-4-

 大慌てで広報部に戻ったエビネは、部屋に入るなりその場に立ち竦んだ。

 猫の気配がない。

 直感的に悟った。だが、しばらくその場で待ってみる。いつもならエビネが戻れば、コーデリアはどこに隠れていてもすぐに姿を現す。たとえ眠っていたとしても、必ず目を覚まして出迎えてくれる。

 だからエビネは待った。

 なのに彼女は、一向に姿を見せようとしなかった。

 エビネの背中を、冷たいものが滑り落ちる。込み上げてくる焦燥を抑えて、室内を見回した。目だけでなく、耳や肌、全身の感覚を総動員して気配を探るが、猫のかすかな息遣いを感じることはできなかった。

「まさか……」

 不意に不吉な予感が頭を過ぎる。

 部屋の片隅でコーデリアの変わり果てた姿が――という恐ろしい展開になろうものなら、世話係としての責任をとって腹を切るしかない。

「――!」

 エビネは弾かれるように動いた。

「コーディ、コーディ!」

 猫の名を呼びながら、エビネは四人分が一塊になった机の下を覗いて回る。机ごとに椅子を除け、可動式のキャビネットを引っ張り出す。這うようにして、隙間に隠れていないか確かめる。

 廊下側の二つの島、滑走路の見える窓際の島と大尉二人分の机。さらには隊員たちのカップやコーヒーメーカーなどが乗ったワゴンの裏や、戸棚の奥。ガラス張りになった部長室の中――猫が入り込みそうなところは、片っ端から確認した。

 だがそれでも、コーデリアの姿は発見できなかった。もちろん、窓際に設えられた彼女の寝床も空っぽだ。

 部屋中を調べ尽くしたエビネは、へたり込むように窓辺に寄りかかった。天を仰いで、いまの心境を吐き出す。

「……ちょっと、勘弁してよー」

 途方に暮れたエビネの声が、広報部室に虚しく響いた。

 焦りと不安のため思考が空転するしそうになる。彼は深呼吸してそれを抑えつけると、状況の把握に努めた。

 とにかく、部屋中をこれだけ捜して見つからないのだ。コーデリアは部屋から消えてしまったと考えていい。

 しかし彼女に部屋の扉を開けることはできない。勝手に出て行ったとは考えにくい。

 となると、他の誰かが彼女を連れ去ったのだ。

 ルビン中佐だろうか――と、エビネは考えて、すぐ否定した。今朝コーデリアとともに出勤した中佐は、彼女をエビネに託すと〈とねりこの森〉エッシェンヴァルトへ出かけていった。あと数時間は戻ってこないはずだ。

 それに中佐がコーデリアを連れて部屋を出るときは、必ずバスケットを使う。広報部員も同じだ。そしてバスケットは、彼女の寝床の傍に置かれたままになっていた。

 つまり犯人は部外者しかいない。だが、いったい誰が彼女を連れ去ったのか。

 広報部によく出入りする人間の顔が脳裡に浮かぶ。だがその中で猫を誘拐しそうな者は思い当たらなかった。

 エビネは室内を見回し、他に手掛かりになりそうなものを探した。ふと、入口の扉が目に入る。そこで思いついた。

「あ、認証ログ!」

 各部屋のドアを開けるには、扉のすぐ脇にあるパネルに触れる必要がある。そのセンサ部分に触れると認証システムがデータベースにアクセスし、その者に入室権限があるかどうかを確認するのだ。権限があれば扉は開き、なければ当然開かない。そして保安上、記録ログは〈森の精〉ヴァルトガイストシステムのサーバに一定期間残される。

 サーバのログを閲覧するには、煩雑な手続きが必要だった。しかしキーパネルのメモリに記憶された最新数件分のログなら、その部屋に所属する者に限り、手続きなしでも確認できる。

 エビネはすぐさま扉に駆け寄ると、壁にはめ込まれたパネルにとりついた。センサ部分のすぐ下に、いくつかのアイコンが表示されている。その一つを押してログ確認モードに切り替えると、センサに掌を当てた。認証されたことを告げるアラート音がし、センサ横の小さなモニタに文字列が表示される。ログ閲覧を許可された新米広報部員は、素早くその内容に目を通した。

