紫陽花と微笑み

椿叶

紫陽花と微笑み

 スマホのバイブの音で目が覚めた。どうやら俺は机に向かったまま寝ていたらしい。

 何、メール? だったら眠いから寝る。返信は後ででいいや。そう思って再び教科書を枕に突っ伏したが、いつまでたってもスマホは振動し続けている。あれ、これはメールじゃない。電話じゃねえか。

 画面には吉田礼と表示されている。高校のときの友達だ。

「もしもし」

『うーす、孝太』

「うーす、じゃねえよ」

 俺の声は寝起きの声をしていた。

『寝てたの? まだ八時だぜ? 寝るのには早えって』

「うっせ。寝落ちだよ、寝落ち」

『あっそ。じゃ、お前ライン見てないか』

「は? 何があった?」

『二年のときのクラスライン、後で見てみ。なんか久々に集まろうって』

「千葉まで帰んのかよ」

『遠いっすねえ。ぶっちゃけ面倒くさい。でも孝太今、東京だろ? お前まだ帰りやすくない?』

 吉田が今住んでいるのは埼玉である。帰れなくもないが帰るには少し面倒な距離だ。

「まあな。しかもお前、学校から家まで一時間以上あるもんな」

『そうそう。ほんと、よく通ってたよ』

 俺たちは千葉のある高校に通っていた。今年の四月に卒業してまだ二ヶ月しか経っていないのに、なぜだか高校に通っていた頃が随分昔のように感じられる。大学が充実しているからと言えば聞こえはいいけれど、俺にとっては高校の思い出がそんなにない、という方が正しい。一年のときのことはもはや覚えていないし、三年のときの記憶に至っては受験に塗りつぶされている。面白かったのは二年のときだけか。

「とりあえずさ、お前行くの? っていうかいつ、クラス会」

『迷い中。だからお前に聞いた。日付けは六月の……、とりあえず今月末。あとでライン見て』

「覚えてねえのか」

『悪かったな』

 吉田はふてくされた。

「決めたら言うわ。ありがとな」

『おうよ』

 電話を切る。

 クラス会、ねえ……。

 そもそも、何で今年クラス会なのかって事がよく分からない。まだ浪人してるやつだってたくさんいるのに。まあどうせ計画立てたのは水崎あたりだろうしなあ。あいつらは受験期も結構遊んでたみたいだし、浪人なんて言葉頭に無いんだろ。だとしても、ちょっとは他に気を遣ったらいいんじゃないの。ついでに、うちのクラスはまだ受験してるやつも集まりたいって思うほど、良いクラスじゃなかったと思うよ。それくらい良いクラスだなって思ってんの、お前らだけだかんな。

 ラインを開くと、高校二年のクラスラインにメッセージが届いていた。


『六月二十八日にクラス会やるよ!

 場所は未定だけど、学校の近くでやるつもりだよ

 六時か七時に始める予定!

 行けるよって人はスタンプ押してね!』


 そのメッセージを送ったのは、案の定水崎だった。今のところスタンプを送っているのは水崎と仲の良い連中だけだ。さてさて、どれだけ他の人も返事するんだろうね。気を悪くする人もいるだろうし。

 面倒くせえな、クラス会。断ろうかな。バイトすでに入れちゃったんだー、とでも言っておけばいいっしょ。バイトやってねえけど。

 俺の友達に会う分にはクラス会じゃなくなっていいんだ。吉田が今住んでいるところにだって一時間足らずで行ける。他のやつらにだって、池袋とか新宿あたりで集合してしまえば会うのは簡単だ。わざわざクラス会に出席する必要は無い。

 吉田に「クラス会行かないことにした」と打とうと思って、気がついた。一人だけ、いる。クラス会じゃないと会えないやつが。

 打った文字を消す。それからトーク画面に戻ってその人の名前を探した。

 藤田鈴、藤田鈴。ふじた……。あれ、見つからないな……。最後にラインしたのいつだっけ。えっと、卒業式の日だから三月の十何日か。大分前だなあ。お、いたいた。

『二年のクラスライン見た? クラス会行く?』

 文字だけ打って、本当に送るかどうかしばらく悩んだ。いやだって、急すぎないか。だってしばらく連絡取ってないんだぞ。仲良かったのは二年のときだけで、三年になってからほとんど会ってないし。そういえば卒業式の前日もおんなじこと考えてなかったか、俺。

