第4話 『アリス』



 「ふぃー。ここまで来りゃあ大丈夫だろ」

 

 誰もいない道を振り返り、少女は緩やかに足を止めた。

 

 靴屋からここまで駆けた足は、大した距離ではないはずなのにもう棒のようだ。息もかなり上がっており、額や背中にはじわりと汗が滲んできている。

 普段の体を意識していたばかりに、この結果はなかなかのショッキングだった。

 

 「やっぱ色々と不便だわなーこの体。ああっ、髪がうっとおしい!」

 

 女性であるなら誰もが羨むサラサラの美しいブロンドも、彼女にすれば無用の長物に過ぎない。走っている時から絡み付いてくる長髪を乱暴に振り払い、少女は新品の靴をカツカツと鳴らしながらさらに道を進む。

 

 「でもまあ、靴を手に入れられたのは運が良いぜ。正直、痛くて歩いてられなかったし。あの兄ちゃんにはわりぃことしたな、しょうがねえけど」

 

 警察との接点がある、それが少女を逃走の道に至らしめた理由である。

 この世界に誕生したばかりの少女には、もちろん犯罪歴など無い。むしろ、非力な存在となった今は警察に保護してもらうのが最善であるはずだが、そうしたくない心の働きが、こうして当ても無く放浪する現況を作り出していた。

 

 「やっぱ警察は苦手なんだよなー。そうやって今まで生きてきたんだし」

 

 人事のようにぼやきながら、とにかく歩を続ける少女。気がつけば、先の靴屋周辺に漂う寂寥感は薄れ、なにやら妖しい雰囲気の一角に行き着いていた。

 馬車が二台ほど横に並べて通れそうな広い道に、人は疎ら。キャミソールとペチコートというふしだらな服装の女性たちが欠伸混じりに、通りにズラリと並ぶ施設の前を清掃している。


 そこにあるのは商店街に見た質素な造りではなく、バロック様式の絢爛な建物群。海外旅行の経験が無い少女からして、そこはまさしく初めての光景だった。

 

 しかし、なぜだか少女はなんとなくその場所の意義を理解できた。ふと、頭上を仰ぐ。高い建物の三階の窓から身を乗り出す下着姿の一組の男女が、ベランダの柵を支えにして濃厚な口付けを交わしていた。


 やはり、ここはそういう所なのだろう。


 「おーおー朝っぱらからお盛んな――」

 「子どもは見ちゃダメぇ!」

 「うおあっ?!」

 

 男と女の営みを半笑いで眺めていた少女の視界が一瞬にして闇に閉ざされる。後ろから両目を押さえられたのだと、そう判断するのに時間は掛からなかった。遮二無二もがいて拘束を解き、すぐに距離を開けて振り返る。

 

 丸い青の帽子を浅く被る少女がそこにいた。年齢は十代半ばといったところだろうか、膝までの袖付きワンピースに帽子と同じ色のベストを羽織り、足は黒のストッキングにショートブーツという出で立ち。あどけない顔立ちにさらりと紫がかったセミロングの黒髪が流れる、非常に可愛らしい女の子であった。

 

 「なんだよ、誰だお前は」

 「ご、ごめんね。急に後ろから抱き着いて、ビックリしちゃったよね?」

 

 苛立ちをそのまま言葉にすると、黒髪の少女はおじけた様子で謝ってくる。そして膝を折り、ブロンドの少女と目線が合うところまで屈んだ。

 

 「だけどね、ここはあなたのような子どもが来る所じゃないんだ。どうしたの? お母さんとはぐれちゃった?」

 「っせえな、そんなことお前には関係無えだろ。ってか、子どもって意味ならお前も同じだろうが。さっさとこっから離れるんだな、トラブルに巻き込まれる前に」

 「そ、そうだよね。そしたらお姉ちゃんと一緒に行こ? お母さんもきっと心配しているはずだし、ね?」

 「おい、引っ張んな。別に俺は迷子でもなんでもねーよ! はーなーせーっ!」

 「もう、ワガママ言わないのっ。ほら暴れないで、お姉ちゃんの言うこと聞いて!」

 「ちょいとちょいと、そこのおふたりさーん」

 

