第八話 結局のところ、きみが居なくても世界は何も変わらない


 目を開けて最初に見えた天井は、大学病院の集中治療室のものだった。結論を言えば、俺はやはりトラックに撥ねられていた。しかも左足と肋骨を骨折し、頭部挫傷による意識不明の重症に陥っていた。

 身体中が痛いし、首すら動かせない。出来るのは瞬きくらい。それでも、傍らに居た女性は俺が意識を取り戻したことに気が付いてくれた。


「賢悟さん!? 良かった、本当に良かった……」


 セミロングの髪に、赤い縁の眼鏡。美里さん、と名前を呼ぼうとしたが声が出なかった。それでも俺の手を握り締めて、ぐすぐすと涙ぐむ彼女に何とも言えない複雑な感情を覚えた。



 この胸を焦がすような感情は、一体何なのか。結局、退院した今でもわからない。もしかしたら恋とか、愛とか。この温かでくすぐったい思いこそが、そういう代物なのかもしれない。

 何にせよ、この感情のおかげで美里さんと過ごす時間を苦痛だとは思わなくなった。薬指の指輪も窮屈だと感じることがなくなっていた。


「無事に退院出来て良かったね」

「そうだな。あのまま一生、病院で車椅子生活かと思ったよ」


 あの事故から、瞬く間に時間が過ぎ去った。真夏の日差しはどこにも残っておらず、今の星坂にあるのは痺れるような冬の空気だ。今年は幸いにも雪が少なく、平坦に近い道はリハビリ明けの足でも何とか歩くことが出来る。

 半年という時間を病院で過ごした。でも、零と過ごしたあの一瞬の方がずっと長く感じる。激痛に耐えた期間よりも、彼と話した数時間の方が色鮮やかに思い出せる。

 それなのに、零は居ない。この世界のどこを探しても、彼は居ないのだ。実家にも電話して、数年ぶりに友人達にも連絡をとって確認した。


 鷲津零は死んだ。あのマンションで気儘に一人暮らしを謳歌していた親友は、もう存在しないのだ。


「まだしばらく仕事は出来ないから、美里さんに迷惑をかけてしまうけど。ごめんね」

「ううん、気にしないで。星坂でなら、お義父さんとお義母さんにも協力して貰えるし。もう夫婦なんだから、どんどん頼って欲しいの。賢悟さん、今までずっと他人行儀だったから……頼って貰える方が嬉しい」


 かなりの大怪我を負ったものの、幸運にも後遺症が残ることはなかった。なんとか日常生活が送れる程度に回復したこともあり、俺の療養の為に二人で星坂の実家へと帰ってくることになったのだ。

 冷たい海風に、頬や耳が痛い。この時期に海沿いを歩くのは流石に厳しいものがある。


「ありがとう。六月までに復帰出来るように頑張るから。結婚式までには間に合わせないとね」

「気にしないで。あなたが生きてくれているだけで、わたしは嬉しいの。結婚式なんて延期したって良いし、中止になっても構わないわ」


 入院生活を通して知った。美里さんは、俺が思っていた以上に図太くて肝が据わっている。今はまだしも、今後は彼女に引っ張られて、なんなら尻に敷かれてしまうかもしれない。

 ……それでも良いか。


「あの、美里さん」

「ん? なに?」


 俺が足を止めれば、一歩先に行って彼女も立ち止まった。ざあ、と一際強い風が吹き込んだ。

 あの時、零と再会出来たこの場所。今度は美里さんと共に歩く。


「俺……この通り不器用だけど、あなたと一緒に生きていきたいと思っています」


 遅すぎるプロポーズ。我ながら馬鹿だ。彼女を幸せにしてあげられる自信なんかない。むしろ、子供が出来たら川原さんのように全てを押し付けて逃げ出してしまうかもしれない。

 彼女以外の人間は相変わらず苦手だし。やはり、零のように一人で暮らしていた方が良いのでは。何度もそう考えた。

 でも、俺が出した答えは彼女と共に生きることだった。この先何があるかはわからないが、それでも決めたのだ。


「……はい、よろしくお願いします」


 くしゃくしゃな笑顔に、震える声。目元を指で擦りながら、美里さんは俺の思いを受け止めてくれた。素直に嬉しい。

 この人と二人なら、この先も何とかなるかもしれない。


「零……俺も、何とか頑張って生きてみるよ」


 お前が居なくなった、この世界で。きっと零も、俺が居ないあの世界で今も彼なりに生きているのだろう。同じ世界で生きることが叶わなかったのは悔しいが。

 俺達のどちらかが死んでも、世界は同じだった。でも、何も変わらないというわけではなかった。ほんの一部分だけだが、確実に世界は変化する。


 自分は確かに世界を構成する一つのピースであり、それが無くなれば世界は変わる。思いもよらぬところで、変わってしまうのだ。


「そういえば、川原さんは今どこに――」

「こーらー! 待ちなさい、なこ。危ないわよ!」

「きゃははー! うーみ、うーみ……きゃっ!?」


 どん、と軽い衝撃。少々よろけるが、松葉杖のお陰で何とか倒れずに済んだ。考えごとに耽るあまりに、駆けてくる女の子に気が付かなかった。

 彼女の方も、海に意識を傾け過ぎていて俺にぶつかってしまったようだ。美里さんが俺を支えるようにして、肩に手を添えてくれた。


「賢悟さん、大丈夫?」

「あ、ああ」

「す、すみません! お怪我はありませんでしたか? ほら、なこ。謝りなさい」

「はわわ……ご、ごめんなさい」


 慌てて駆け寄ってきた母親が俺に何度も頭を下げる。ああ、なんということだ。化粧は薄く、服装も地味なものに変わっているが。間違いない。


「か、川原さん……だよね?」

「え……あ、あれ? もしかして、薮木くん!?」


 久し振り! 彼女の明るい表情も、その左手薬指に嵌められた指輪もまるで別人だ。母親を不思議そうに見上げる少女も可愛らしく着飾っており、痣などどこにも見当たらない。

 彼女たちもまた、変わっていて欲しいと願ってはいたが。


「……ふ、ははっ。一人分の影響力って……結構大きいんだな」


 思わず、吹き出すように笑ってしまう。自分の預かり知らぬところにまで影響するとは。

 これは、ますます死ぬわけにはいかないよな? 眼前で比較的穏やかに波打つ海に、心の中だけでそう問いかける。答えはもちろん返って来なかったが、意地の悪い笑い声が聞こえてくるようだった。

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結局のところ、きみが居なくても世界は何も変わらない 風嵐むげん @m_kazarashi

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