女嫌い

 光る石を触るなといった声のことは気になったが、そればかりにかまけているわけにもいかない。焼け跡から城に戻り、声のことなど忘れて雑務をこなしているうちにあっという間に夜が来た。オーランドは夕食の食器を回収しに来た下男げなんに、自分の寝室に夜の間誰一人近づけないよう命じ、ベッドに入って目を閉じる。今日こそは悪夢を見ないと良いが。そう祈って、オーランドは意識を手放す。


――愛しているわ、オーランド。


 その祈りが無駄に終わったことを、女の声で悟った。見たくもない顔があることをわかっていながら、じりじりとオーランドの視線は上へ向かってしまう。興奮してじっとりと汗ばんだ白磁はくじの肌に、のたうつへびのように張り付いた黄金の長い巻き毛。額縁がくぶちのように巻き毛が取り巻くのは、瑞々みずみずしくふっくらと張りのある重々しい双丘そうきゅう

 その上でオーランドに、欲望にみちた妖艶ようえん微笑ほほえみを向けているのは、絶世の美女、傾城けいせいという言葉は彼女のためにあるのではないかと錯覚さっかくするほどの美しい顔。男ならば誰でも手折たおってみたいと思うはずのはな。しかし、その魅力はオーランドにとって、恐怖以外の何物でもなかった。


「やめて……くれ……母上」


 オーランドの女嫌いの理由を、誰も知らない。正確に言うと、オーランドの母親だけは知っていたかもしれないが。しかしそれも十年前にあっけなくこの世を去った。



 母親は若く、美しかった。すれ違うどんな男も振り向かせずにはいられないほどに。そのめすとしての魅力は、いつだって男を貪欲どんよくに求めていた。ズーデン公の娘としての権力を濫用らんようし、自分以外のノーデン公――オーランドの父親の妻妾さいしょうを城から追い出して夫を独占しただけでは、とても足りないほどに。



 かと言って、母親は、男なら誰でも手を付けるほど馬鹿ではなかった。彼女は、一番近く、一番若く、一番父親に事を告げることがないだろう男を、生贄いけにえに選んだ。



 精を放つ事すら知らない年齢の、オーランドを。



 まだ母親よりずっと小さく、ずっと非力で、母親に歯向かう術を何も持たなかったオーランドは、数え切れないほど母親に犯された。毎夜毎夜、オーランドの寝室から出てくる母親を、父親は一度も疑ったことがなかった。ただ仲のいい親子だと思っていたようだった。



 オーランドは、誰にも母親とのことを話さなかった。誰にも話せなかった。父親にも、デリックにも、友人にも。芯のところで、オーランドはいつも孤独だった。



 母親が死んだ時、オーランドはやっと開放されるのだと思った。けれど、それは間違いだった。



 毎夜毎夜、母親は死んだときと同じ若く美しい姿のまま現れる。オーランドの夢の中に。オーランドは夢の中では非力で小さい体のままで、どんなに止めてくれ放してくれと叫んでも、母親の手技の下に、あっけなく陥落かんらくしてしまうのだ。



 その夜も、オーランドは悪夢を見た。いつものように母親はあやしい笑みを浮かべて現れて、そのすべらかな肌を、豊満な乳房をオーランドの身体にこすりつけ、オーランドは全身で拒否しているのに、一番反応して欲しくないところは全力で反応してしまい、そして目覚めて、下着の不快感が敗北に追い打ちをかけるはずだった。



 だがその夜は、そうならなかった。



『起きて、起きて、これは夢よ、しっかりして、起きて!』



 聞き覚えのある声だった。昼間、光る石が詰まった筒に触ろうとしたときと、同じ女の声。



 オーランドは汗だくになって目を覚まし、しかし、今夜に限っては、己が敗北していないことを知った。これまでになかったことだった。



 翌日も、その翌日も、オーランドは誰ともしれない女の声に、すんでのところで助けられた。





 数日後、デリックがオーランドに告げた。



「先日の、あの光る石の大工ですが、今、ひどく病気しているそうです」



「病気?」



「医者が言うには、食あたりに似た症状らしいですが、それよりもっとひどいとか……あの大工だけでなく、下の者たちも病気になったそうで。伝染病かもしれません、あの時、早く帰ってよろしゅうございましたね、オーランド様」



 あの声は言っていた。それは毒みたいなものだと。近づいてはいけないと。



 あの声は何なのか。あの警告は何だったのか。事実をどう受け取っていいものか、ひどく迷ったが、結局オーランドはこう言った。



「あの光る石には、誰も触るなと言っておけ。中央教会のものが引き取ると言うなら、その後どんな病気をしても、こちらは責任を取らないと言え」



 デリックはきょとんとした。



「あの石に、何かあるのですか?」



「……ある、かも知れない」



 いきなり聞こえだした声。病気を起こしているかもしれない毒。それを知らせた声。自分を悪夢から目覚めさせた声。一体、誰なのだろうか。オーランドは誰にも聞かれたくないのだ。夜、うなされる自分の声を。悲鳴を上げて飛び起きる自分の声を。



 だから、オーランドはあのどこの誰ともしれない声の主をなんとしても見つけるつもりだった。あの声の主は、おそらくはオーランドがうなされる声を聞いて、そして彼を起こしたはずなのだ。後々、領主となる男が毎夜毎夜、何かの悪夢にうなされているなどということは、決して知られたくなかった。断固として口止めするつもりだった。声の主が何者であろうと。




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