 道路のど真ん中で引っ張り合いをしている2人に、他所から声が掛かった。


 少女と少女の小さな悶着は、されど静穏な町並みによく徹る。店先を清掃していた女性たちも、いちゃついていた三階のカップルも動きを止め、2人を見つめていた。その中、浅黄色の蝶が描かれた黒の和服を身に纏う獣の耳を頭に生やした美女が、和やかな顔つきで衆人の中から姿を現す。

 

 「元気が良いのは結構なことやけど、時と場所は選ばなアカンなぁ。まだおネンネのお客さんも多いさかい、そない騒がれたらかないませんよって」

 「す、すみません……」

 「素直で結構、が、謝るのなら始めからせん事。そもそもなんや自分ら、こんなトコに。ここは子どもが来るトコちゃいますよ? そ・れ・と・も……」

 

 獣耳の女性は2人の間に顔を寄せ、同時に声色と顔色を変える。

 

 「ここに働きに来たん? まあ、お嬢ちゃんたちは揃って上玉やし、頑張ってお勉強すれば上に行けるやろうなぁ。……けど、軽はずみな思い付きなら止めとき。火傷じゃすみませんよって」

 「…………っ!」

 

 肌が触れ合うほどに近い女性の微笑みに、黒髪の少女は表情を強張らせた。

 

 「すっ、すみませんでした! もう帰ります! ほら行こおっ!」

 「うわっ?! ちょ、待ってってぇ!」

 

 黒髪の少女は慌てて場から逃げ出した。手を強く握られたままのブロンドの少女は成す術なく、その足取りに従う羽目になる。

 クスクスと小馬鹿にする笑い声は、女性たちの姿が見えなくなるまで終わることは無かった。

 

 


 「はぁー、怖かったぁ。やっぱり考えなしに行っちゃダメだよね」

 

 息が続くまで走り続け、ようやく人の往来が多くなってきたところで黒髪の少女は足を止めた。建物の密集地にポカンと開いた駅前の小さな広場、そこにある噴水の前で乱れた呼吸を整えつつ、彼女は帽子から流れる前髪を手直ししている。

 

 「…………おい」

 「あ、ごめんね。ずっと握ったままだったね。痛かった?」

 「別に痛くねーよ。ただ、お前に引っ張り回されて疲れただけだ」

 

 黒髪の少女の手を乱暴に振り払い、ブロンドの少女は愚痴っぽく言った。

 

 「その、お前っていうの良くないよ。さっきからずっと思ってたけど、女の子なんだし。それにわたしにはちゃんと名前があるんだから。あ、そっか! 自己紹介がまだだったもんね。それじゃあなんて呼べばいいか分かんないよね、ごめんね」

 

 1人で勝手に興奮する黒髪の少女は、それから自身の胸に手を当てる。

 

 「わたしはリリィ。リリィ=フレアミント。よろしくね」

 「そーですか。ごてーねーにどーも」

 「……こっちが名乗ったんだから、そっちも教えてくれてもいいと思うんだけどなぁ……」

 「俺の名前ぇ? なまえ、ねぇ……」

 

 少女は腕を組んで悩み始め、噴水縁の石垣に座り、さらに「う~ん」と唸った。

 

 「……どうしたの? そんなに悩んで」

 「ん? ああ、そういえば名前どうしようかな、ってな」

 「どういうこと? 自分の名前が分からないの? はっ、もしかして記憶が――」

 「いやいや、喪失とかそんなんじゃねえよ。あるっちゃあるんだが、それは今の俺にゃあ相応しくねえモンだからな。そっかー、名前のことは考えてなかったなー」

 「……? よく意味が分かんない。えっと、お母さんはいるの? 両親はどこに住んでるの?」

 「いない」

 「ええっ?! いないの?! 名前も分かんなくてしかも親もいないって、それってどういう――」

 「やっほー。リリィ、お待たせー」

 