 自分が出て行ってからこの部屋を訪れたのは、一人しかいなかった。総務部のバーバラ大尉だ。

「大尉が?」

 エビネは思わず首を捻った。

 彼女は動物嫌いではなかったが、とりわけ猫好きということもなかったはずだ。そんな彼女がコーデリアを連れ出すだろうか。

 だがいまのところ、他に手掛かりはない。とりあえず話を聞いてみるべきだ。

 エビネはログ確認モードを終了させると、扉を開けるためセンサに触れなおした。ドアが開ききるのを待たずに部屋を飛び出す。足早に、同じフロアの東サイドにある総務部を目指した。

 ところが総務部を訪れたエビネは、肝心のバーバラ大尉に会うことができなかった。総務部のぬしである彼女は、必要書類回収行脚――つまり提出期限の過ぎた書類の取り立てに出ているというのだ。

 書類の督促など、メールや通話一本ですみそうなものなのに。

 そのエビネの疑問に、総務部のボガート中尉は意味深な笑みで応えた。

「メールは見なかったことにできるし、通話は言い逃れできるだろ?」

「……なるほど」

 思い当たる節があって、エビネは大きくうなづいた。確実に取り立てるには、直接出向いて目の前で書類を作成させるに限るというわけか。まあ、そのように強引で手間のかかることを〈森の精〉ヴァルトガイストで実践しているのは、バーバラ大尉ぐらいだろうが。

「取り立てなんて、ここの隊員には却って逆効果なんだけどな」

 と、ボガート中尉は苦笑する。その彼にバーバラ大尉が戻ってきたら連絡をくれるよう頼むと、エビネは総務部を後にした。

 コーデリアを捜しがてら、フロアを一周する。北サイドにある経理部前を通過し、突き当たって西側通路へと折れる。と――。

 すぐ手前のエレベータから出てきた〈グレムリン〉たちと鉢合わせした。

 こんなところでさっき別れたばかりのエビネに出くわしたのが意外だったのか、少年たちは驚きの声をあげる。

「准尉!」

「え、大佐たちと出かけたんじゃなかったの?」

 少年たちと同じく、エビネも目を丸くして訊き返した。そんな彼に、ヴァルトラントが自嘲めいた顔で答える。

「やっぱ、中佐のコトが気になってさ。それより、准尉こそどうしたの? 〈黒しっぽ〉の様子見に帰ったんじゃなかったの?」

「それが……」

 エビネは、コーデリアが失踪したことを手短に説明する。話が進むにつれ、少年たちの表情が強張ってゆく。

「いなくなったって……」

「マックスに知れたら、大変じゃない!」

 少年たちも、広報部長がどれだけコーデリアを溺愛しているかを知っている。彼に気づかれる前にコーデリアを見つけなければ、広報部だけでなく基地全体を巻き込む騒動になるだろう。

「一緒に捜すよ」

「でも、君たちはブライアー中佐に用事があったんじゃ……」

 遠まわしに、エビネは辞退した。

 確かに〈グレムリン〉たちの申し出はありがたい。だが、彼らがブライアー中佐に会うために大佐たちを待たせていると思うと、それ以上時間を取らせるようなことはさせたくなかった。

 しかしヴァルトラントとミルフィーユは退かなかった。

「そうだけど、〈黒しっぽ〉も大事だよ」

 そう言って、即座に動き出す。

「とりあえず、父ちゃんたちに言っとこう」

 ヴァルトラントは携帯端末を取り出すと、待っている父親に事情を説明する。

「〈黒しっぽ〉? なんでブライアー中佐に会いに行って、猫捜しになるんだ?」

 端末の小さな画面の中で、基地司令官が呆れた声をあげた。

「ううっ、すみません……」

 ウィルとヴァルトラントのやりとりを脇で見ていたエビネは、大佐から見えているわけでもないのに思わず首を竦めた。ヴァルトラントが気にするなとばかりに目を向けてくる。そのとき、あどけない声が端末のスピーカーから飛び出した。

