第二十八話 平助、対決する

 グラビアでしか見たことがなかった、大きな胸。

 肌は月の光で白く見え、髪は拘束を解かれて、風になびく。

 細い手足が、スラリと伸びて。


 やはり綺麗で、清らかで。視線は、そらす前に絡め取られる。

 しかし目はそらさない。真っ直ぐに、行く。自分の意志だ。見据えている瞳も、サファイアのように青い。


 十五センチほどの距離で、僕の足は止まった。もう目の前に、佐久場さんがいる。さっきから心臓がうるさい。汗がやたらと流れる。頼む。落ち着いてくれ。


「深呼吸」

 ささやくような声。だけど、不思議とよく聞こえて。そのまま呼吸を繰り返す。大きく吸って、腹から吐き出す。繰り返す。やがて、心は定まった。佐久場さんの手を、僕の両手で掴む。しなやかな肌。しかし、今すべきことは。


「佐久場さん」

 声は、どうにか出せた。

「はい」

 今は返事の声さえも危うい。足を踏ん張れ。呼吸を保て。平常心は難しいけど。手を握り潰しかねないけど。


「僕は。貴女と居たいです。つがいとか、好きだ嫌いだとかは。ハッキリしてないけど。でも、僕は貴女に惹かれて」

 言葉はおかしくないか。伝えようとして、かえって難しくなっていないか。気を配る。だけど、そんな考えは、いつの間にか消えていて。


「最初は、びっくりして。でも、真面目な方で。色々と話をして。最初は自分の欲もあったけど、力になりたいと思わされて」

 ああ。この間と一緒だ。ただの羅列だ。だけど。言わないと理由にならない。

「そんな貴女にお願いされたから。佐久場澄子さんに、お願いされたから。僕は貴女の側にいたいのです」


 ……言えた。僕は、僕の望みを。言い切った。

「以上が先日の問い、その答えです。貴女は察していたかもしれませんが、どうしても言いたかった」

 大きく息を吐いて、言葉を締める。そこにカッコよさとかは関係ない。言いたかったのだ。


 そうして僕は、ようやく佐久場さんの目を見て。そこに涙を見つけ。

 次の瞬間、胸に衝撃を味わった。

「ようやく。言えましたね?」

 僕の胸元から。上目遣いで問いかける彼女の顔は。ルビーのように、真っ赤に染まっていた。ちょっと下に意識をやれば、そこにはおっぱいの感触がして。思わず興奮しかけてしまう。僕は抱擁を、ためらってしまった。


「ふふっ」

 そんな気配を察したのか、佐久場さんはパッと離れて。

「外じゃ、正気だと恥ずかしいですよね? 後程にします」

 今度はサキュバスの時のように。陰のある微笑みを見せてくれた。


 公園から先、僕等は手を繋いで。夜道を帰っていった。恋人繋ぎはしてないけれど。佐久場さんの手は、やっぱり暖かくて。もし僕がだったら、とっくに何度も。達していたのだろう。


 ともあれ、僕は無事にエスコートを終えた訳だけど。

「どういうことです?」

「私だって存じませんよ」

 その家の前には、恋敵が立っていた。かつて二度会った時の姿ではなく、男性としての姿で。恋敵として出会うのは、初めてだった。


「この姿だと、はじめましてですかね。松本平助さん」

 翼ちゃん、否。伊那村翼が、口を開いた。黒のスーツに、白のワイシャツ。ネクタイまで着けていて。まだ中学生なのに、社交界でも輝きそうだ。


「そう、ですね。過去二度は、あまりにも訳がわからなかった」

 会話のボールを返す。こういう時に一番マズいのは、取り乱すことだ。佐久場さんを僕の後ろへ隠しつつ、彼を睨みつけた。


「やだなあ。そんな目、しないでくださいよ。最初のは偶然ですよ。運命の、いたずらです。通りすがりの、優しいヒトでしたよ。あの時点では」

 翼くんは、肩をすくめて笑った。彼自身も、笑うしかないのだろう。


「だけど、いくつかの事実を知って。ボクは決断しました。貴方を澄姉から引き剥がさないと、ボクはボクを満たせない」

 返事を待たずに、彼は言葉を紡ぐ。有無を言わせる気がないのだ。それだけの気迫が、彼にはあった。


「率直に言いますね。松本平助さん、澄姉から手を引いて下さい」

 翼くんが、淡々と言う。僕の顔が、反射的に険しくなった。

「貴方では、その人には釣り合わない。澄姉が望んでも、ボクは認めない」

「君の許可など、求めていません。佐久場さんに望まれて、僕が応えたんです。そこには、承認なんて要らないはずです」


 とっくに腹は決まっていたが、先程のやり取りが僕に力をくれた。

 僕の口から。かつてないほど、強い言葉が飛び出していく。互いに歩んで。僕達の距離が、近付いていく。来るなら来い。負けるものか。


「なんですか。お金が目的ですか? なら差し上げましょう。あんなボロアパート、すぐ抜け出せますよ」

 一歩も引かない僕を恐れてか、翼くんが説得の手段を切り替える。確かにそれは、良いアプローチだ。素晴らしい。


 だが、無意味だ。僕があのアパートにいるのは、なにも家賃が安いからだけではない。あそこに、僕の人生の全てがあるからだ。母さんと二人で生きてきた、その思い出が詰まっているからだ。君の発言は、僕への否定行為でしかない。


