第十二幕 女神の祝福

 人はおとぎ話だと笑う。そうよ、これは正真正銘本物のおとぎ話。


 互いに潮風を理由にできない湿っぽい瞳を乾かせないまま、ユキとアレクシスは浜辺から上がってサフィールの街の大通りを歩いた。冬祭りでにぎわう人ごみに流されないよう固く手を絡め合って、並ぶ露店を冷やかしたり、木彫りの水笛などを買ってみたりする。ぴゅるるるる、と震える水音とともに鳴く鳥にユキはしばし子どものように夢中になった。

「ユキはこういうところ、初めて?」

「うん。わたし、お稽古しかしてこなかったもの。それにこういうところに来ると、子どもはたいていお父さんとお母さんが一緒にいるでしょ」

 そっか。アレクシスはことさらやさしくうなずいて、繋いだ手にぎゅっと力がこもった。すぐに緩められて心地のよい力加減に戻ったけれど、余韻がじんとユキの肌に残る。

「フロル・ネージュの街からもほとんど出てないんだっけ。ねえ、お互いどんなふうに忙しくなるかわからないけれど、また出かけようよ。きみに見せたいものがたくさんあるんだ」

「お兄さんに連れて行ってもらったところ?」

「それは、そうだけど。でも兄さんは場所を僕に教えて写真を撮っていただけで、きみに見せたいと思ったのは僕だから」

 勝手に兄に対抗心を燃やしているアレクシスがかわいくて、ユキは唇に指をあててくすくす笑った。それはアレクシスが、兄の目を通してではなく、きちんと彼自身で世界に立っていることの証左でもある。兄に従うばかりだったという彼が自らの目や足を見つけたのは――あの入水自殺未遂のときか、とその時のアレクシスの言葉とともに思い出す。アレクシスのあの時のまなざしや口ぶりからして、決してユキの自惚れではないはずだ。あの日、ユキは彼に夢を見せてあげたいと思った。今はますます強く思う。夢も魔法もおとぎ話も、ぜんぶ、もう一度信じることはアレクシスが教えてくれた。

 どこかの塔で時刻を告げる鐘が鳴る。曇天の下、鐘の音は重々しく、力強く響き渡った。

「そろそろお腹空かない? 来るときは列車の中で軽く食べたからお昼を取らなかったからね。カフェで温かいものでも飲もうか」

「そのあたりに出ているお店にも食べ物が売られているわよ?」

「でもそこで買うと、吹きさらしのベンチで食べるしかないよ。ユキ、潮風で身体が冷えてるから、暖房のあるところのほうがいいよ」

「そんなに寒くないわ」

「自覚してないだけじゃないかな。きみ、すごく冷たいよ」

 アレクシスが空いたほうの手をユキの頬に当てる。アレクシスの手はびっくりするほど熱かった。彼は自分が熱いのではなく、ユキが冷え切っているのだと言う。

「寒くないのに」

「海に行くのに気を張ってたから気づかないのかな。風邪を引いてしまうよ。まだ列車の時間までしばらくあるし、ちょうどいいから休憩しよう」

「ううん、どこかちょうどいいお店はあるかしら。ごめんなさい、行きたいって言ったくせにわたし全然調べたりしてなくて」

「すぐそこ」

 アレクシスは露店の並ぶ後ろ、歩道沿いのカフェを指さした。表通りに面した一面がガラス張りで、暖色系の店内がいかにもあたたかそうに見える。

「いちごのケーキやパフェが売りのカフェだよ。遅い時間だけれどランチメニューもあるし、紅茶もおいしい。ユキ、いちご好き?」

「好きよ。ぜひ行ってみたいわ」

「甘いものも?」

「大好き。でもね、ふだんはあまり食べられないから、ニコおばさん……おばあちゃんにカロリーオフのおやつを作ってもらうの」

 ユキはこそっと白状した。アレクシスは微笑ましげににこにこしてユキをカフェへ引っ張っていく。そうしてさほど並ぶこともなく暖かい店内の小さな丸テーブルを囲むふかふかの椅子に腰を落ち着けたまではよかった。

「え、あれっ」

 注文を終えてケーキと紅茶が来るのを待つあいだ、アレクシスは携帯端末を取り出して何かを調べていた。だがわずかも経たないうちに眉を寄せて困ったふうにせわしなく操作をしはじめる。ユキは濃い飴色の木目が使われたクラシカルな店内をきょろきょろ見回して楽しみながら、アレクシスが操作を終えるのを待った。