『久しぶり。元気?』と文字の前に付け足した。だけど、いきなりなものは変わらない気がする。でも、この前連絡取ったときより急ではないかな。あーでもやっぱり、その時は卒業式でいろんな人が卒アルにメッセージ書いて貰うために、いろんな人と連絡取っていたわけであって、今とは全然状況が違うよな。

 ええい、もういいや。送ってしまえ!

 送ってしまうとなんだか吹っ切れたみたいになって、先ほど悩んでいたことが急に阿呆らしく思えてきた。スマホを机の端に置いて、閉じていた教科書を開いた。

 こんなに緊張して送信ボタンをタップするの、そうそうないだろ。馬鹿じゃねえの。

「あほらし」

 ぽつりと呟く。勉強に集中しようと思ったが、ちっともできなかった。いつ返事が来るかな、ということばかりが気になってしまう。結局、スマホをぼんやりといじって時間を潰した。




 高校二年のときのことだ。最初の席替えで一番後ろの席になった俺は、クラスの様子を観察するのが日課になっていた。誰と誰が仲が良くて、どこのグループには誰がいて、どこのグループが力を持っているか……。六月に入って、月末の文化祭が近づいてくるとクラスの人間関係は大分分かりやすくなってくる。しばらく観察しているが、今のところ退屈してはいない。

 力を持っているグループは水崎のところ。イケメンでスポーツができるやつが多い。女子とも仲が良かったり、仕切ったりするのが好きなやつばかりで、文化祭を上手に取り仕切っている。彼らに任せておけばそれなりにクラスの出し物も上手くいくだろう。

 この時期になると、水崎たちのように文化祭の話を休み時間に進めたりするところも多いのだが、やはりそれに全く当てはまらないところも存在する。部活が忙しくて文化祭どころではない人たちや、そもそも文化祭に興味のない人たちのところなんかがそうだ。

 文化祭興味無い軍団の中でも見てて面白いのは、ある女子四人組のグループだ。そこはいわゆるオタク集団なのだが、偶然かどうかは知らないが、ちょっと変わっている。自分の好きなアニメや漫画のことばかり話す人が二人。普段は聞き役だけど、自分の話になると急に興奮して話す人が一人。あと一人は完全な聞き役。何でこんなに彼女らについて分かるのかというと、彼女らの声がとても大きいのと、集まっている場所が俺の隣だからだ。ぶっちゃけかなりうるさい。嫌でも彼女らの話している内容は聞こえてくるし、そのうち彼女らの好きなアニメも全部把握してしまいそうでうんざりする。そんなんだから、完全な聞き役の子がちっとも喋らないで相槌ばかり打っているのは、その中でもどこか異様で、なんとなく目を引いた。

 彼女らはなぜかいつも、完全な聞き役の藤田鈴の席に集まりたがる。藤田さんが自分の話を聞いてくれるからだろうか。ただ喋りたいだけの他のやつらにとって、無口な彼女に話していることが最も楽なのだろう、というのが俺の見解だ。藤田さんはただ「うんうん」と作り笑いを浮かべながら頷いていたり、「へえ、面白いね」と言ったりしている。本当にそればかりしか言わないのかと思っていたら、「あの、教室中に声響いてるから、もうちょっと小さくしようよ」と小さい声で言ったことが一度あって、「この人喋るんだ」と変に感心したことがある。

 藤田さんは彼女らと話すとき、いつも作り笑いを浮かべている。ただ、笑い方がへたくそだ。作り笑いだとすぐに分かる表情をしている。一人でいるときは無表情だから、多分他のやつらに気を遣って無理に合わせているのだろう。藤田さんはいつもこんな感じだ。