「にーちゃん、〈黒しっぽ〉なら見たよ! さっき〈樹〉の上に、ピューッて登っていった」

「ええっ?」

 意外な目撃証言に、広報士官と〈グレムリン〉たちは思わずモニタを覗き込んだ。

「さっきって、いつ?」

 ミルフィーユが弟に問い質す。バルケットは少し考えてから答えた。

「にーちゃんと会う前」

「三〇分……下手したら一時間は前か――」

 エビネは顔をしかめた。それだけの時間があれば、かなり遠くまで行ける。司令部ビルから出てしまった可能性もでてきたわけだ。

 一気に広がった捜索範囲に、エビネは気が遠くなりそうだった。もはや三人で捜し出すのは難しいだろう。かといって基地中で目撃者を募ろうものなら、お節介な密告者によって、たちどころに広報部長の知るところとなる。

 そうなれば、腹を切って詫びる前に撃ち殺されるかも知れない。

 据わった眼で自分に銃をつきつけるルビン中佐の姿が目に浮かび、エビネは慄然とした。

「とにかく下に行ってみよう」

 顔を強張らせて固まっているエビネの背中を、〈グレムリン〉たちが力づけるように軽く叩いた。


「――そう心配すんな。警備システムのログを洗えば、猫の足取りはすぐ掴める」

 〈森の精〉ヴァルトガイスト基地司令官は、落ち着かない様子でそばに立つ若い士官に声をかけた。

 沈黙を破る彼のバリトンに驚いたのか、エビネ准尉がびくりと肩を跳ね上げた。視線を受付カウンターのすぐ手前にある守衛室の扉に向けたまま、しばらくの間フリーズする。

 やがて跳ね上がった肩がゆっくりと下がり、略帽を載せた頭が動きはじめる。不安と恐怖を湛えた瞳が、〈世界樹〉の花壇の縁に腰掛けいてるウィルへと向けられた。

 基地司令官はその視線を常に力強い光を放つ樫色の瞳で受け止めると、安心させるようにかすかに笑みを浮かべた。ウィルの気遣いを知ってか知らずか、エビネは消え入りそうな声で「はい……」と応えた。

 現在イザークとミルフィーユの二人が、受付の奥にある守衛室で警備システムのログをチェックしていた。猫の足取りを追うのは、そう難しいことではない。ビル内の各所に設置された警備カメラが、その姿を「見ていた」はずなのだから。

 だがエビネにすれば、待つだけというのは落ち着かないのだろう。ウィルでさえ、じっとしているのは辛かった。むやみに捜し回るより、ログの検証結果を見てから動く方が効率がいいのは確かだ。それでも闇雲に動き回る方が、まだ気も紛れる。

 不安を鎮めようとしてか、エビネが溜息をついて視線をあげた。つられてウィルも頭上を見上げた。〈世界樹〉がその腕を大きく広げていた。

 〈森の精〉ヴァルトガイストの象徴として〈緑の館〉が創り出したこのトネリコの樹は、そろそろ一〇メートルの高さに達しようとしている。それでもまだ、成長しつづける樹のために確保された空間には余裕があった。さらに高みを目指さんと枝葉を延ばす雄大な姿に、ウィルは知らず溜息を洩らした。

 樹上はひっそりとしていた。どんなに目を凝らしても、猫の姿は見られない。しかし根元を覆う植え込みの乱れが、何者かがここへ踏み込んだことを物語っていた。何者かとは、もちろんコーデリアだろう。