「ナメるなよ」

 怒りがこみ上げ、言葉へ変わる。普段なら絶対に出さない。既に身体一つ分の距離だというのに、更に一歩詰めた。翼くんは、佐久場さんと同じぐらいの身長だ。当然、上から見下ろす形になる。


「金を持っているからなんだ。佐久場さんと似た種族だからなんだ。そんなもので、僕はどかないぞ。君がどくんだ」

 またしても強い言葉が出た。確かに僕は怒っている。しかしこのままだと、制御できるか分からない。

 母さんの時は、母親だから手を上げなかった。雅紀の時は、親友だからこその行為だった。だけど、目の前の少年とは。


「あはは。嫌ですねえ。本気マジになっちゃって」

 沸点の寸前、ケラケラと笑う声が聞こえた。その主は、僕の目の前に居て。平然と、笑っていた。

「まあ落ち着いてくださいよ、セ・ン・パ・イ」

 翼くんが、僕から間合いを取っていく。嘲るように、からかうように。開いた場所に、いつぞやの坊主頭が分け入った。こちらに頭を下げている。


 瞬間、血の気が引いた。

 もしも僕が、怒りに身を任せていたら。間違いなく最悪の展開になっていただろう。だが、それは起きなかった。何故?


「翼くん」

 原因は、僕の後ろにいた。恐る恐る振り向けば、佐久場さんの顔が、夜叉のそれになっていた。

「ここに来るのは構いません。私にアプローチをするのも、許します。ですが、彼を侮辱するのはやめて下さい。私の家に、貴方の住むスペースはございません!」

 そして夜叉の顔のまま、彼女は言い捨てた。


「や、やだなあ。澄姉。そこまでムキにならなくても」

「翼くん」

 必死の抗議を試みる翼くんに、佐久場さんから追撃が飛ぶ。

「来るなら、正々堂々となさい。如何に気持ちがあっても、そのような言動では誰も信じません。貴方には、それができるはずです!」

 毅然とした一撃。再び輪から抜けていたはずの丸坊主でさえ、額に汗をかいている。


 翼くんは、膝から下を震わせていた。佐久場さんが普段見せない態度に、動揺しているのか。

「あは、は……」

 よろめき、フラつき。見かねた丸坊主に支えられ、通せんぼの位置から外れていく。


「お二方、ご迷惑をおかけしました」

 丸坊主は翼くんの口に猿轡を噛ませると、そのまま担ぎ上げた。そして、佐久場さんに近寄る。

「同居と監視の件は、翼様に取り下げさせます故。なにとぞ、この件は内密に」

 僕にも聞こえるような小声で告げて、そのまま立ち去って行く。近くに車を置いていたのか、数分と経たずにエンジン音がした。


「おわ、った?」

 エンジン音が遠のいた後、脱力感で僕はへたり込んだ。自分で思う以上に、気を張っていたらしい。

「終わりましたね」

 佐久場さんも、心なしか胸を撫で下ろしているようだった。


「もっとゴネられるかと思いましたよ」

 安心のあまり、ついつい本音が飛び出てしまう。手を出したらマズいことになっていただろうし、長引かせればゴネ得になっていた恐れがあった。僕達にとって、難しい交渉だったのだ。


 しかし、覚悟を決めてかかったのが良かった。雅紀との喧嘩でも、言われたっけ。誰かの反感を買っても、突き進む覚悟はあるかと。

 もしもあの時、喧嘩から逃げていたら。そう思うと、ゾッとする。同時に、あの二人への感謝が浮かんだ。本当に、頭を下げても下げ切れない。


「さあ。いつまでも夜風に当たっていると、風邪を引いてしまいます」

 いつの間にか佐久場さんが、家のドアを開けていた。しかも、手招きで誘っているではないか。

「いや、今日は送って行くだけで」

 当然、僕は抵抗する。契約履行以外で、上がっていいのか分からない。


「上がってもいいんですよ。契約主が言ってるんですから」

 立ち止まっていると、右腕を掴まれて。

「ちょ、ちょっとー!?」

 そのまま一気に、家まで引きずり込まれた。


「さあ、続きと参りましょうか。春休みですし、ね?」

 最後に見た彼女の微笑み。それはサキュバスのように妖しく、子どものように楽しみに溢れていた。

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