 放課後になるまで俺は暇さえあればクラスを眺めている。吉田には「面白いか、それ」とよく聞かれるのだが、席替えで前の席にならない限りは続けるつもりだ。

 その日は雨が降っていた。天気予報よりも早く降り始めたため、傘が無いと騒いでいる人たちも少なくなかったが、俺は折りたたみ傘を片手に一人で家に帰っていた。

 部活は雨で休みになった。室内で筋トレすればいいのに、と思ったが、ゆるいサッカー部なのだから仕方ない。歩いて帰れる距離に家があるのをいいことに、ぶらぶら歩きながら帰った。文化祭の準備も出たくはなかった。かといって、家に帰っても勉強以外やることはない。できるだけのんびりと帰ろう、ちょっと寄り道もしよう。そう思って、普段通らない道を通ることにした。

 ふらふら歩いていると、やがてある公園の前を通りかかった。

 あれ、うちの学校の女子がいる。雨なのに、何してんだろ。

 紫色の傘を差しているせいで誰かは分からないが、うちの学校の制服を着ている。スカートの丈は校則で指定された長さで、そこから伸びた足はすらりとしている。よく見ると足だけじゃなく全体的に華奢で、とても運動部に属しているとは思えない。文化部かな、と俺は勝手に推測した。その人は紫陽花の前にじっと立って何かをしている。向こうは俺に気がついていない様子だ。誰だろう。知ってる人かな。

 まあ、知っているわけないか。そう思って注意をそらした時、パシャ、とシャッターを切る音が聞こえた。思わず振り返る。

 偶然、顔が見えた。スマホの画面を見て、嬉しそうにわずかに微笑んでいる。その人は藤田さんだった。

 笑うんだ、この人。

 驚いて、立ち止まってしまった。藤田さんが顔を上げる。浮かんでいた表情が消える。

「最悪」

 そう呟いたように聞こえた。

 ええ、俺悪いことしてないんですけど……。見られなくないっていうのは分かるけど……。

 藤田さんは俺をキッと睨み付けると、すたすたと早足に去って行った。

 明日気まずくないですか、これ。席隣じゃん。いや接点無いけど。


 次の日、昨日の心配は杞憂に終わったと分かった。藤田さんは朝くるとすぐに、つけていたヘッドフォンを外して、無表情にこう言った。

「桜井くん。おはよ」

「おはよう」

「昨日何してたの?」

「いや、寄り道……。藤田さんこそ何してたの」

「写真撮ってた。恥ずかしいから人に言わないでね」

 藤田さんはどうやら口止めをしたかったらしい。

「言わないよ。ねえ、藤田さんは紫陽花好きなの?」

「うん。好き」

 その時の会話はそれきりだった。だけど、「好き」と言ったときの藤田さんの表情は、昨日見たものによく似ていた。その表情はしばらく忘れられなかった。

 これ以来、藤田さんと話すことが増えた。朝来たらおはよう。ごめん授業ちょっと寝ちゃった、ノート見せてもらえる? 昨日、俺も紫陽花見つけたんだぜ。修学旅行楽しみだね、どこ行くつもりなの?

 ありふれた会話だった。藤田さんは気を遣っていないのか、面白いと思っていないのか分からないが(前者だと俺は信じたい)、いつも無表情だった。藤田さんが撮った紫陽花の写真を見せて貰うこともしばしばあった。俺はいつの間にか紫陽花が好きになっていた。

 席替えしてからも、会ったら挨拶したり、次の授業なんだっけ、と話したり、話す頻度こそ落ちたけど、話すことはやめなかった。

 とはいえ、三年になってクラスが分かれてからはほとんど話さなくなった。藤田さんに会うこと自体がほとんど無くなったからだ。気がついたら受験に忙殺されていて、気がついたら卒業式になっていた。

