【仮題】4日目

【仮題】4日目その1

 その日の喫茶店は何というか、空気が違った。


 いつもの奥の席で対面する俺と彼女、ミフユさん。


 椅子に腰掛ける姿勢にさして普段との変化はない筈なのに、互いに纏うピリピリとした雰囲気が店内の空気まで震わせてしまいそうだと錯覚する。


 就職活動における企業の最終面接の場であったとしても、ここまでの緊張感は漂わないだろう。そこは本来の喫茶店というよりも、何か厳格な作法のもとに執り行われる儀式場のようにさえ感じられた。


 俺はいつになく背骨に緊張をという名の添木を縛りつつ、行き場をなくした両の拳を彼女には見えない膝の上で握り込んだ。普段、自身の手の行方など気にしたこともなかったが、意識すればする程、定位置がわからなくなるようだった。


 俺とミフユさん、両者の緊張はまた、それぞれの事情によるものだ。


 ミフユさんは人生初のファンタジー小説の添削に対し、俺は先週の出版社でのやり取りを書き綴った日記をミフユさんに読まれてしまうこと、もとい、彼女に露呈してしまうことに対し。


「ではミフユさん」


「は、はひっ!」


 こう時間ばかり過ぎても仕方がないと俺から声を掛けると、ミフユさんはびくりと肩を跳ね上げて上擦った声で返事をした。その愛嬌のあるリアクションに幾分気持ちが和んだ気がしたので、それに乗じて日記の原稿を手渡す。この機会を逃したら一生踏ん切りがつかない気すらした。


 ぞんざいに片手で差し出された原稿に対し、ミフユさんは何故か壇上での賞状授与のような仕草で右、左、と両手で丁寧に受け取った。気の所為でなければ控え目に頭も下げていた。受け取る間際、「頂戴いたします」と言われたので、俺はどう返して良いかわからず、咄嗟に「お納め下さい」と口にしていた。


 ミフユさんが俺の日記を読む時間。対峙する中で彼女が俺から視線を外す数少ない間。


 彼女の何かを見透かすような視線に慣れてしまった今は、この時間がとても居心地の悪いものに感じる。まあ、大半の原因は日記の中身なのだが。


「はい、読みました」


「…………」


 ものの数分でミフユさんは俺の日記を読み終えると、いつも通りそれを丁寧に畳み、それからスマホを一度確認して俺の目に視線を合わせた。


 やはりこれといって反応に差はなかった。


 あくまでも内容には触れないつもりらしい。そしてまた俺の中に如何ともし難い靄に似た感覚がだけが残った。肩透かし、暖簾に腕押し、ぬかに釘、その感覚をどんな言葉で形容すれば適当かは判別しかねるが、とにかく、気持ち悪いことに変わりはない。


 同時に俺は、次はもっと踏み込んだものを書かなければなんて馬鹿なことさえ考えていた。完全に目的を見失っている。事実最近の俺は当初程熱心に小説について学ぼうという気概のもとにミフユさんと接してはいなかった。


 何らかの反応、変化、いや、せめて予兆、それを欲している。彼女の眉をぴくりとでも動かすことができたなら、俺はある種の達成感と似た感覚を得られるのかもしれない。その先に後悔が待っているのかもしれないが。


 何はともあれ、俺のターンは終わった。今度は彼女の番。


「ヒイラギさん。ヒイラギさんに言われた通り、書いてみました。その、わたしなりの『ファンタジー小説』を」


「ええ、拝見しましょう」


 俺は気持ちを切り替えてミフユさんに向ける眼差しに力を込める。


 彼女程ではないが、俺は俺でそれなりに身構えてしまう。


 だって、あのミフユさんが、喝采を博する天才女子高生作家ミフユが初挑戦するファンタジー小説だ。仮に失敗すると踏んでの課題だとしても、否が応でも気にならざるを得ない。  


 さあ、どう来る。


「ちょっと待ってくださいね」


 そう言うなり、ミフユさんはまたスマホを手に取り、何やら操作を始める。そしてすぐにこちらへ向き直った。


「はい、どうぞ」


「え?」


「カクヨムです。サイト、見て下さい」


 俺は言われるがまま自身のスマホを取り出してみると、サイトを開くまでもなく、ミフユさんの意図がわかった。


 俺のスマホにはカクヨムのアプリがインストールされている為、フォローしている作者の新作投稿は全て待ち受け時の通知に表示されるようになっている。


 新着通知にはカクヨムのあのブルーの四角形にカッコが付いたようなファビコンと共にこうあった。『ミフユさんが新作を公開しました』。


「下書きで投稿していたものを今公開設定にしました」


 ミフユさんは俺が気付いたのを確認してからそう説明した。


 まさかあれだけ二の足を踏んでいたファンタジー小説をいきなり全世界に向け公開するとは。でも、確かにこれなら読みやすいし互いに手元で内容を確認しながら話せる良い方法だ。もしかしてミフユさんはそこまで考えてこの方法を取ったのだろうか。〝効率性〟を重視して。


 その時ちょうど二人分の飲み物がテーブルに届いた。


 俺はアイスコーヒーを一口含むと改めて通知をタップし、ミフユさんの公開小説を開く。一瞬確かめるようにミフユさんの顔を確認すると、ベリー&ヨーグルトに刺さったストローを咥えながら神妙な面持ちでじっとこちらを凝視していた。いつもは大人っぽいミフユさんだが、その上目遣いが妙に幼く見え、少し可愛いらしかった。