「白い猫ってのが、よく理解わからないけど――〈黒しっぽ〉は、その猫と一緒にいる可能性が高いね」

 ウィルの隣に座っていたヴァルトラントが、琥珀色の瞳を煌かせて推理する。そこへ、コリーンとともに少し離れた場所に立っていたバルケットが、口を挟んだ。

「しろねこは迷子なんだよ」

 しかし推理を中断されたくなかったのか、ヴァルトラントはバルケットに肯き返しただけで言葉を続けた。

「それにミス・バーバラが彼女を連れ出したんじゃなくて、扉が開いた隙に勝手に逃げ出したんじゃないかな」

「いままで、逃げ出そうとしなかったのに?」

 エビネ准尉が、ヴァルトラントを振り返った。ウィルの息子は褪せたセピアの髪をかきあげながら、一〇歳年上の士官に答える。

「いままでそうでも、これからもそうだとは限らないじゃん」

「ごもっとも……」

 ヴァルトラントのぶっきらぼうではあったが核心を衝いた言葉に、若手士官が項垂れた。そんな二人を、ウィルは微笑ましく思う。

 この世に不変なものなどありはしない。常に変化するからこそ時は流れ、人は成長するのだ。

 息子は口では理解わかったようなことを言っているが、どこまで本当に理解できているのだろうか。

 そんなことをウィルがぼんやり考えていると、ミルフィーユ少年の弾んだ声がホールに響いた。

「見つけた!」

 〈世界樹〉の根元で待っていた者たちの目が、一斉に金髪の少年へと向けられた。ヴァルトラントがすかさず訊き返す。

「どこっ?」

 受付カウンターから身を乗り出しているミルフィーユが、すかさず応える。

「いま地下通路の階段を上って、こっちへ向か――」

「くそっ、待ちやがれっ!」

 少年の声に別の声が重なった。

「誰か、その猫を捕まえてくれ!」

 声は、たったいまミルフィーユが示した方から聞こえてくる。ウィルが素早く振り向くと、廊下の奥から二匹の猫が駆けてくるところだった。それを追いかけて、数名の警備兵が階段を駆け上がってくる。

「コーディ!」

 突然エビネが声を上げた。その声に、白猫の前を走っていた斑猫が反応した。エビネに向かって駆け寄ると、慌ててその胸に飛び込む。

「もうっ、どこ行ってたの。心配させて!」

 広報部員は毛を逆立てた猫の身体を、しっかりと受け止めた。安堵に頬を緩め、存在を確かめるように猫の背に顔をうずめる。斑猫は彼の肩に頭を乗せ、甘えるように喉を鳴らした。

 その様子を目の端に捉えつつ、ウィルは白猫の捕獲を試みた。素早く飛び出し、白猫の進路上に立ちはだかった。

 しかし白猫は機敏にウィルの足元をすり抜けると、次に行く手を遮ったヴァルトラントの頭を飛び越えた。警備室からディスクリート父子が駆けてくるが、間に合わない。

「えいっ――あっ!」

 バルケットの小さな手が、あと数センチのところでしっぽを掴まえ損ねた。

 だが軽やかに身を翻していた白猫も、その次に待ち構えていたコリーンを避けることはできなかった。

「さあ、捕まえた!」

 両手を広げて腰を落としたコリーンの懐で、ようやく白猫は動きを止めた。あっさり観念したのか抵抗もせず、やんわりと包み込む腕の中で怯えたように身を震わせている。

 捕獲が完了すると同時に、猫たちを追いまわしていた足音が途絶えた。

「ご協力、感――」

 言いかけた声が一瞬絶句し、続いて驚きの声がホールに響いた。

「大佐!?」

 猫を捕まえた者たちが目を向けると、ホールの入口に数人の警備兵が並んでいた。兵たちはみな、直立不動の姿勢で、面に浮かぶ恐慌の色を必死で隠そうとしている。知らなかったとはいえ、基地司令官たちに捕獲の手伝いをさせてしまったのだ。ウィルたちの機嫌を損ねたのでは――と思ったのだろう。