 卒業式の日も、以前と同じようなことしか話さなかった。




 スマホが振動する。

 うわっ、びっくりした。ぼーっとしてた。危うくスマホ落とすところだった。なんかちょっと二年の頃が懐かしいなあとか思っちゃってたよ。

 あ、藤田さんから返信きてる。

『久しぶり。桜井くんは行くの?』

『考え中。どうしようかなって』

『友達は行かないって言ってから、私も迷ってた。一応予定は空いてるの』

『そうなんだ。吉田も迷ってるってさ』

『そっか』

 なんかこのままだと埒があかない気がするな。何て打とうかな。そう迷っていると突然藤田さんが電話をかけてきた。

「もしもし?」

『ご、ごめん。間違えた』

 俺は思わず笑った。

「いいよ、このまま話そうよ。そっち今平気?」

『自分の部屋にいるから平気。桜井くんこそ平気?』

「うん。平気平気」

 藤田さんとはラインやメールでやりとりすることはほとんどなかった。だから、電話でとはいえ、話しているという状況になんだかほっとしていた。

「クラス会ねえ。受験の人もまだいるのにって感じだよな」

『私たちは大学生だからいいけどね。他の人はね』

「それな。どうしようかな。水崎たちのことだから、どうせみんなで集まった写真、クラスラインに載せるだろ」

『水崎くんならそうする。気が遣えないね』

 辛辣な言い方、変わらないな。

「まあ、クラス会は行かないにしろ千葉には帰りたい」

『実家?』

「それもあるけど、紫陽花見に行くのもいいかなって」

『私も見に行きたい。関東の名所は制覇したいの』

 なんだか意外な展開になってきた。「そうだね」って言って、「決めたら教えてね」で会話が終わると思っていたのに。

「どこは行ったの?」

『まだ埼玉のとこ一つしか行ってない』

「もっといろんなとこに行ってると思ってたよ」

『実はね。でも、今度鎌倉に行くつもりなの』

 声が楽しそうだ。きっと電話の向こうでは微笑んでいるんだろうな。

 藤田さんの自然な微笑みは、紫陽花の話をしているときだけに見られる。普段そういう表情は絶対にしないけど、してたら多分モテると思う。

「おお、鎌倉か。なんか俺も行きたいかも」

 今度行こうかな、と言う前に、

『い、一緒に行こう!』

 一瞬、心臓が跳ね上がった気がした。

 嘘だろ。もう、意外な展開なんてもんじゃない。

『知ってると思うけど、私方向音痴だから、初めての場所不安だし』

「お、おう」

 確か藤田さん、修学旅行の時迷ったって言ってたな。

『あと、紫陽花好きな友達が桜井くんしかいなくて』

 狂った心音のペースがゆっくりと元に戻っていく。

 初めて友達と言われた。その「友達」って言葉はじんわりと胸に染みこんで行って、ちょっと苦いような、それでいてあたたかくてふわふわした気持ちを残していく。

『誰かと一緒に行きたくて。あの、うん……。ごめんやっぱり何でも無い』

「え、ええ」

『言わなかったことにして』

 藤田さんはいつもの無表情な声に戻っていたが、普段よりずっと早口だった。ちょっと待てよ、ちょっと。ああ、電話は切らないで。

「ねえ。一緒に行こうよ」

『気を遣わなくてもいいからね?』

「遣ってない遣ってない」

『ほんとに言ってる?』

「言ってる言ってる。一緒に見に行こう、紫陽花」

 藤田さんはしばらく黙った。それから念を押すような調子で尋ねた。

「いいの?」

 そんなに慎重にならなくてもいいのになあ。

「うん。空いてる日教えてよ」

『ありがとう』

 電話の向こうで、藤田さんが笑ったのが分かって、俺も微笑んだ。いつになくやわらかい声で、どんな風に笑っているのか見てみたくなった。

『あとでURLとか、空いてる日付けとかまとめてラインで送るね』

「おっけー。待ってる」

 電話を切って、吉田に『クラス会行かないことにした』と送った。

 手帳を開く。よし、今月は学校ある日以外は予定無いな。藤田さんに合わせよう。

 スマホが再び振動する。

『来週末、空いてる?』

 俺は笑って、スマホを開いた。

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紫陽花と微笑み 椿叶 @kanaukanaudream

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