「ユキ、ちょっとまずいお知らせです」

「なあに?」

「山間部で大雪、線路の除雪が間に合わないから乗ってきた路線が今日は全線運行休止だって」

「えっ」

 ふたりして顔を見合わせ、アレクシスがテーブルの真ん中に差し出した端末を額を付き合わせるようにして覗いていたところ、お待たせしました、との声で慌てて背を伸ばす。ウエイターが紅茶のポットとケーキを置いて去っていったあとに、紅茶をカップに注ぎながらユキは「どうしたらいいの?」と尋ねた。

「うーん、サフィールからシリオには戻れると思う。でもそこで足止めかな。もし一泊するなら、下手したらサフィールから出ないほうがいいかもしれない」

「どうして?」

「シリオのほうが利用客が多いから、ホテルがすぐ満室になるんだ。っていうか、これ情報出たの一時間も前だからもう満室かもね。サフィールは……」

 アレクシスの検索の結果、サフィールのホテルもほとんど満室であることがわかった。冬祭りで遠方から人が集まってきていたことが原因のようだ。だが彼はまだわずかだけ空きがある、と言いおいておきながら、別のことを言い出した。

「車をレンタルしたら山のトンネルを直線で突っ切って、今晩中にはフロル・ネージュに戻れるかも」

「でも大雪が降ったのはその山なんでしょう? 危ないわ。おとなしく今晩は泊まったほうがいいと思う」

「そう、だよねえ。あのね、ごめんユキ、最初に謝っておく」

「アレクシスは何も悪くないわ。天気が悪い時期なのに海に連れていってほしいって言ったのはわたしじゃない。わたしこそごめんなさい」

「いや、いいんだ、そこは。そこは問題じゃない」

 では何だろう? メイク道具がないこと? でもユキは普段からまだ若いのだからとニコおばさんに止められているせいで、今日もクレンジングの必要がないほど最低限の化粧しかしていない。肌着や衣服はそのあたりのお店で調達できるだろう。食事も、まさかこんな街中でレストランが一軒も空いていないなんてことはないはずだ。あとは、大雪が降ったのが山間部なら、今夜あたりこちら側か、フロル・ネージュ側のどちらかに雲が流れて雪になることだろうか。けれど確か、整備の間に合っていない山間部を除いて、都市に近い線路には積雪を溶かして排水する仕組みが備わっているはずで、山間部さえどうにかなってしまえば明日には帰れるだろう。

 ユキがあれこれアレクシスの悩みを想定しては打ち消しているあいだに、アレクシスは観念して叱られるのを待つ子どものような顔でユキに端末を差し出してきた。画面に、なにやらきらびやかな夜景が映っている。どうやらホテルの部屋からの見晴らしらしい。ずいぶん大きな窓だ。

「景色のよさそうな広い部屋ね?」

「そうだね……この街いちばんのホテルのオーシャンビュージュニアスイートだからね……。ユキ、そこじゃなくて部屋情報を見てくれるかな。いや見なくてもいいから聞いて。ごめん、ツインが空いてなくてダブルベッドの部屋しかなかった」

「…………」

 ユキはどう返すのが正しいかわからず、反応に迷った。それをどう捉えたか、アレクシスがやや早口に付け足す。

「下のランクの部屋はもう残ってなくて、ランクアップして、スイートルームにしたら寝室がふたつある部屋なんだけど……ただちょっと」

 言わんとすることはわかる。一応はリゾート地、冬祭りのあっている繁忙期の週末、スイートルームに飛び込みの一泊。どういうことか想像がつく。ユキも、おそらくアレクシスも収入に困っていることはないのだが、それと飛び抜けた贅沢をする勇気とは別の問題だ。

 ほとほと参った顔をしているアレクシスを見て、そして彼がなぜ参った顔であるのかをおぼろげながら理解して、ユキは端末をアレクシスに返した。冷めかけの紅茶を飲み干し、ポットに残っていたのを注ぎ足して、また一口。

 具体的にはよくわからないぶん、ユキのほうがアレクシスよりまだ冷静だろうと思う。正直に言えば、マナーとして年頃の男女が同室で、しかも同じベッドで眠ることがあまりよろしくないことは知っていても、それに対してアレクシスのように何かしら困れと言われたところでユキには圧倒的に経験値が足りていなかった。アレクシスの心情を察するには厳しいものがある。理解の難しいものを理解しようと寄り添ってゆく、そうやって演じるのだと決めて、努力はしても、人の気持ちを想像するのはまだまだ難しい。でもわたしは難しいことに挑み続けてゆくのだわ。ユキはだいぶのんきにそんなことを考えた。

