第2話 消える人々(2)

朝の礼拝後、講堂から戻ってくると、ほとんどの生徒が教室に居残っていた。一限目は生物で、その日は生物室で授業を受ける予定になっているというのに、誰も移動する気配がない。


「今日の生物の授業、生物室だよ。はやくいかないと遅刻扱いになるって」


 空はたまりかねて、おしゃべりに興じる生徒たちの輪に割って入った。


「知ってるって」


「知ってるなら、もう行かないと。松戸先生、遅れるとうるさいよ」


「わかってる。でも、私たち今日の生物はボイコットすることにした」


「ボイコットって……」


「生物室での授業なんて受けたくないもん。空、生物室には怪談の一つである骨格標本があるんだよ。そんな場所で授業を受けたら、呪われそうじゃない?」


 彼女たちは本気で呪い殺されるのを恐れているわけではなかった。信じているわけではないが、何となく気持ちが悪いという、この“何となく”がやっかいで、どんな理屈を並びたてて説得しても、彼女たちは頑として生物室へ行こうとはしないだろう。事実、怪談に見立てて三人の人間が死んでいる以上、彼女たちはどんな説明にも聞く耳もたないのは確実だ。


「好きにすれば」


 空はひとり生物室へとむかった。


 生物室の前には、陸を含めたわずか数人の男子生徒がたむろしていた。見る限り、女子生徒はひとりもいなかった。


「まさか今日の授業受けるの、私たちだけってこと?」


「らしいな。骨格標本の殺人鬼に殺されるかもしれないってんだろ? 俺ら、そんなこと気にしねえけどな」


 陸たちは声高らかに笑った。


「松戸先生は?」


「まだ」


「珍しいね、松戸先生が遅れるなんて」


 空は生物室のドアに手をかけた。鍵のかかったドアノブは手の中でじっと動かなかった。鍵を持った松戸が今もやってくるかと、空は職員室の方に顔を向けた。


 八角の間を貫いてまっすぐのびる廊下の先に職員室がある。見通しのいい廊下だから職員室を出た松戸の姿を見落とすわけはなかった。しかし、空が見たのは、八角の間を抜け、生物室にむかってくる白い影だった。


 空はとっさに陸の背後に身を隠した。


「何だよ」


「ゆ、幽霊、はっかく……」


「何?」


「幽霊、八角の間……」


「何言ってんだ? 長谷部だって」


 恐る恐る陸の背中から顔を出して八角の間を見やると、生物室にむかって理科主任の長谷部が歩いてくるところだった。八角の間で幽霊を見たという話を聞いたせいで白衣姿の長谷部が幽霊に見えてしまったらしい。


「松戸先生は今日は休みだ。教室に戻って自習しとけ」


 長谷部がそう言った途端、野太い歓声があがった。長谷部が「静かにだぞ」とたしなめた。加えて「教室で」と何度も繰り返し強調しつつ、長谷部は自分の授業があるのでと新校舎へと引き返していった。


「『今日は』って、松戸の奴、しばらく学園に来れないんじゃね?」


「どういう意味?」


「ネット、チェックしてみなって」


 スマホを取り出し、空は陸に言われるがまま、記事を検索した。週刊誌のオンライン版には「聖ヶ丘学園裏口入学の闇」というヘッドラインが踊っていた。 


 裏口入学の噂はかねてから囁かれていた。幼稚舎から大学までエスカレーター式に進学できる学園に入学するチャンスは幼稚舎と中等部の入試の二回しかない。幼稚舎の募集は学園にゆかりのある関係者に限られていて、一般に広く門戸が開放されるのは中等部の入試時だけだった。この入試をめぐって、入試問題漏えい、金銭の受け渡しが噂されていた。二、三年前には週刊誌沙汰になり、一時期、マスコミ関係者が学園の外をうろついていた。しかし、噂の域を出ず、結局、疑惑は煙のように立ち消えてしまった。


