きっと龍神様の化身であろう。

そう思える程に、美しい顔が眼前に現れた。


やはり、目元も微笑んでいる。


「久しいね、せん」


そう言うと、その美しい顔からべろりと舌を出し、顎先から落ちそうなおせんの涙を舐めた。


「あっ」


ぶつりと糸が切れたように、おせんは気を失い灰髪の男へと倒れ込んだ。

男はその身体を軽々と肩へ担ぐと、腕組みをしながら始終を見ていた紺色髪の男へ視線を移した。


首をひょいと傾げ、勢い良く大地を蹴って長屋の屋根まで飛ぶと、その上を走り去って行く。

月が雲に隠れ、その男を消すかのように辺りが闇へ包まれた。



「後始末を」


溜め息混じりにぼそりと誰かにそう言い、紺色髪の男も足早に闇の中へ消えて行った。

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三忍拍子 瀬良ニウム @Pelargonium

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