第51話 彼と画策
燃え盛る炎が、一つの国を丸ごと飲み込んで焼き尽くしていた。焦げた臭いは、離れた場所まで強く香る。猛々しい焔が生み出す破壊の音は、耳に五月蝿いほどだ。視界いっぱいに広がる紅蓮も下品なばかりで美しくない。
ただ一点評価するならば、この炎は人の手によって生み出されたものだ、ということだけだろうか。神の創るそれには劣るとはいえ、剣を振り回すだけしか脳のない人間にしては、まずまずの出来だ。
炎に包まれた国が見下ろせる小高い丘で、アンジェラは無感動にそう思う。その隣で、微かな音がした。
見れば、誰よりも大切な彼女が力なく地面に座り込んでいた。
白い肌は煤で汚れ、美しかったはずの銀髪はどす黒い血の色に染まっている。見開いた蒼の目には煌々と踊る焔が映る。その炎は、流れるはずの涙でさえ奪い去る。
誰一人として救えなかった後悔は、彼女自身の心をも壊そうとしているのが分かった。
愚かな子、とアンジェラは他人事のように思った。
戦局が決定的になるまで、フェンを戦場に行かせなかったのは、他ならぬアンジェラ自身だ。巫女として住まう宮殿に閉じ込め、外に出さなかった。水の力は鎮めの力だ。フェン自身の意識を鎮め、眠らせることもあった。そして敏い彼女が、それに気づいていなはずがない。
だというのに彼女は、アンジェラの制止を振り切れなかった己を責める。祖国と民を、助けられなかった己を責める。責めるべきなのは傍らに立つ水神であるというのに。それが分かっていない。
愚かで、馬鹿だ。
ゆえに愛しい。
「ア……ンジェラ……」
「なあに、フェン?」
ぽつりと呟いたフェンに、アンジェラは白々しく作った笑みで応じた。腰を折って視線を合わせる。
湖面のように凪いだ蒼の瞳がアンジェラを映している。ぞくりとするほど美しい。願わくばそのままでいてほしいのだけれど。そう思ったところで、フェンがかさついた唇を動かす。
お願い、と。
「……わたしが……これから何をしても、そばに居てくれる……?」
アンジェラは目を細めた。フェンの意図は、手にとるように分かる。生き残った民を助けるというのだろう。そこに彼女自身を含めることなく。
息をつく。素早く天秤にかける。このまま彼女を連れ去って再び閉じ込めてしまうのと、彼女の言葉に従うのと、どちらが良いか。
答えが出るのにさして時間はかからなかった。自分はいつだって彼女に甘い。
「構わないけれど、二つ約束して頂戴」
「やく……そく……」
「そう。どこで何をするにせよ、己の身分を隠すこと。そして、水の力を絶対に使わないこと」
「……わ、かった」
フェンはぼんやりと頷いた。アンジェラはその頬を撫でる。
彼女はきっと、分かっていないのだろう。
全て、彼女を守るための約束だということを。
約束が破られた時に、アンジェラが何をしようとしているのかを。
それでも……その全てが分かった上で、アンジェラは己の契約者に向かって微笑んだ。
優しく頬を包み込み、額をあわせる。
「いい子ね。なら私はあんたに従うわ」
*****
結局後者を選んだ。その選択は今となっては驕りとしか思えない。
たかを括っていたのだ。
契約が続く限り、アンジェラはいつだってフェンの行動を把握している。彼女の身が本当に危険にさらされたのならば、十年前の戦の時のように自分が助けにいってやればいいのだ、と。
本当に危険にさらされれば、フェンは自身を守るために水神の力を使うだろう、と。
ところが愛しい契約者は、最後の最後まで自分のために力を振るうことはなく。
あまつさえ、自分以外の誰かのために、アンジェラとの契約を破棄した。
ならばもう、守ってやるしかないではないか。彼女が己を顧みぬというならば、代わりにアンジェラが守ってやるしか。
そう思って、大切に守ってきた彼女を、目の前の男は簡単に奪い去ってみせた。
左肩を押さえ、地に倒れ伏す男が。
アッシュ・エイデンが。
冷気と夜闇が支配する執務室で、アンジェラは奥歯を鳴らし、足を踏み出す。その下で床が凍りつく。指先に蒼の燐光が灯った。一片の情の欠片も含まないそれは、どこまでも澄んで美しく輝く。