「も、申し訳ありませんっ、大佐」

 指揮を執っていたらしい下士官が、基地司令官に詫びた。額に脂汗を浮かべ、直立不動の姿勢で中空を睨みつけながらウィルの言葉を待つ。

 自分を必要以上に畏怖する隊員たちに、ウィルは内心苦笑した。だがそのような心境はおくびにも出さず、泰然とした態度で謝罪を受け入れた。

「いや、構わんよ。ハケット二等軍曹」

「あ――失礼しました……」

 名乗る前に名前を呼ばれるという失態に、軍曹はいっそう縮こまった。その面長の顔に、叱責を覚悟する表情が浮かぶ。

 だがウィルは、下士官の非礼をあげつらうようなことはしなかった。それどころか、警備兵たちを見回して礼の言葉を述べた。

「それより、こっちの方が礼を言いたいぐらいだったりする」

「は?」

 予想外の言葉によほど驚いたのか、ハケット軍曹のアゴが外れた。首を突き出すようにして司令官の顔を覗き込んだ彼は、二、三度瞬きしてから聞き返す。

「――と、言いますと?」

 ウィルはエビネ准尉が抱いている猫を示しながら、きょとんとする軍曹に説明する。

「ちょうど、あの猫を捜していたところだった。それを貴官らが発見し、我々の許まで届けてくれた」

 ちらりと斑猫を抱いた若い士官へと視線を向けたハケットは、冷や汗をかきながら「そうでしたか」とだけ応えた。

 そもそも警備兵たちは、猫の飼い主のことは何も知らなかったのだ。ただ、どうやってか備品庫に入り込み、ふざけあって庫内をめちゃくちゃにしてくれた二匹を、とっ捕まえて懲らしめてやろうと思って追いかけていただけである。

 しかし、大佐が好意的に解釈してくれるというのであれば、わざわざ訂正することはない。

「では、確かにお届けしました」

 ハケット軍曹はそう続けると、基地司令官に向かってもう一度敬礼した。ウィルがうなづき返すのを確認してから、回れ右する。頬に安堵の色を浮かべながら、警備兵たちはホールから立ち去った。

 その背中を見送っていたコリーンが、ふと思い出したように口を開いた。

「それはそうと、この白猫はどこの子なのよ?」

「……さあ?」

 白猫に目を向けた男たちが、一斉に首を捻った。猫はコリーンに首元を撫でられ、気持ちよさそうに目を細めている。

「猫飼ってる部署はいくつかあるけど、こんな猫は見たことないよなぁ?」

「うん」

 基地内のことならあまねく網羅している〈グレムリン〉たちが、顔を見合わせた。そこへ白猫の様子を観察していたエビネが指摘する。

「首輪を着けてるので、飼い主がいるのは確かですね。名前入ってないですか?」

「ちょっと待って、どれどれ……」

 エビネの指摘に、コリーンは白猫の着けている高級そうな革の首輪に目を落とした。細い首輪に指を這わせながら、名前らしきものを探し出す。

「ああ、あったわ」

 ちょうど顎の部分にはめ込まれているプレートを見つけ、コリーンは声を明るくした。

「名前はねぇ、ル――」

「ルドルフ!」

「そう、ルドルフ……って、え?」

 あらぬ方向から今まさに読み上げんとしていた名が叫ばれ、コリーンは驚いて顔を跳ね上げた。思わず猫を抱えていた手が緩む。その隙を衝いて、白猫は彼女の腕をすり抜けた。

「ミャーン!」

 白猫ルドルフは嬉しそうな鳴き声をあげながら、声のした方へと駆けてゆく。二組の親子と若い士官は、その動きを目で追った。そして猫の行き着く先で待っている者の姿に、目を瞠った。

 玄関のガラス扉を背に、ブライアー中佐が立っていた。肩で大きく息をしている彼は、駆け寄ってくる猫に向かって手を伸ばすと、もう一度その名を呼んだ。

「ルドルフ!」

「ミャン!」

 ルドルフは元気よく応えると、中佐の懐に勢いよく飛び込んだ。

「よかった……ああ、よかった……」

 誰もが唖然としている中、スキンヘッドに強面の中佐は安堵の表情を浮かべて猫を抱きしめつづけた。


「水です、中佐」

 エビネが守衛室で汲んできた水を手渡すと、ブライアー中佐は一気に飲み干した。それでようやく一息ついたのか、あらためて基地司令官に正対する。

「いやはや……みっともない姿を晒してしまいました」

 そう言って、気まずそうに顔を歪める。その表情にエビネは内心驚いた。これまで神経質そうに眉間にしわを寄せ、口元をへの字にしている中佐しか見たことがなかったのだから無理もない。