 その時、リリィの言葉を遮るように1人の少女が現れる。彼女とよく似た面差しに同じ紫がかった黒髪。カッターシャツに青のジャケットを合わせ、短いチェック柄のスカートから伸びる長い足を花の刺繍が入ったニーソックスで飾る服装。そんな人物が2人の前に現れ、手に提げている大きな茶色のトランクケースを地面に置いた。

 

 「ようやく荷物の受け取りが出来たわ。やっぱ乗客じゃないと後に回されるわねー、人も多いからすっごい時間が掛かっちゃっ……どうしたのそんなに慌てて」

 「お姉ちゃん大変! 名前が分からない上に親もいないの! どうしよう?!」

 「どうしようって私が今どうしよう状態なんだけど。なに? 何の話?」

 

 会うなり飛びついてくるリリィに困惑する、「お姉ちゃん」と呼ばれた少女。

 動顚するリリィをなんとか宥め、そして詳しく話を聞いた彼女は「はあ~」と長い溜息を零した。

 

 「ア・ン・タ・ねえ! まぁた厄介事を持ってきて! 前もそうだったじゃない、道端で捨てられた子猫を拾ってきて! もう忘れたの?!」

 「だ、だって、可哀想だったんだもん……」

 「今の私たちに他へ気を回す余裕なんて無いでしょ! それがなに? 今度は子どもぉ?! 何回おんなじこと繰り返す気よアンタは!」

 「う、うぅ~……」

 

 姉に激しく咎められ、リリィは見る見る縮こまっていく。救いを求めるように涙目を動かし、そして呆れ顔を浮かべる少女に捕捉した時、彼女は表情を明るくした。

 

 「そ、そうだ! この人のこと紹介するね! わたしのお姉ちゃんでリオナっていうの!」

 「ちょっと話はまだ……ああっ、もぉ!」

 

 分かりやすい話題逸らしだ。だが、紹介されて、それに応えなければ不義理であることを彼女は理解しているのだろう。リオナは渋々、リリィへの舌鋒を抑え、少女に不機嫌な顔を向けた。

 

 「……どうも、リオナ=フレアミントよ。えっと、それであなた、聞いたところによると親がいないらしいけど……じゃあ、どこで暮らしてるの? 家は?」

 「ねえ。名前も親も家も、なんにもねーよ」

 「ほうほう、なるほど。よく分かったわ。リリィ、こっちに来なさい」

 「ひえっ」

 

 怯えるリリィを引っ張り、リオナは少女から離れていく。十分の距離を確保すると、そこで振り返り、リリィを睨み付けた。

 

 「あの子を元いた場所に帰してきなさい」

 「そんなぁ、捨て猫じゃないんだから。可哀想だよ、なんとかしてあげなきゃ」

 「お節介も大概にしときなさいよ。名前も親も家も無いって言ってるヤツなんかどうするっての? アンタ、あんなのどこで拾ってきたのよ?」

 「それは……と、とにかくこのままじゃ危険だよ、あんなちっちゃい子ひとりなんて。せめて、警察のところに連れて行ってあげるくらいしてもいいでしょ?」

 「…………んぅ、ったく……」

 

 込み上げてくるモノをすんでのところで呑み込んだ様子のリオナは、踵を返して再び少女の前に戻る。

 

 「それじゃあ、お姉ちゃんたちと一緒に警察に行こっか? そこに行けばね、優しい人たちがなんとかしてくれるからね?」

 「えー? ケーサツー? 行きたくねーなー」

 「……でも、さ。お姉ちゃんたちじゃ正直、どうすることも出来ないから。ね?」

 「別になんとかしろと頼んだ覚えはねーぞ」

 「そっかそっか。よーしリリィ、このクソガキを元の場所に放り捨ててきなさい」

 「お姉ちゃんっ」

 

 爽やかな笑顔で物騒な台詞を吐くリオナに、堪らずリリィの声も強くなる。

 

