幻想即興曲

コマバラ

Op.1

いつしか僕の横に佇んでいた黒いぴかぴかの、白と黒のコントラスト。君は僕を見つめて離さなかった。僕はそれに答えるように君を叩いてぽろんと鳴らした。ただただ音が浮かんでは消える。それだけのことが嬉しくて嬉しくて、僕は君に溺れていった。


君はピアノと言うらしい。僕が君と遊ぶのを、母はたいそう喜んだ。毎日毎日飽きもせず、教えて教えてと母の服の裾を引っ張って、紙面で泳ぐオタマジャクシを追いかけた。上手に弾けたら楽譜には、真っ赤な花丸を咲かせてくれた。

いつしか棚に並んだ楽譜はみんな、立派な花をつけて笑った。ハノンもバイエルもブルグミュラーも。少しくたびれてはいるけれど、それすらも誇らしかった。

そうして僕は君の、広くて、深くて、暗くて、明るい、果てしないおもしろさに激しく酔っていったのだ。


僕は万能だった。ピアノはもちろん、勉強だって大した苦労もせずできたし、運動もそれなりにできた。絵を描くのも文を書くのも好きだった。人ともうまく付き合えた。先生には優等生だと褒められた。だから僕は、このままピアノを弾いて、それ以外は程々に、思い通りにうまくやっていくのだろうと思っていた。実際そうしてやってきた。幸せだった。恵まれていた。


しかし僕は気がつかなかった。


ラの音が間抜けに歪んでいたことに。

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