詠唱など必要ない。彼女自身の力だ。誰が命じることなどできよう。水神たる彼女に。
そしてアンジェラは激情のまま、だが静かに手を伸ばす。アッシュに触れようとする。忌々しい男を殺すためには、たったそれだけでいい。薬湯と共に流し込んだ彼女の力は男の体の中で暴れまわっているはずだ。あと一押しすれば器から水が溢れるように、男は壊れる。
ゆえに従う必要などない。賭けに乗る必要もない。
この男が犯した罪は重い。フェンにいらぬ希望を抱かせ、惑わせ、苦しめた。彼女を守る覚悟などないままに。
だから。
「黙って俺に賭けろ! フェンを本当に助けたいというならば!」
響いた怒号に、アンジェラは手を止めた。
脳裏をよぎるのは、誰よりも大切な契約者だ。
ここ最近の彼女は、感情を顕にすることが多かった。
本気で悩んで、本気で後悔して、弱った姿を晒して見せて。はにかみながらも、幸せそうに笑ってみせて。
そのどれもが、目の前の男に起因するところで。
それは結局この十年で、アンジェラがただの一度も、フェンに与えることのできなかったもので。
「……本気であの子を幸せに出来ると思ってるの?」
アンジェラは、食いしばった歯の間から息を吐き出した。白い息がアッシュに吹きかかる。冴え冴えとした死の蒼光を纏った指先は、彼の眼前で止まっている。だというのにアッシュは、不遜に目を細める。
暖炉の炎の消えた薄暗い部屋で、紅の目が苛烈に輝く。
「当然だ」
くそったれ、と思った。思ったからこそ、アンジェラは指を鳴らす。
次の瞬間、男たち三人が同時に地面に転がり込んだ。
「……っ、は……!」
「し、しし死ぬかと思ったぜえ……!?」
「っ、何だったんだよ……! 今の……!」
三者三様に声を上げる。凍りついていた時間が動き出したかのように、部屋が一気に騒がしくなる。顔をしかめ、アンジェラは鼻を鳴らした。
「大げさなことね。もう術は解いてやったんだから、さっさと立ち上がりなさいよ」
腹立ち紛れに、アッシュの肩をもう一度蹴り飛ばした。呻き声を無視し、背を向けて執務机に向かう。散らばった紙の上に、聖夜祭への招待を促す小綺麗な書簡が広げられていた。それらを無造作に払いのけ、腰掛ける。
窓から注ぐ月明かりが遮られ、長い影を三人に落とす。
味気ない紙束に紛れて、招待状が夜気にふわりと舞って落ちる。
「で? わざわざ、この私に賭けを挑むくらいだもの。あの子を助けるための策は、ちゃんと考えてるんでしょうね?」
睥睨すれば、よろよろと立ち上がっていたゲイリーは、顔を青くして目をそらした。助けを求めるような視線を送った先はオルフェだ。床に座り込み、壁に背を預けた彼は、片眼鏡の奥で迷惑そうに目をすがめる。
「……あのさ。なんでもかんでも、俺に振るの、やめてほしいんだけど」
「だ、だってよう……」
「さっきアッシュが言ってたじゃないか。誰よりも先に反乱軍を見つける、って。潜伏してると思しき場所も、ダリル村だ、って当たりをつけた。なら後は、そこに行って、」
「それだけでは、足りない」
アッシュの低い声が響いた。三人の視線が一斉に向けられる。
彼は床に仰向けに転がっていた。額に脂汗を浮かべ、大きく息を吐き出す。左肩の辺りに赤黒い染みが滲んでいるのは見間違いではないだろう。
いい気味ね、とアンジェラはせせら笑った。
大丈夫かい、とオルフェが気遣わしげに眉を寄せる。
旦那ぁ……、とゲイリーが情けない声を上げる。
そのどれもを無視して、アッシュは考えをまとめるように目を閉じる。
「今回の件、兄上の思惑が水の国を滅ぼすことであるならば、単に反乱軍を止めるだけでは不十分だ」
「ど、どういうことでい、旦那?」
「……俺達が今回反乱軍を止められたとしても、別の機会を狙われる、ってこと?」
「そういうことだ、オルフェ」
アッシュは痛みに顔をしかめながら首肯して、ゆっくりと身を起こす。
「……いいか。俺たちに必要なのは、三つだ。兄上が今回の件の首謀者である、という証拠を確たるものにすること。水の国の民を殺させないための、大義名分を用意すること。その上で、反乱軍を兄上の介入を許さずに止めること」
「うっわ……それ本気で言ってる?」