「べつに、いいわよ。仕方がないもの。それより探してくれてありがとう」

 アレクシスがよく聞き取れない呻き声を発した。

「アレクシス、大丈夫?」

「うん……」

 アレクシスはふかふかの椅子に沈んで丸まっていた。

 出会い頭からとんでもない行動を見せられたものだけれど、こんなに情けない彼は初めて見る。街中の写真では気取ってばかりだった彼のいろんな顔が見られるのはただひたすらに嬉しい。フロル・ネージュの街に集まっている数え切れないほどの人びとの誰も、アレクシスのこんな顔は知らないのだ。

「ふふふ」

「ユキ、どちらかというとこの状況にうろたえるべきはきみだと思うよ……」

「だって楽しいもの。わたし、ジュニアスイートのお部屋に泊まるなんて初めて。あ、今晩をこの街で過ごすなら、海の日没が見られるかしら」

 ユキがこの調子でいたせいで、アレクシスも多少気を取り直したようだった。外見を取り繕う余裕を取り戻したのか、いつも通り綺麗な姿勢に戻って絵になるさまでティーカップを持ち上げる。ただ、カップをソーサーに戻したあと、開き直ってにっこり笑ってみせた顔があまりにわざとらしくて不穏だ。ユキはまたしても彼の心境を想像しようとしてくじけた。後学のためにあとで本人の口から教えてもらいたいところである。

「僕も初めてだよ。兄さんとあちこち行っていたころは兄さんも僕もただの学生だったし。昼過ぎからこちら側は少し晴れて、また夜に雲が出る予報だったから、うまく時間が合えば海に夕陽が沈んでいくところが見えるかも」

「太陽って本当に海に沈むのね」

「えっ……と」

「あのね、現象の科学的説明はちゃんと知っているから。ネット講座で習ったもの」

「学校は?」

「行ってないのよ。ニコおばさ、おばあちゃんは通わせようとしたみたいだけど、わたしがお稽古に行っているほうが楽しかったから、行かなかったの。そういえば入学式すっぽかして稽古場に行って、劇団のお兄さんお姉さんに面倒を見てもらっているところに大慌てで迎えに来たこともあったわね。たぶんあれで通わせるのを諦めたんだわ」

「ちなみに、何の科目を習ったか覚えてる?」

「国語、算数、理科、古文、歴史、地学、音楽史、美術史、芸術学、文学史、あと、ええと、心理学基礎」

「ああ、なるほど……」

 アレクシスは何事かひどく納得したようだった。ユキは何か誤解されたような気がして「体育と音楽の実技みたいなところは、劇団のお稽古とレッスンでやったわよ」と付け足したのに、彼はなお薄く笑っただけでユキが期待したような反応をしなかった。

 やっぱり、ホテルの部屋でふたりになったら教えてもらおう。ひとまずそう自分を納得させ、話を変える。

「そういえば、さっき砂浜で、どんな写真が撮れたの?」

「えっ、ええと、まあ素人の普通の写真かな」

「ねえ、見せて」

 空になったケーキの皿を端に寄せて身を乗り出すと、アレクシスは気恥ずかしげに目を逸らした。言い逃れる方法を探しているようだったので、モニターが付いていたでしょう? と釘を刺しておく。今度は妙にうろたえるさまを見てちょっと溜飲が下がる。

「いいじゃない、わたしだって写真なんてうまく撮れないわ。ていうか、劇のこと以外たいていのことはできないわよ」

「それは女神さまが、きみにとっておきのものだけをあげたんだよ」

「だったらあなただって女神さまがものすごく特別扱いして作ったのに違いないわ。他の人を粘土で作っても、あなただけはダイヤモンドを砕いて材料にしたんじゃないの」

 アレクシスが何とも言い難そうな顔をしているあいだに、ユキは椅子ごと彼のほうに身体を寄せた。丸いテーブルだからぴっとり寄り添える。アレクシスはテーブルの下の荷物入れの鞄から、大きなカメラを引っ張り出した。電源を入れるとカバーをかけられたままのレンズが真っ黒な映像を映し出し、アレクシスがボタンを操作して撮影データを呼び出す。