 若手広報士官の驚きをよそに、ブライアー中佐は基地司令官たちの手を煩わせたことに対して謝罪し、ルドルフ脱走の経緯を語った。

「ルドルフは孫娘が可愛がっている猫なのですが、孫が学校の行事で一週間家を空けるあいだ面倒を見てくれと頼まれていたのです。この数日、昼間は妻が面倒を見ていたのですが、あいにく今日は急な用事で出かけることになりまして……。これまでルドルフだけ残して家を無人にしたことがなく、また孫と約束したということもあって、私が基地へ連れてきて面倒をみることにしたのです。ところが、オフィスで部下の報告を聞いている隙に、逃げ出してしまい――」

 あとはお約束どおりの展開だ。中佐は慌ててオフィスを飛び出すと、猫の行方を追って基地中を彷徨っていたのだという。部下に手伝わせるなり、エビネたちのように警備システムのログを確認するなりすれば、もっと早く見つけ出せたはずだ。だが大事にしたくなかったということと、いつも苦言をぶつけている部下や他の隊員たちに「孫には甘いおじいちゃん」という姿を見せることができなかったために、独りだけでの捜索を試みたらしい。

 にもかかわらず、〈グレムリン〉と基地司令官という、一番見られたくない相手に取り乱した様を晒す結果となった。それを皮肉と言わずしてなんと言おう。

「それで、いつもと様子が違ってたんだ」

 話を聞き終えたヴァルトラントが、腑に落ちたとばかりに呟いた。中佐を気遣って曇らせていた眉はすっかり開かれている。エビネも中佐が探していたものの謎が解けて、喉に刺さっていた小骨が取れた気分だった。

「うん。中佐にしては、お説教にキレがないと思ったんだよねー」

 親友の言葉を受けて、ミルフィーユが邪気のない笑みを浮かべて言い放つ。〈グレムリン〉たちの指摘に、ブライアー中佐は厳つい顔に苦笑いを浮かべた。

「〈グレムリン〉に隠し事はできんな」

「とーぜん!」

 〈グレムリン〉たちは、勝ち誇ったように胸を張った。中佐の目が一瞬見開かれ、すぐに細められた。深海色の瞳には、穏やかな色合いが滲んでいた。

 場が落ち着いた頃を見計らって、基地司令官が口を開く。

「では一件落着ということで、我々は失礼させていただく」

 猫を抱いた者たちにそう声をかけると、返事を待たずに親友と息子を促して踵を返す。

「あ、しばしお待ちを!」

 慌てたように、中佐は基地司令官たちを引きとめた。

「お急ぎかと存じますが、いましばらくお時間をいただきたい」

「何か――?」

 振り返ったウィルの顔が俄かに曇る。だが呼び止められたことに対する不快を表したのではなようだ。恐らく、基地のことに関する懸案でもあるのかと思ったのだろう。

 ブライアー中佐も大佐の懸念に気づいたらしく、即座に言葉を重ねた。

「いえ、業務のことではありません。少年たちに渡しておきたいものがあるのです」

「俺らに?」

 少年たちは面食らったように目を瞬かせた。そしてどうするべきかと、父親たちの顔色を窺う。

 二人の大佐たちも中佐の意図を掴みかね、思わず顔を見合わせた。が、目でお互いの意思を確認すると、息子たちに向かって肯いてみせた。

 うなづき返した少年たちは、神妙な顔つきでブライアー中佐の前へと進み出る。この後の展開が予測できないのか、緊張に身を強張らせているのが傍で見ているエビネにも感じられた。

「准尉すまないが、しばらくの間あずかってくれないか」

「あ、はい」

 中佐から差し出された猫を、エビネは空いている方の手で受け取った。コーデリアとルドルフが鼻を寄せ合って挨拶する。

 その様子を見てわずかに目を和ませたブライアー中佐は、口元を引き締めて普段の厳しい顔を作ると、気を付けをして待つ少年たちの方へ向き直った。

 中佐は鋭い視線で〈グレムリン〉たちを睨みつけると、ゆっくりとした動作で制服の胸ポケットから何かを取り出した。

「出会ったときに渡しておこうと思っていたのだが、つい渡しそびれていた」

 そう言って開いた中佐の手の中から、二本の棒状のものが現れた。

「あ!」

 中佐の手の中を覗きこんだ少年たちは一瞬目を瞠り、続いてその瞳を喜びに輝かせた。

 中佐が差し出したのは、折畳み式の多目的ツールだった。ちょうど少年たちの手の中に収まる大きさで、プライヤーやドライバーといった数種類の工具とナイフがついている。〈機構軍〉が採用している制式ツールのひとつだ。