オルフェは端正な顔立ちを引きつらせた。さすがのゲイリーも事の重大さが分かったのか、苦い顔をして黙りこくっている。アッシュはしかし、その二人に目もやらなかった。
「策ならばある。だが、もう少し手がかりが欲しい」
静かに言って、アンジェラを見上げてくる。傍観を決め込んでいた水神が柳眉を跳ね上げるが、アッシュは臆することなく言葉を続けた。
「今回の不審火の事件……幾つかは炎の神によるものだな?」
「……なんでそれを、私に訊くわけ?」
「訊いてはいない。確認だ」
いちいち癪に障る。アンジェラは顔をしかめ、手をひらりと振った。
「……詳しくは知らないわよ。あの子が実際に遭遇した炎のことしか分からないもの」
「それでいい。詳しく話してくれ」
「少なくとも、ダリル村に行く途中の森で行きあった炎と、ディール村での炎は、忌々しい炎の神によるものだわ」
「他には?」
「他ですって?」
「フェンを通して物事を見ている、と言っていただろう。あいつが見聞きした中で、俺たちの手がかりになりそうなものはなかったか?」
「……ほんっと、なんであの状況で、そういうことを覚えてるのかしら……」
「……俺は悪態を聞きたいわけではないんだが」
「うるさいわね」
いけ好かない声に、アンジェラは苛々と足を組み替えた。空気が文字通り冷ややかさを増す。彼女は爪を噛む。
「えぇえぇ、お察しの通りよ。あの子はちゃんと気づいてたわ。騎士団の記録をさかのぼって不審火のことを調べていたの。炎が目撃された場所と日時をね。その過程で、二つのことに気がついた」
「…………」
「一つ目は、あんたのご立派な推論と同じよ。水の国ばかり狙われてた爆発が意図的かもしれない、ってことね」
「二つ目は?」
「それに紛れて目撃されていた炎のことよ。件数はさほど多くはないわ。でも全てが火の国の内部で起きていた」
「そうか……」
アッシュは顔を俯けた。目の前に落ちていた聖夜祭への招待状を拾い上げ、何事か考えるように、じっと見つめる。
不意に訪れた沈黙の中、アンジェラは軽く肩をすくめた。
「存外、そっちの方は炎の神によるものかもね? あいつは契約者を探している風だったから……顕現する度に、お行儀悪く炎を垂れ流していたんじゃないの」
「そ、そうか……そんで最終的には騎士サマを選んだってぇことか」
「だまらっしゃい」
アンジェラは醜男を睨みつけた。ひい、と悲鳴を上げたゲイリーに、アンジェラは吐き捨てる。
「不愉快な事実を思い出させないで」
「で、でもよう……」
「でも、何よ?」
「騎士サマ、すげぇんじゃねぇかって思ってよ……よく分かんねぇけど、神様との契約なんざ、そう簡単に結べるもんじゃねぇんだろ? それなのに、炎の神とやらと契約できた、ってんだから……」
「ふん。あいつは自分の声が聞ければ誰でも契約者にしてしまうような下種よ」
「そ、そうなのかい? じゃあ俺でも契約でき、」
「できるわよ? お望みならね。でも、あいつとの契約なんて碌なものじゃないわ。あいつは人が死ぬ瞬間が好きなの。そのせいで代々の契約者は短命なのよ。炎の神に唆されて大勢の人間を殺して心が病むか、自ら死を選ぶかのどっちかなんだから」
「それはまた、随分えげつないね……」
アンジェラの言葉に、オルフェが顔を青くして呟く。
アッシュが口を開いたのは、その直後だった。
「……参考までに訊くが、一番最初に不審火が起きた場所はどこだ?」
オルフェとゲイリーが顔を見合わせる。質問の意図が見えないのは、アンジェラも同じだ。さりとて、それを追求するのも億劫で、投げやりに答えだけを返してやる。
「火の国の方だけれど」
それが、どうしたというのか。アンジェラは呆れながら思う。だが、アッシュは何事か確信を得たようだった。
やはりな。そう呟いて、彼は一つ頷く。顔を上げる。部屋を見渡す。
そしてアンジェラを、オルフェを、ゲイリーを見つめて、口を開いた。
静かに、だが力強く。
「俺に、考えがある。協力してくれ」
その手の中で、聖夜祭への招待状が音を立てて握られた。
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