 「なによこのふてぶてしいガキ! こいつ自分の立場が分かってないの?! こっちは親切心から助けてやろうとしてんのに! ちょっとお目目がクリっとしてて鼻が高くて唇がぷるんとしててほっぺたが突いてみたいくらい柔らかそうで信じられないくらい可愛いからってチョーシに乗るんじゃないわよ!」

 「お姉ちゃん褒めてる褒めてるっ」

 「嫌々だろ? こっちもな、ワケ分かんねえままここに連れてこられてムシャクシャしてんだ。その上、行きたくもねえ警察に連れていくだと? 冗談じゃねえ」

 「あーあーそーですか! それは余計なお世話でしたね、どうもすみませんでした! それなら私たちはここらで失礼させていただきます! ほら行くよリリィ!」

 「待って待って! お姉ちゃん落ち着いて!」

 

 トランクケースを持って歩き出そうとするリオナを、リリィは彼女の体に縋り付いて止める。

 「ちっ」と大きく舌打し、リオナは愚かな妹を見下ろした。

 

 「いい加減にしな! あいつが余計な世話だって言ってんのよ?! これ以上、何かしてやる義理なんて無いわ!」

 「そうだけどっ! でも、強がりかもしれない! だって、あの子……あの頃のわたしたちにそっくり……」

 「……っ、」

 

 叱声の予備運動をしていたリオナの口は、しかし、リリィの反論によって発する言葉を失った。

 リリィは、急速に抵抗力を失っていくリオナの体を放し、少女に顔を向けた。

 

 「あなたはこれからどうするの? 行く所、あるの?」

 「…………さぁな」

 「お姉ちゃん」

 

 そして、リリィはリオナに向き直る。

 

 「あの子には帰る場所も親もいない。行く所も無い。同じだよ、わたしたちと」

 「……………………っ、っ、はあぁぁ~~~~~~……」

 

 悔しそうに歯を食いしばり、けれど諦めたようにリオナはがくりと両肩を落とした。そのまま地面を見詰めること数秒、徐にぽつりと吐き出す。


 「……分かったわよ」

 「……ありがとう、お姉ちゃん」

 「ただし、深入りはしない。それだけは約束して」

 「うん」

 

 首肯するリリィにまた一つ嘆息して、リオナは背筋を戻した。

 

 「とにかく、ここで長話もなんだから宿に向かいましょう。リリィ、探してきてくれたのよね?」

 「うん。言われたとおり、安くて良いところをね」

 「上出来。それじゃあ……アンタ」

 

 リオナは少女に呼びかけて、むず痒そうに頭を掻いた。

 

 「ああ、もうなんかじれったいわね。名前が無いってのは」

 「そうだね。少しの間だけど一緒にいるんだから、ちゃんと呼び方を決めた方がいいかも」

 「ふむ……」

 

 リリィの意見を受けて少女は考える。まだ問題らしい問題に直面していないから、名前という価値をそれほど深く考えてはいなかった。だが、この体で生きていくのなら、早いうちに決めておくのが賢明か。

 そう決心した後の少女は早かった。

 

 「アリス、かな」


 「え?」と聞き返すリリィに、少女――アリスは、その美しい顔に暗い笑みを落とす。

 

 「魔法が存在するような不思議の国にやってきた金髪の女の子の名前なんて『アリス』以外にねーだろ。とりあえず今はそれにしとく」

 「いいの? そんな簡単に決めて……」

 「いーんだよ。気色悪ぃが仕方ねえ。これからはアリスだ。よろしくな」

 

 そしてアリスはリオナへと視線を動かした。

 リオナは薄めた目でアリスを見つめ返し、親指を立てた手を後方に振るった。


 「それじゃあアリス。行くところ無いんでしょ? メシくらいは奢ってやるからついてきなさい」

 「おうよ。世話になるぜ」

 「優しい妹に感謝することね」

 

 皮肉混じりに言い、リオナはそそくさと歩き出す。その背中をリリィが追いかけ、少し遅れてアリスが後に続いた。

 


 3人の姿はやがて、人いきれの中に消えていった。

 

 


 



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