 恐る恐る手を伸ばしてツールを受け取った少年たちは、さらに息を呑んだ。確かめるようにツールを何度かひっくり返す。

 何が少年たちをを驚かせたのか気になったエビネは、首を伸ばして彼らの手元を覗き込んだ。

 艶消しされた黒い柄の表側に〈森の精〉ヴァルトガイストのシンボルマークとロゴ、裏側に少年たちの名前がそれぞれ彫りこまれている。これは〈森の精〉ヴァルトガイストの隊員たちでも、特別に注文しなければ手に入れることはできないものだ。

「中佐……」

 自分の手の中のものをじっと見つめていた少年たちは、感極まったように喉を詰まらせた。突然の贈り物に、なんと礼を言っていいのか判らないようだ。

 ブライアー中佐は片手を上げて、懸命に言葉を探そうとしている少年たちを止めた。そして淡々とした口調で言い放った。

「それは『おまえたち』だ」

「俺たち――?」

 言葉の意味を掴み損ねたのか、〈グレムリン〉たちは眉を顰めた。

 中佐は言葉が足りなかったことに気づいたのだろう。軽く自分に舌打ちすると、言葉を付け足した。

「あー、なんというか――つまり、おまえたちの『人を思いやる気持ち』とでも言おうか」

「思いやる気持ち……」

 口の中で反芻した少年たちは、考え込むように手の中のツールに目を落とした。

 俯いてしまった〈グレムリン〉に構わず、中佐は言葉を続ける。

「そのツールは役に立つものだ。しかし使い方をひとつ誤れば、自分だけでなく他人をも傷つけかねない。そして、おまえたちもそうだ。人のためを思って行動しようとするのは、悪いことではない。だがやり方を間違えると、己の身を滅ぼすばかりか却って事態を大きくしてしまう。大勢の者たちに迷惑をかけ、傷つけてしまうことになりかねないのだ。それはおまえたちの望むところではないだろう?」

 一旦言葉を切った中佐は、確認するように少年たちの目を覗き込んだ。ヴァルトラントとミルフィーユが大きく肯く。中佐はうなづき返すと、再び口を開いた。

「これまでおまえたちは、〈森の精〉ヴァルトガイストに守られてきた。だが、これからは違う。幼年学校に入学した者は成人とみなされ、自分の言動に対する責任を負わされる。もう〈森の精〉ヴァルトガイストがおまえたちを守ることはできない。おまえたちは自分のしようとしていることの結果を常に予測し、その意味を把握しておかねばならないのだ」

 言いたいことを言い終えたのか、ホールに響いていた中佐の声が止んだ。不意に静けさが蘇る。

 〈グレムリン〉たちは無言だった。だが反感のせいではないことは、彼らの目を見れば明らかだ。少年たちの目つきは真剣で、視線は依然として手の中の一点に向けられている。中佐の言葉を真摯に受け止め、自分なりに消化しようとしている証だった。