 小さなモニターに、灰白の砂浜とグレーの空と海を背景に、どことも知れぬ宙を見て、ぼんやり立ち尽くす少女が映っていた。ほとんど白に見える髪が風になびいて、雲を抜けてきた弱々しい太陽の光を反射して淡くきらめいている。着ているコートまで白いので、薄い空色の瞳だけが、唯一存在する色彩だった。次の一枚で視線がこちらを向く。それから手に持ったフォトフレームに目を落とす横顔。髪と同じ色のまつげが伏せられているせいで瞳なんてほとんど見えていない。なのに、そのわずかな色の存在がわかるのは、他がほぼ無彩色なのと、そこだけに透き通った光が集まっているから。

 涙が落ちた瞬間は、落下する丸いしずくが少女の横顔とフォトフレームとのちょうど真ん中で、きらりと輝いていた。さながら、一粒の宝石のように。

 なにが素人の写真よ。

 ユキは自分が被写体でありながら、自分とは思えないくらい完成された画像に見入った。アレクシスには、間違いなく彼の兄と同じ血が流れている。でもそれが霞むくらいに、アレクシス自身が撮られるために生まれてきたような容姿を、表情を、空気を持っているというだけなのだ。

 アレクシスのお兄さんはどこまで気が付いていたのだろう。カメラの扱いにほとんど慣れていなさそうなところを見れば、もしかしたら兄は弟にあえてカメラに触れさせないようにしていたのかもしれない。ずっと身近にアレクシスに接していて、あの『flor』の写真を撮った兄ならば、アレクシスが撮るほうに目覚めて、そちらの道へ進むのはあまりにもったいなく思えただろう。

 その思いがわかるだけに、ユキはどういう感想を伝えるべきか迷った。正直にすべてを言うとアレクシスは兄の遺志を継ぎたいと思うかもしれない。彼が望むならその可能性を示してやるのが誠実だろうか。でも、すでに成功できる地位を築いているのにもかかわらず、ものになるかどうかわからない道をわざわざ教えてしまうのはどうなのか。

 才能があっても、成功するには運も必要だ。女神さまは彼にどちらの道を与えようとしているのだろう。

 操作のしかたを教えてもらって、ユキはアレクシスの手から慎重にカメラを受け取った。いくつもの画像を繰り返し表示して、じっと見下ろしながら悩む。そうして何度めか、最初の写真を表示していたときのことだった。次の写真を出すつもりが、誤ってさらに前の画像を表示するボタンを押してしまった。

 挿入されているカードがもし最初は空であったら、エラーメッセージか、最後にアレクシスが撮ったユキの画像が出てくるはずだ。操作ミスに気づいて画像が切り替わる一瞬の間に、ユキはそう考えて、目的の画像を表示する手順を想定していた。だがそこに映し出されたのは、明るい空と真っ青な海を背景に、全身ずぶ濡れで笑っている、今よりすこしばかり幼いアレクシスのすがただった。

「これ……」

 ユキが息を呑んだのに気づいて、ケーキをつついていたアレクシスが横から覗き込んでくる。彼の手からフォークが落ちて、陶器にぶつかる小さな音が響いた。

 目を見開くアレクシスをうかがいながらも、ユキはさらに画像を前に戻す。そこにもやはり海辺とアレクシスの写真があった。波打ちぎわから少し入ったところで、膝から下を海に浸している。髪は乾いているらしく、風の流れに従って眩いほどの太陽の光を弾いていた。戻しても戻しても、どこまでもアレクシスが映っている。屋外の写真が多かったが、中には室内、それも自宅と思しき生活感のある部屋を背景に撮られたものもあった。学生服を着たアレクシスが鞄をひっくり返している、何の変哲もない日常の一場面。よく見たら返却されたテストの答案用紙らしき紙を飛行機に仕立てている最中。自分でやって切りすぎたような前髪。奇跡のように、コップ片手に液体を口から噴き出した瞬間まで撮られている。

 硬直していたアレクシスが、ユキの隣で写真と同じように何かに噎せてせき込んだ。

「な、何これ。いやいつもカメラを向けられていた記憶はあるけど、なんでこんな」

 これ以上画像をさかのぼると、あまりにも不用意にアレクシスのごく私的な領域に踏み込んでしまう気がして、ユキはアレクシスが口から液体を噴き出している画像を表示したままカメラを彼に返した。アレクシスは恥ずかしかったのかとりあえず別の画像に変えてから、改めてボタンをいじって、カードに記録されている画像データの数を表示させた。

