せこ
青黄桜は教室の隅でスマートフォンを睨む。
教室の中は話し声や笑い声で満ちている。その中には鹿村キボウ――ここでは別の名前を使っている――のものも含まれている。
よくそんな馬鹿笑いに混ざれるな。桜は軽蔑よりはむしろ、尊敬に近い嫌悪を覚える。鹿村が普段どういう顔をしているか。あれも所詮はお偉いさんの仮面を被っているだけなのだろうが、それでも彼女がどういう人間かくらいは察しがつく。少なくとも教室の中央で楽しげに笑っているような人間性は持ち合わせていない。
自身の人格すらねじ曲げてその場に適応する。桜には決してできないし、やりたくもない。だが鹿村は平気で粛々とこなす。化け物だ。内も外も。
その鹿村に言い渡された「せこブリーダー」との接触。河童となって消滅した男のスマートフォンから、桜のスマートフォンに「せこブリーダー」の連絡先は昨日のうちに移行ずみだ。
昨日の時点で『せこがほしい』とメッセージを送ったが、返信はなし。今朝確認してみると、既読にすらなっていない。この連絡先は死んでいるのではないかと思ったが、念のため鹿村の監視のもともう一度メッセージを送った。
二件のメッセージは今も未読のまま。鹿村にはメッセージを送る際には必ず自分の確認を受けるように言われているが、とうの鹿村は現在絶賛馬鹿笑いの最中だ。
どうせ既読にすらならないのだから。桜はフリック入力で文字を打ち始める。
『せこって皿だろ』
入力欄にできた文章を見て、これを送信するのは危ないのではないかと思い直す。消すか、と入力欄をもう一度開こうとしたタイミングで、クラスメートの誰かが桜の座っている椅子に身体をぶつける。
椅子と一緒に桜の身体も揺れ、指先の操作を誤る。結果として入力した文章は簡単に送信されてしまった。
重大なミスをしてしまったことに気づくも、桜の心は凪いでいた。そもそも桜に「せこブリーダー」の連絡先を与えること自体がおかしいのだ。第一この連絡先が生きているかどうかも怪しい。
知らん知らん。桜はスマートフォンを鞄にしまう。相変わらず笑っている鹿村を見ないようにしながら、その不必要に明るいからこそこの場に馴染んでいる笑い声を聞いていた。
今日最後の授業が終わり、ホームルームをやり過ごし、放課後になると桜はスマートフォンを開いた。新着の通知が一件。まさかと思いロックを解除して確認する。
『せこはいいものです』
メッセージの送り主は「せこブリーダー」。どういうわけか桜が昨日と今朝送ったメッセージは未読のままなのに、先ほど送ったメッセージに反応してきた。
思わず鹿村の姿を捜す。情けない話だがこれは桜の手に余る。
また通知。開いたままのトーク画面に相手から新しいメッセージが届く。
『あなたにもあげます』
『ためしてみましょう』
『せこはとてもいいものです』
『あなたはやがてせこをひろめます』
『あなたもはやくせこになりましょう』
口の中で悲鳴をなんとか飲み込み、アプリを閉じる。通知が止まらない。振動を続けるスマートフォンを鞄の中に突っ込み、桜は一刻も早く鹿村に相談すべく立ち上がる。昼間話していた女子たちに聞くと、すでに帰ったという。桜にあれだけ口うるさく指示を出した鹿村が寄り道をするはずはない。現在の拠点である小林の店に真っ直ぐ向かっているのなら、追いつけばいい。桜も同じ場所に住んでいるのだから。
学校を出て小林の店まで歩く。桜はここにきて鹿村に指示された身を守る方法をしっかりと思い浮かべていた。
外に出る時は、必ず河伯高校の制服を身に着けること。
外に出た時は、知っている相手以外と口を利かないこと。
外から帰る時は、必ずこのアパート――今は小林の店――に戻ってくること。
大丈夫だ。しっかりと守っている。どんどん早足になっていき、今にも足がもつれそうだった。
――ひょー。
――ひょー。
どこか遠くからもの悲しい声が響く。この
本当か? 桜の心に不安が渦巻く。
――ひょー。
声が近づいて来てはしないか。鹿村の防衛術を逸脱した行動をとってはいないか。
不安に押し潰されそうになった桜は、いつもの癖でスマートフォンを開く。
通知。
大量の通知で画面が埋め尽くされ、今もなお通知が止まらない。
ロック画面に表示される通知の洪水から、内容は容易に読み取れた。
せこ。
せこせこせこせこせこせこせこせこせこせこせこせこせこせこせこせこせこせこせこ。
「ひっ」
声を上げてしまう。
「せこはいいなあああああ」
ひょー、という声がすぐ耳元で聞こえたかと思うと、若い男たちが桜の背後にぞろぞろと立ち並んでいた。
桜の見知った顔もいくつかあった。こいつらは
逃げなければ。駆け出そうとした足は竦んでいた。
男たちがひょこひょこと間の抜けた歩き方をしながら、桜へと殺到する。
なぜか桜は、鹿村の顔を思い浮かべた。
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