「裏口入学を斡旋していた教師Mってあるだろ。理数系を教えているって書かれてあるから多分松戸のことだ。他にMのイニシャルの先生はいないし」


 再び持ち上がった裏口入学の記事には連絡方法や金額などの情報までもが細かく記されてあった。


「週刊誌の記事だよ。簡単には信じられないな」


 怪訝な顔をしてみせる空にむかって陸は肩をすくめてみせたかと思うと、くるりと背中を向け、廊下を走り出した。


「どこいくの? 教室に戻るんじゃないの?」


「自習たって、やることねえし、マカベに行ってくるわ」


 マカベとは“真壁ベーカリー”という名のパン屋である。駅前にある店内はいつでも焼きたてのパンの香ばしい匂いで満ちている。学園生御用達のパン屋なのだ。


「マカベにいくなら、コロッケパン買ってきて!」


 空は陸の背中に向かって叫んだ。陸はスピードは落とさず、わかったと手をあげてみせた。


 陸が走り去ると、たちまち喧騒が引き潮のように新校舎の奥へと遠ざかっていった。


 空は教室には戻らず、新校舎二階にある自習室を目指した。教室に戻っても、授業をボイコットした生徒たちのおしゃべりに付き合わされるだけだからだ。


 ただでさえ薄暗い八角の間が梅雨時とあってますます暗さを増している。湿気を吸った木造の建物は黴臭いようなにおいを発していた。


 幽霊など出るはずもないと自らに言い聞かせながら、空は顔を伏せ、そそくさと八角の間を通り過ぎた。


 新校舎の階段をあがり、二階をめざす。


 授業中とあって、校舎内は水を打ったように静かだ。居並ぶ教室のドアの向こうには何十人という生徒がいるのに人の気配がまったく感じられない。まるでゴーストタウンに迷いこんだかのようだ。


 生徒たちも授業に集中しているだろうから、廊下を出歩いている空の存在には気づいていないだろう。旧校舎の教室のドアには目線の高さに窓ガラスがはめこまれているが、新校舎の教室のドアには窓はない。壁一面を隔てて、空は他の生徒たちとは別の世界にいる気分だった。


 この状況で襲われたら――ふとそんな不安が胸をよぎった。誰にも気づいてもらえず、手遅れになるかもしれない。現に七美は襲われた。


 ふと、背後から人が迫ってきたような気がして、空は足を速めた。


 わずか数メートルの距離を息せき切ってかけこんできた空に気づいて、自習室にいた数人の生徒が顔をあげた。しかし、その目は虚ろで空を見てはいなかった。まるで風でも入り込んできたかのように空には無関心で、彼らはすぐまた教科書の海に潜っていってしまった。


 一般教室と広さは同じ自習室だが、勉強により集中できるようにと席は一人一人パーテーションで仕切られている。高等部二年からは授業は選択制になるので、飛び石の授業の合間に勉強できるようにと用意されたが、利用者はあまりいない。ほとんどはコンピュータのある図書室で勉強するか、勉強しないで食堂で友達と話し込むかするからだ。試験前にはさすがに利用者が増える。この日は、高等部三年と思われる生徒がちらほら見えた。


 席につくなり、空は我知らずのうちに大きなため息をもらしていた。得体のしれないものがうごめいている海面から引き揚げられた遭難者さながらに、机の縁に強くしがみついた指先が白くなっている。心なしか、体が震えていた。 


 恐怖心が収まったところで教科書を開いても、どうしても考えは事件の方へと向いていく。教室に戻れば嫌でも怪談の話と七美や聖歌の自殺の噂話が耳に入るからと、自習室へと避難してきたのに、事件のことが頭から離れない。


 事件当時、学園内には千人近くの人間がいた。にもかかわらず、事件の目撃者はいない。篤史は八角の間に現れた幽霊が犯人だというが、事件との関連性が証明されたわけではない。


 津田沼校長を殺害し、聖歌を呼び出した時には空のスマホを用いたことからも犯人はどうやら学園関係者だと推測されるが、七美が襲われた時、生徒と教師は教室に、職員も持ち場を離れていない。つまり、アリバイがあるのだ。


 アリバイがない人間は、ごく少数の人間だけだった。保健室にいた佳苗、校長室にいた富岡校長、事務室にいた玲子、給湯室にいた幸子、旧校舎から職員室へとむかっていた市川。アリバイがないというより、証明する第三者がいないといったほうがいい。逆に、アリバイを証明する第三者がいながら、居所がはっきりしない人物が二人いる。希美と松戸だ。互いに職員室にいたと言っているが、職員室前で出くわした市川と幸子は二人の存在に気がつかなかったと言っている。


 仮に、アリバイがしっかりしている人物のほうが怪しいということはないのか、と空は考えなおした。わざわざ授業中を狙って犯行に及んだのは、目撃者される恐れがないというより、教室にいたというアリバイが作れるからではないのか。しかし、それならどうやって七美を襲うことができたのか……。


 考えれば考えるほど、伸びてくる思考の枝葉にがんじがらめになる。空は頭を抱え込んで声のするため息をもらした。


 しまったと顔をあげた視線の先に光るものがあった。


 パーテーションと机の間の隙間に何かが挟まっている。爪の先でほじくり出してみると、それは石のついたピアスだった。ダイヤモンドだろうか、放つ光が透明感を帯びている。


 イヤリングより外れにくいはずのピアスだが、キャッチと言われる留め具が緩いと外れてしまうものらしい。キャッチは見当たらなかった。どこか別の場所でキャッチが外れ、ピアスは自習室の机の上に落ちてしまったというところだろうか。


 落とし物として届けておこうと、空はピアスをティッシュで丁寧にくるみ、ポケットにしまった。



 その夜のニュースで、空たちは松戸が津田沼校長殺害容疑の重要参考人として指名手配されたことを知った。

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