フェンネルのせい


 ある晴れた日の昼下がり。

 呑気を絵に描いたような空を見つめながら、私はため息をひとつつく。


 収入のほとんどは配達による売り上げ。

 だったら。


 丸一日かけても、かつての自分の時給ほどしか稼げない店頭販売なんかやめてしまえばいいのに。


 そんな文句を言うと、決まってあの人はこう言う。


 僕は、お花屋さんになりたかったんだよって。


「…………乙女か」


 文句はある。

 大いにある。


 でも、別れるだとか。

 他の男性を選びなおすとか。

 そんな気が起こらない訳はただ一つ。



 私の王子様が。

 乙女だったのだからしょうがない。



「……そう考えるあたり、私も乙女よねえ」


 マンションでしか暮らしたことがない私が生まれて初めて暮らす一軒家は。

 地面から屋内へ上る段差がやたら高くて。

 お店から家の中へ入る時も、膝からただいまって感じ。


 そんな玉のれんの先では、あたしの言うことをまるでききやしない娘が。

 いつものように隠した宝石箱を見つけ出して。

 ブローチを入れたり出したりして遊んでる。


 ここのところ、パパがせっせと仕事をしているせいで。

 この子は一人で静かに遊んでるけど。


 ほんと、何考えてるのか分からない。

 それ、楽しいの?


 そう言えば、ここのところお隣りさんは遊びに来ないわね。

 そのおかげで静かに過ごせるけど。


 こう暇じゃ、脳が老けちゃうわ。

 もっとこう、しのぎを削るような。

 そんな張り合いのある敵と戦えないものかしら。


 ……そんなことを考えていたせいね。


 まさか、よりによって。

 一番の強敵が現れることになるなんてね…………。




 ~ 十月九日(火) 勉誕パ省榊目目目目目目目目善 ~


   フェンネルの花言葉 賞賛に値する



 甘い目玉焼きを大量に食べさせられただけでも時間のロスなのに。

 穂咲が三十分だけと言い出して、学校帰りに原村さんのワンちゃんを愛ではじめたので。


 明日のテストを気にしながらも、単語帳片手に近所をうろうろしていた俺は。

 妙なものを見つけたのでした。


「こんなところで何をやっているのです?」

「そりゃ、俺のセリフだが?」


 通学路からは随分離れている、年季の入った一軒家の前で。

 排水溝の泥さらいなどしている六本木君に出くわしました。


「渡さんは? 一緒に教室を出ましたよね?」

「重そうな荷物抱えたばあさん見かけてな。香澄は今回と期末の成績が大学推薦の考査に響くから、学校に忘れもんしたってウソついて帰したんだ」

「で? そのおばあさんの家の前を泥さらいですか」

「今朝までは大したこと無かったのに、急に詰まっちまったんだとさ。こんなの男手が無けりゃ無理だろうからな」


 スコップを泥の山に刺して、折り返した袖であごの汗をぬぐいながら六本木君は言いますけれど。


「だからと言って、自分でするなんて。役所に電話するとかあるでしょうに」

「別にいいだろ? 俺がやりたくてやってんだ」


 やれやれ。


 同級生なのに尊敬できて。

 同級生だから劣等感を感じる。


 そんなこいつを眺めていたら。

 ついこの間、渡さんに言われたことを思い出しました。



 ここしばらく、俺がずっと思い悩んでいたこと。

 みんながどんどん大人になっていくような気がして。

 焦りと共に、劣等感を感じるようになったと相談した俺に。


 渡さんは、何をバカなと笑いながら。

 比較では無く、競い合えばいいじゃないと。

 胸のすくようなことを言ってくれたのです。



 そんな渡さんも。

 六本木君と二人、きっとそうしてお互いを高め合っていったのでしょう。


 ……俺も。

 そんな素晴らしい友達に、置いて行かれないようにしなきゃ。


「手伝いますよ」


 鞄と単語帳を置いて。

 制服の裾を折り始めた俺に。


 六本木君は作業を再び始めながら。

 ぽつりとつぶやきます。


「advertise」

「は?」

「advertise」

「…………余裕がある」

「お前は手ぇ出すんじゃねえ。単語帳一周するまでそこで勉強してろ」


 あれ?


 地面に転がした単語帳を拾い上げて確認してみると。

 確かに答えが間違っていたのですが。

 これは……。


「あ。一つずれて覚えちゃったのです。他の単語は完璧ですのでご安心ください。それでは俺も……」

「criticism」

「好奇心」

「お前まさか、全部ずれて覚えてるんじゃねえだろうな?」

「ほんとに!?」


 スコップを振るう六本木君に笑われて。

 あわてて単語帳を捲ってみましたが。

 おっしゃる通り、これも一つずれて覚えてしまっているのです。


 急に不安になった俺が。

 他の単語を確認している間に。

 優しそうなおばあさんが、家から出て来ました。


 そして、泥さらいの御礼にと。

 お菓子の包みのような物を六本木君へ渡そうとしたのですが。

 六本木君は笑いながら、でもきっぱりとそれを断るのです。


「あのな? 俺は親切ってやつをしたくてやってるんだ。そんな大層なもん貰ったら親切じゃなくて、ただのバイトになっちまうだろ?」


 それは近所の子供にでも配ってやってくれと。

 六本木君は、白い歯をにっこりと口から零すのです。


 ……まったく。

 こんな男と、どう勝負すればいいのです?


「やっぱり、そんな姿を見せられたら勉強どころじゃないですよ」


 俺も靴を脱いで。

 泥が詰まった排水溝へ浸かると。


 口をとがらせた六本木君が。

 また、ぽつりとつぶやきます。


「……seldom」

「滅多にまるまるしない」


 どうやら、ようやく正解できたようで。

 六本木君は、滅多にしない舌打ちなどしていますが。


 俺も、嫌な課題をこなしているというのに。

 滅多にないほど清々しい気分になることが出来たのでした。


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