「六千……」

 呆然とアレクシスが呟く。データ記録用カードの容量はもうほとんど残っていない。

「今まで気づかなかったの?」

「兄の遺したカメラ、ほとんど触っていなかったし、主だったカメラのデータは確認していたから。このカメラは、兄の本気の時の機材じゃなくて、私用の日常使いのものだったんだ。兄さんはカメラのカードのデータはすぐにパソコンに移す人だったから、こんなところにあるなんて思っていなくて」

 ふたたび画像の再生画面を出して、アレクシスは次々に写真を確かめてゆく。けれどあまりに量が多い。しばらくのち、彼はすべてを見る前にカメラの電源を切った。カメラ本体から記録用カードを抜きだそうとしてカバーを外し、しかしそこで思い改めたようにふたたびカバーを戻す。そして大きな手のひらでカメラを包み込んだ。

「兄さん、日常にことあるごと撮っていた写真のデータは消していたんだと思ってた。兄さんはいつもカメラを持ち歩いていたのに、撮られた記憶のある写真がパソコンにはなかったりしたから」

 アレクシスは深い息を吐いて、小さく呟いた。片手をカメラから放し、肘掛に置いていたユキの手を握る。ひとりでは抱えきれない動揺を宥めようとしているようだった。ユキは手を返して指と指を絡めた。そのほうがぬくもりが伝わる。

「あれって、アレクシスがいくつくらいの時の?」

「ユキが見ていたのはだいたい十七の時の僕」

「今のわたしと同い年くらいね。なんだか不思議。そのころのあなたは知らないはずなのに、まるであなたが笑っていたのをわたしも見ていたみたい。あなたのお兄さん、本当にすてきな写真を撮るひとだったのね。……海の近くに住んでいたの?」

「南の海に遊びに行ったんだ」

「南の海! そうだわ、海ってほんとうにあんなに青くなるのね。透き通っているのにあざやかに青くて、おとぎ話の海みたい」

「いつか見に行こう」

 アレクシスははしゃぐユキに笑いかけた。気持ちは落ち着いたようで、穏やかで幸福そうな彼の表情に胸があたたかくなる。

「それまでに僕も、もっとちゃんと写真が撮れるようになりたいな」

「写真撮るの、楽しい?」

 指さきでカメラを撫でながら言うアレクシスに、ユキはおずおず尋ねた。彼は表情を変えずすんなりうなずく。その目がユキに向けられる。

「写真をというより、きみを撮りたいなって思うんだ。兄さんが、よく僕のことを『撮らずにはいられない』って言ってはシャッターを切っていた気持ちがわかるよ」

 それはどうかしら、とユキは思ったけれど、口にはしなかった。アレクシスには誰もが写真に撮りたくなるような被写体としてのあらがいがたい魅力があるとユキには思えるものの、彼の兄が彼にカメラを向けていた理由は、当のお兄さんにしかわからない。

 カフェでのんびり過ごしていたので、ふと時計を見たときには冬の早い日没が迫っていた。空はまだ少し雲がかかっていたが、太陽が強い朱金色を発して雲間から顔を出している。あんなにかたくなに灰色だった雲も、夕陽を受けて空とともにマリーゴールドの花の色に染め変えられた。ユキとアレクシスは夜に向けてランプに火が入り、にぎわいを増す冬祭りの大通りを急ぎ足に抜けて海へ向かう。

 たった数時間越しに訪れた海辺は、様相を一変させていた。燃える太陽が一日のエネルギーのすべてを出し尽くすかのように輝きながら、ゆっくりと海へ落ちてゆこうとしている。空も雲も炎を映したように鮮烈で、海はきらきらと金色に波打つ。水平線に近い遙か向こうの水面は、太陽を写し取ってひときわ光り輝いた。薄く残って広がる雲は、黄金の翼にも似ていた。

 あんなにも強い輝きを放つ太陽を、たっぷりと水をたたえる海が静かに、難なく呑み込んでゆく。水平線が一直線の黄金に光る。沈もうとする太陽の上には、強烈な光を宥める薄紫の空が広がり、天頂へ向かって色を濃くする。夜が訪れようとしていた。