 さて、余計なこと考えるのは程々にして。俺はスマホ画面に視線を戻す。


 小説の題はこうだ。『仮題:ファンタジー』。当然だが、まだ一話しか投稿されていない。


 第一話の文字をタップし、画面中に表示される文字。スクロールバーの長さからいって五~六千字といったところだろうか。


 冒頭は主人公の女の子が恐らく異世界であろう広い丘の上で目覚めるところから始まった。


 丘に生える青々とした草の香りが鼻孔をくすぐるような、そんな清々しくも爽やかな描写で物語はゆっくりと進んでいった。





 数分後、小説を読み終えた俺はスマホをテーブルに置いた。


 傍らのアイスコーヒーは最初に一度口を付けただけで全く減っていない。ようやく二口目をとグラスに伸ばす手はやや震えていた。


 端的に言うと、俺は興奮していた。


 やっぱり彼女はすごい。普通じゃない。


 彼女自身は水族館の折に普通で安心しただなんていう人間アピールをしていたが、彼女は、彼女だけは、普通の人間じゃない。他とは一線を画す何かがある。


 物語はまだ序盤も序盤。主人公がわけもわからず異世界の町を彷徨ったり、そこに住む住人と出会ったり、恐ろしい〝悪〟の存在がほのめかされたりして、最後に敵らしきモンスターと遭遇したところで第一話は終わった。


 たったこれだけの内容。それなのに何故ここまで心を掴まれてしまうんだ。


 彼女の描くファンタジーはやはりこれまでの小説と同様に決して難しい言葉は出てこず、数奇を凝らした名文とまでは言い難く、でも確かに、それでも確実に、俺の心を掴んで離さない。離してはくれない。今こうしてスマホを置いたのだって目の前に評価を伝えねばならない相手がいるから形式上致し方なくそうしただけで、本音では今すぐ帰宅してベッドの上でゆっくりと、最低でも三回は連続で読み返したい。


 評価。ああそうだ、評価だ。評価を伝えなければならない。


 しかし待て。俺如きがこの至高の傑作に評価? 例えば、事細かに要所要所を議題に挙げ、例えば、その中で改善点を見つけ出し、例えば、偉そうに適宜説明や助言や補足を口にする?


 馬鹿なことを。そんなことできる筈がない。俺がこの小説を読んで口にするとしたら、口にできるとしたらこれだけだ。


 やべぇ、超絶面白い。先が気になり過ぎて三日間くらい眠れなくなりそう。


 知性や語彙力なんてものは、この物語に登場する異世界の丘で毀れ落ちてしまったようだ。


「あの……どう……でした……?」


 ミフユさんはその湿っぽい艶やかな瞳で上目がちに俺を覗き込む。


 くそ、可愛いらしい。そしてやめろ。彼女は彼女で結果に対して気が気じゃないのはわかるが、これ以上俺の脳に情報をぶち込まないでくれ。キャパシティオーバーして鼻血とか色んなものが吹き出そうだ。


 俺は今いるこの現実の地を確かめるように両足に力を込め踏ん張ると、ミフユさんに無言の視線を返す。正直どう感想を返して良いかわからない。


「あ、あの……ヒイラギさん、怒ってます?」


 あまりにも力み過ぎてしまった所為か、俺は気付かぬうちに酷く険しい形相で彼女を睨んでしまっていたらしい。もともと自信なさそうに伏し目がちだった彼女の表情がいよいよ泣き出しそうなもの変わる。


「それ程酷い内容だったってことですね……」


「あ、いや違う! 違います。何て言うか……違うんです……」


 俺は一瞬声を荒げてしまってからきまり悪げに言葉を繰り返した。落とした語彙力はまだ帰還していないらしい。


「あの、とても面白かったです。直すところなんてないと思います。少なくとも僕には見つけることができません」


 そしてようやくそう言い切ることができた。空気と混ざって何か熱いものが一緒に肺から抜け出た。興奮と焦りで火照る身体を鎮める為、もう一度アイスコーヒーを口にする。やっと気持ちが落ち着いてきた。


 ミフユさんの書く小説は、舞台が現実世界から異世界に変わった程度のことでは何ら影響を受けなかったのだ。あれだけありきたりな設定では失敗をすると踏んでいた過去の俺が愚かに思えてくる。同時に自らのこれまでの小説が奇抜な設定に頼っているんだなと痛いくらいに実感できた。俺は異世界やファンタジーという前提に託けて体よく誤魔化していたにすぎない。「何でもありな世界」だから、「自らが創造できる世界」だから、己の薄弱極まりない力量を〝設定〟という装飾で飾り立てて。そしてそのことすら自覚できていなかった。


 今改めて確信した。


 設定がどうあれ、面白い小説は面白い。


 しかし俺の言葉を聞いた筈のミフユさんは一瞬瞳を大きく開いたかと思うと、やはりすぐに悲しそうに目を伏してしまう。


「そんな筈ありません」


「え?」


「これが、こんな小説が、直すところがないなんて、そんな筈は絶対にありません」


 彼女は一体何を…………、


「何を言っているんです」


 気が付けば、思考がそのまま声となって口から漏れていた。

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