波濤を越えて

 体の感覚を確認すると、彼は先ほど見た青い部屋の真ん中で、テーブルに向かって立っていた。無意識に立ち上がって進んでいて、その間白昼夢はくちゅうむを見ていたようだ。

 重みを感じて手に目をやると、彼は光る石板せきばんを持っていた。石版せきばん自体が光っているのではなく、そこに浮かび上がっている文字が光を放っているのだと気付くまで、しばらく時間がかかった。オーランドは文字列を読み上げた。


「ウリエル、神の御前おんまえに立つ四人の天使の一柱。神の光にして神の炎よ。裁きと預言の解説者よ。ほむらの剣を持ってエデンの園の門を守る智天使よ。懺悔ざんげの天使として現われ、神を冒瀆ぼうとくする者を永久の業火で焼き、不敬者を舌で吊り上げて火であぶり、地獄の罪人たちを苦しめる者よ。最後の審判の時には、地獄の門のかんぬきを折り、地上に投げつけて黄泉の国の門を開き、すべての魂を審判の席に座らせる者よ。我が声に答え給え……これが、ブリュンヒルドさんが言っていた祭文さいもんか?」


『わからないわ。私はキリスト教徒じゃなかったから知らないだけかもしれないけど、この祭文さいもんを見るのは初めてよ。その可能性は、高いと思う』


「頭が痛いから今日はこれで帰る。暇ができたらまた来よう」


『そうね』


 オーランドは石版をテーブルに置いた。それから、誰にも見つかることなく地下室から自分の部屋まで戻った。

 ニールが帰るまで暇なので、彼はオステン向けの親書しんしょに取り掛かった。


 ――親愛なるオステン領主様へ。たえなる音楽を奏でる楽器を神がノーデンへ授けましたが、我らにはその良さを十全に理解できるとは思えませんでしたので、地上で最も音楽の美を知悉ちしつしている人物であるオステン領主様に差し上げることにいたしました。楽人一人でゼントラムの聖歌隊に勝るともおとらない音色を奏でるこの楽器にご満足いただけましたなら、ノーデンとの境にある燃える水の泉を我々に下賜かしくださいますようお願い申し上げます。


 概要を裏紙にまとめると、オーランドは領主同士に認められた最大限の謙譲語を使って手紙を清書しはじめた。ついでに全力で媚びへつらった世辞や、形式的な美辞麗句も大量に書き込んだため、清書の半ばでオーランドはぐったりしてしまった。少し休もう。ティーコージーからティーポットを取り出し、横にあったカップに黒糖を入れてから注ぐ。火傷しないようちびちびすする。疲れた頭と体に、黒糖の旨みが染み渡った。


『ねえ、この世界には黒糖しかないの?』


 そういえば、この十年は黒糖ばかりだった。凶作きょうさくのため、砂糖大根畑を麦畑に転用したままだったことをオーランドは思い出した。


「いや、白砂糖もあるぞ。今はノーデンでは作っていないが、砂糖大根を絞るんだ」


『砂糖大根があるなら、輪作でカブを作る代わりに、砂糖大根を作る畑を作った方がいいと思う。砂糖は貿易品になるから』


「そうだな」


 あとで触れを出さねば。オーランドはメモにそのよしを書くと、再び親書に取り掛かった。


 糖分補給のおかげか、巧言令色こうげんれいしょくに満ちた仰々しい手紙は日が暮れる前に書きあがった。同時にニールも戻ってきた。ニールから宝箱の見積もりを聞こうとしたとき、オーランドの部屋のドアが激しくノックされた。


「何事だ」


「オーランド様に、来客です!」


 下男だった。しかし、オーランドに誰かを招待した覚えはなかった。教会に蓄音機ちくおんきがばれたのか? 彼は身構えた。


「誰だ」


「夏に舟遊びをなさった時の船頭だそうです!」


 飛行機の残骸ざんがいを探しに行った時の漁師か。オーランドはほっとした。


「会おう。ここに通せ!」


「はい!」


 下男に連れられ、漁師はすぐに部屋にやってきた。恐縮きょうしゅくした様子で、ニールが差し出した椅子にも座らず、ミルクと黒糖たっぷりの紅茶にも手を付けない。彼はホルンを外した蓄音機ちくおんきくらいの箱を抱えていた。オーランドが漁師の顔色をうかがうと、なれない場所で緊張しているというより、何かで憔悴しょうすいしているように見えた。


「遠路はるばるご苦労であった。次期領主として命じる。椅子に座って紅茶を飲め。立たれたままだと、話しづらくてかなわん」


「は、はい」


 漁師はやっと椅子に座り、紅茶を飲んだ。漁師が落ち着いた頃合を見計らい、オーランドはできるだけ穏やかに話した。


「どうして、このような激しい吹雪の中、城までやってきたのか? 春まで待ってもいいだろうに」


「い、いえ、実は……勝手に、音が鳴る箱が流れ着いたんです。ふたを開けたら、聴いたこともないような音楽が流れるんです。それが……旧世界の物そっくりで。でも、どう見たって新品なんです。こんな箱を拾ったってばれたら、教会にばれたら家族全員しばり首……ならましです。村全員異端審問いたんしんもんにかけられて、拷問ごうもんされて地獄みたいな苦しみの末に死ぬかもしれねえんです。この箱の中身はオーランド様にもらった贈り物で、とても漁師の持ち物にはふさわしくないから返しに来たって言って、ここまで来たんです」


 漁師は箱を差し出した。箱はぼろぼろの毛布に包まれ、中身が分からないようになっていた。オーランドが包みをほどくと、案の定ホルンがついていない蓄音機ちくおんきが顏を出した。


「よくやった。この箱は私の権限で処分しておく。他の者には、贈り物を取り換えたという話で通そう。勇気ある行動に対する恩賞おんしょうとして、お前に麦三か月分と、中品質の毛布を家族の人数分送ろう。家族は何人いたか?」


「嫁さんと、子供が4人です」


「6人家族か。今すぐに船に積み込んで、転覆てんぷくする危険性はないな?」


「はい。沖まで出られる船ですし、この風ならベタなぎです」


「ニール! 貯蔵庫から麦三か月分と、毛布を六枚この漁師の船に積み込ませろ! 今すぐにだ。作業が終わったら呼びに来い。漁師を早く帰らせるぞ」


「はい!」


 ニールは元気よく部屋を出ていった。オーランドは漁師を自分のベッドで仮眠させた。

 日が暮れるころ、荷物の積みこみは終わった。運よく雪は止み、皓々と満月が川面を照らしていた。


「これなら、夜明けまでに帰れます。次期領主様、本当に、本当にありがとうございました」


 漁師は何度も何度も頭を下げ、城の船着場から去って行った。


『ねえ、さっきの箱、海を漂流してきたのに、綺麗すぎじゃない?』


 オーランドが部屋に戻り、一人になった瞬間、カーラは口を開いた。オーランドは再び箱を手に取った。海藻かいそうも貝もついていない、ニスのかかった木箱に見えた。


「ああ。つまり、最近海に流されたものだろうな」


『やっぱり、海の向こうには旧世界の技術を保った人々がいるんだよ。今回は箱だったけど、船がやってきてもおかしくないよ』


「そうだな。案外、貿易ができるのもすぐかもしれん」


 オーランドは寝床についた。出来事が凝縮ぎょうしゅくされた一日だったため、彼は夢のない深い眠りに落ちていった。


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