「あ、一番星」

 太陽だけ見つめていたユキの隣で、アレクシスが喉を反らし、空を見上げて声を上げた。たったそれだけを嬉しそうに見ている横顔が、さっき見た写真の幼い彼に似て無邪気だ。陽が沈みきって、わずかに橙色の名残がある水平線をもう一度眺めたあと、ユキもならって空を見る。紫色の空に小さな金の粒がぽつんと輝いていた。先ほどまでの太陽の光に比べるとずいぶん小さくて控えめなのに、その星の輝きも決して劣らない。

 太陽は悠々と沈み、ふたたび反対の空から昇って世界を照らす。だが陽の光のない世界では、星々が地上を見守っている。

 遙か昔から、太陽も星も、人の道しるべだった。空を見上げて人は自分の位置を知り、目指すべき方角を見つけるのだ。

 かけがえのない光が、人を導いてゆく。


 ホテルの部屋の扉を開けると、大きなガラス窓越しの街の夜景が目に飛び込んできた。床から天井まで一面に取られた窓から光が滲んで、明かりのついていない暗い室内をほのかに照らしている。

「わあ……!」

 ユキはふかふかの床を踏んで窓に駆け寄った。後ろでオートロックの音がして、ユキの後から部屋に入ったアレクシスも照明のスイッチに触れないままやって来る。

 冬祭りでひときわ明るい大通りもまるごと窓から見下ろせた。大通りを向こうへたどってゆくと、その先は光のすべてが途切れて暗闇が一面に広がっている。海だ。

 昼の灰色の海、夕暮れの燃え立つ海、そして、夜のすべてを呑み込むような海。たった一日のあいだに、ユキの前で海は何度も、激しく姿を変えてみせた。

 海の底には、人間の知らない国があるという。それは本当かもしれない。さまざまな姿をもつこの世界のすべてをあまさず知る人など、いったいどこにいるというのだろう。

 夜の海は、空と同じ色をしていた。さかいめのわからない空と海を望み、手前に街の灯がいくつも浮かんでいる。あたたかそうな光たち。人のいとなみを数える灯。

「人魚姫が見たのも、こんな景色だったのかしら」

 街灯りの滲むガラスに薄く自分の顔が映っている。王子様の結婚を祝って賑わう街を船から眺めた人魚姫はひとりぼっちだったけれど、ユキを映すガラスは、もうひとりの影も映し出していた。

「今が王子様といられる最後の夜、あの海の向こうから陽が昇ったその瞬間、泡になって消えてしまうの」

「あの海からは、陽は昇らないよ」

 夜にひそむ、やさしげな笑みを含んだ声が言った。街を眺めるユキの肩に大きな手が触れ、包むように腕を滑って手を捕らわれる。

「太陽が永遠に昇らなければ、きみはずっと僕と一緒にいてくれるのかな」

「それは何か違う演目の台詞じゃない?」

 振り返ろうとしたユキの頭に後ろから額をあてて、アレクシスはくすくす笑った。窓ガラスにうかぶ街灯りのなかに、ほとんどひとつに重なった自分たちが映っている。半透明で、別世界にいる影のような自分たちの姿を眺めながら、ユキは彼が触れているところから伝わるぬくもりを心地よく受け入れるとともに、そこからアレクシスに溶けていってしまいそうな、不思議な陶酔を感じていた。

 今まで舞台の上で味わったどんな高揚とも違う。その正体を知りたくて、身じろいで彼の顔を振り仰ぐ。アレクシスが身をかがめてうつむきぎみにいたせいで、すぐ近くに柔らかな藍色の瞳があった。ガラス越しの街灯りをわずかに吸い込んで、藍がサファイアのように煌めいている。唇は慈しみに淡い笑みをうかべ、明かりを落としたままの室内の暗さが白い肌を引き立てる。

 情に満ちたまなざしがじっとユキを見つめていた。ユキの手を捕らえているのとは反対の手が、彼に魅入られるユキの頬をそっとたどり、彼の手の中におさめてしまう。

 アレクシスに注がれ続けて胸のうちをあたたかな水のように満たしてゆく想いが、ユキの息を止めた。彼の瞳から目を離せないユキの視界で、藍が滲んで溶けだしてゆく。

 キスは、どんな物語も教えてくれなかったのだと知った。アレクシスの唇はやわらかく、あたたかく、しかし表面が触れあうことで、ユキと彼とが別の存在であることを知らしめた。けれどそれ以上に、言葉のひとつもなくても、目を見交わして、唇をやさしく触れあわせるだけで、心のいちばんやわらかなところへ想いが届く。アレクシスの存在をユキの深くに残される。