 ブライアー中佐は急かすことなく、少年たちが充分納得できるまで待ちつづけた。

 やがて少年たちはゆっくりと顔を上げた。気後れした様子もなく、堂々と胸を張って、頭上にある中佐の瞳をまっすぐに見据える。中佐も彼らの視線を真っ向から受け止めた。

 贈り物を握る〈グレムリン〉たちの手に、力がこもった。少年たちは大きく深呼吸すると、よく通る声で宣言した。

「これを使うときは、本当に使う必要があるのか、じっくり考えてから使います」

「そして、使ったあとの結果に責任を持ちます」

 微妙に的を外した少年たちの言葉に、中佐の肩が小さく上下した。かすかに眉間が険しくなる。が――。

「……おまえたちらしい答え方だな」

 と呟き、中佐は苦笑で口元を歪めた。

 贈り物のツールは少年たち自身――。

 中佐は自分でそうなぞらえた。だから少年たちの返答は決して的外れではないのだ――と、気づいたのだろう。

 苦笑の中に、ほんのわずか満足げな笑みが混じる。

 少年たちは、輝くばかりの笑顔を中佐に返した。


 その後二組の親子を見送った経理部長と新米広報部員は、放り出していた仕事に戻るべく、最寄のエレベータホールへと向かっていた。

 ブライアー中佐は黙ったままだった。手だけがゆっくりと胸に抱いた猫の背を撫でている。その横顔を、エビネは感嘆の思いで見つめていた。

 まっすぐ前を見つめる中佐の目つきは、普段と変わらず厳しかった。だがその瞳の奥には、彼なりの優しさが隠されているのだ。

 人を甘やかすのは簡単だ。だが甘やかすだけでは人は育たない。それを知っているからこそ中佐はあえて鬼上官となって、隊員たちや少年たちに厳しく接していたのだろう。

 それに基地に入り浸る〈グレムリン〉たちに眉を顰めていたのも、少年たちの身を案じてのことなのかもしれない。基地で騒ぎを起こせば、どんなに隠していてもいずれは上層部の耳に入ってしまう。そうなれば、悪評が少年たちの前途に障害となるのは必至だ。中佐はそれを心配していたのかもしれない。

 とはいえ実際に中佐の口からそう聞いたわけではないので、全てはエビネの憶測だ。だがその憶測はそう外れてはいないと、彼の直感は告げていた。エビネはその直感を信じた。恐らく中佐を苦手に思っていた〈グレムリン〉たちも、同じことを感じているだろう。

「……何だ?」

 ようやくじっと見られていることに気づいたブライアー中佐が、怪訝そうに目を向けてきた。

 エビネは揶揄するような笑みを浮かべて答えた。

「中佐は隊員たちや〈グレムリン〉たちのことを想って、わざと口煩くしてたんですね」

 ひよっこ士官の生意気な言葉に、経理部長の眉間が険しくなった。だがいつものように「生意気な口をきくな」といって怒鳴ることはせず、無言でエビネの顔を睨みつけた。若手広報部員は、相変わらず笑みを浮かべたままその視線を真っ向から受け止める。しばらく奇妙な睨み合いが続く。が――。

 先に目をそらしたのはブライアー中佐の方だった。

 中佐はついと前を向くと、ポツリと呟いた。

「老兵は口煩いものだと、相場が決まっている」

 そうして、気まずそうに口元を歪めた。

 エビネは顔つきをあらためると、真摯な口調で応えた。

「自分はまだまだひよっこですが、いつかは中佐のようになりたいと思います」

 ブライアー中佐の眉が一瞬跳ね上がった。への字に結んでいた口の端が、軽く持ち上がる。

「そうか――」

 しかし中佐は、それだけしか言わなかった。そしてよほど居心地が悪かったのか、ちょうどやってきたエレベータにさっさと乗り込むと、エビネを置いて行ってしまった。

 エレベータホールに一人残されたエビネは、置いてけぼりにされたことに腹を立てるどころか、満足げな笑みを浮かべた。「おまえには無理だ」と言われなかったのが嬉しかった。

 〈グレムリン〉たちはこれから、中佐の言葉を戒めに幼年学校での勉学に励むだろう。彼らが初めての休暇で帰ってくるときには、ひとまわり成長した姿を見せてくれるに違いない。

「そのとき俺も、ちょっとぐらいは成長できてなくちゃね」

 エビネは、中佐の本当の為人とその想いを知る機会をくれた猫に向かって言った。

 コーデリア嬢が、不思議そうに世話係の顔を見上げた。

 彼女も初めての冒険で、何か得るものがあったのだろうか。その蒼い双眸は、これまでになく生命の輝きに満ちているようだった。


Das Ende

- Grow up 2+1 -

Die Reihe "Gremlin!" Digression 1

von 1.June. 2005 bis 1.Oct.2005 Hiro Fujimi

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