 アレクシスの腕がユキの腰から背を支え、ユキは彼の身体に閉じこめられてしまった。どこへもゆけないように絡め取っておきながら、アレクシスはユキのこめかみに頬をすり付けて、胸や腹のあいだのすきまさえもどかしいと言うように強く引き寄せてくる。ユキは身じろいでどうにか彼と目を合わせた。

「ユキ、どこへも行かないで」

 アレクシスは痛切な願いをささやく。綺麗な瞳を歪めて、ユキの心の底まで見透かそうとするかのような、抑えきれない激しいまなざしをしていた。藍が色を濃くして、真っ青に透き通っている。

「行かないわ」

「でもきみは人魚姫になってみたり雪の精になってみたり、そうしているうち、いつかきみそのものはどこかへ消えてしまいそうだ」

「ばかね」

 ユキはあたたかなアレクシスの胸のなかで、せいいっぱいのやさしい声で話した。こっそりと自分の傷に爪を立ててみる。そこはもう血を流さない。

「わたしは人魚姫になってしまいたかった。その公演を終えたら、本当に泡になったってかまわないと思うほど。でも、今のわたしは違う。わたしはわたし以外の何者でもないの。他の誰にもなれない。わたしはいつだってここにいる」

 アレクシスに身体を預けて、少しずつ同じ温度になってゆく。決して混じり合うことのできない、わたしとあなた。

「わたしは他の誰かにはなれない。だから想像するの。物語の中の人物の苦しみも喜びも、わたしに知るすべは想像することしかない。ちっぽけな想像ではなくて、心からその人のことを知りたいと願って、人と真摯に向き合ってその人の感情を知る。信じがたいことを受け入れる。それはすべて、わたしの心の動きだわ。そういう意味では、わたしは変わり続けてゆくでしょう。でも、それがわたしなの。どんな役も、わたしの人生や、心から離れて存在するわけじゃない。根っこにいるのはいつだってわたし、たったひとりぼっちよ」

 他人を完全に理解することなどできない。生まれや育ち、与えられた環境、人はみな同じ人生を生きてゆけない。同じ魂は誰ひとりとして持たない。だからこそその心に触れようと手を差し伸べ、目で見つめて、理解したいと願うのだ。感情をわかちあいたいと望む。ふと誰かに対しわきあがるその衝動は、人の持つ愛のひとつかもしれない。

 だがユキは役者であるから、誰か、ではなく、役に対して――役の中にいるひとつの魂に対して、どんなに困難でも、苦しくても、諦めたりしないで、愛を持ち続ける。ユキが生涯を懸けて向き合ってゆこうとしているのはそういう壁だ。他者と自分との間にある絶対的な断絶。それでも、人はそれを越えられると信じる。

 おとぎ話だ、と笑う人がいるかもしれない。そう、これはおとぎ話。けれどおとぎ話が現実ではないものだって、いったい誰が決めたの?

 おとぎ話に語られる人の心が、すべて嘘だと思う? そんなことは決してない。

 物語は、人の希望であり、祈りだ。願い、求める人がいる限り、いつまでも語り継がれて人びとに愛を教えてくれるだろう。 おとぎ話の中で幾たびも語られるように、愛は、どんな魔法も、どんな呪いもかなわない、誰もが持ちうるもっとも強くとうとい力。

「大好きよ、アレクシス。こうして気持ちを伝えられるのも、あなたがわたしと決して同じものにはなれない、違う存在だからだわ。これはきっと、女神さまが人に与えた祝福なの」

「きみが好きだよ」

 ユキの肌に溶かそうとするかのようなはかなさでアレクシスがささやいた。果てしなく広い、ともすればすぐ迷子になって人波に埋もれてしまいそうな世界の中で、ただひとりユキだけに捧げられた言葉。ユキは切なく求めるアレクシスの目の前に、ひとつも隠さず心の底までさらしてみせた。心を取り出せはしないので、声音とまなざしにすべてを込める。

「あなたが好き。世界中のなによりも」

 あなたがかけがえのない、わたしの光。

 目を見交わして、たしかに心が通じ合っているのがわかる。今この瞬間の藍色の瞳が、世界のなによりも綺麗だった。

「好きだよ」

 アレクシスは溢れて吐き出した言葉をもう一度口内におさめて、ユキに飲み込ませるようなキスをした。

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