夜鳴きそば
「えっ、えっ!?」
私を見るなり、後ずさりするアカネB。
あ、そういえば、ハードディスクを振り上げたままでした。
「ああ、すみません。刺客かと」
「ビックリしたよ……」
アカネBは汗を拭います。
そのまま振り下ろしてやろうかと思いましたが、刑法二百八条もしくは二百四条でしょっ引かれることになりますからやめてきましょう。
アカネBは、部屋の中を覗き込んで、何かに気がついたようです。
「あれ、まだ仕事中ですか?」
画面にはWiresharkだのFiddlerだのなんだのと開いたままにしていましたからね。
「はい」
「手伝いましょうか?」
「ダメです。あなたは従業員なんですから、残業代を払わないといけなくなるじゃないですか。しかも深夜割増賃金ですよ」
「……監査役はいいんですか?」
「会社役員に残業代なんてありませんよ。いつ何時でも滅私奉公」
「心にもないことを」
「よく分かってるじゃないですか」
まあ、ただの暇つぶしですからね。
時刻は既に二十二時を回っていました。あれだけ嫌いだった残業を、何だかんだ楽しんでしまったのは、あの清々しい夜風に当たってしまったからでしょうか。気持ちは高校時代に戻ったかのようですが、身体はそうはいきません。眼球の奥に鈍痛や疼痛、そして瞼のけいれん。三十代になってからというもの、日増しに体力の低下を感じます。
ところで、アカネBは、わざわざ残業を志願するためにここに来たわけではないでしょう。
「――で、何か御用でも?」
私が尋ねると、アカネBは人懐っこい笑顔で小首を傾げました。
「夜食でも一緒にどうですか?」
「いいですね」
で、あの古びた展望レストランなわけですが。
ただ、こうして暗くなると、暖色系の間接照明とキャンドルライトのおかげか、ちょっとお洒落でアンティークなレストランに様変わりしていました。まあ、相変わらず、水垢まみれの窓のせいで、百万ドルの夜景が十万円ぐらいの夜景になってしまってますけどね。
「夜鳴きそば二つ」
アカネBが注文すると、意外にも店員は嬉しそうな表情を浮かべ、注文を復唱しました。
ええ、ここで夜鳴きそばですか。ていうか――。
「そんなメニューありましたっけ」
「知らなかったでしょう。旧淡路鳴門急行グループの人だけ知る裏メニュー。社内研修といえば、ここの夜鳴きそばと決まってます!」
「へぇ。そういえば、元は淡路鳴門急行グループでしたね、ここ」
「はい。戦前の話ですが、社員向けの保養所だったのをホテルに改装したそうですよ。当時のことは良く知らないですけど、僕も先輩もずっと、社員研修といえばここでした」
「でも、事業譲受の後は、京姫鉄道本社ビルが研修場所になったと」
「はい。だから、ここに来るのは本当に久しぶりです」
隅々まで手入れが行き届いていない理由の一つは、事業譲渡を経て、そういうグループ内の収入が激減したからなのかもしれませんね。
「夜鳴きそばでございます」
白いテーブルクロスの上に、丁寧に配膳される夜鳴きそば。しかも、ナルトとメンマと青ネギ、そして海苔が乗ったトラディショナルスタイル。ちょっとシュールな絵面です。
「では、いただきます」
「いただきます」
ずず。
どこか懐かしい、醤油ベースの中華そばの味。気取らず、それでいて手を抜かず。そんな古き良き雰囲気が溶け込んだスープが、縮れ麺によく絡みます。
「夜鳴きそばの味が口に広がっておいしいです」
「相変わらず、食レポ下手だね……ですね」
「うるさいですね」
そういえば、二人きりで食事するなんて、久しぶりです。もしかして、高校時代の学食以来じゃないでしょうか。ちょっと懐かしい気分です。
しかし、それにしても、アカネBは挙動不審です。いつもなら、軽口を叩き合うのですが、今日はそのまま沈黙してしまいました。何か手応えがありません。あの清々しい夜風に吹かれて、何か調子が狂ったのでしょうか。
居たたまれなくなって、私はさらに言葉を続けました。
「というか、無理に丁寧語なんて使わなくていいですよ。特に今はオフなんですし」
「……じゃあお言葉に甘えて。でも、監査役……じゃなくて、アカネはいつでも敬語です……だよね」
グダグダですね、この人。
あたふたしているアカネBをよそに、私はナルトを味わいます。ナルトの味が口の中に広がって以下略。
そういえば、普通のメニューの味は良くもなく悪くもなくですが、この夜鳴きそばには拘りを感じます。このおいしさは、別格ですね。むしろ夜鳴きそば専門店になれば良いのにって感じです。
「敬語っていうか、丁寧語ですね。私は相手によって態度を変えるのが苦手なんで、こういうスタイルなんです」
目の前の人は、私以上に切り替えが下手に見えますがね。
「そうなんだ。どこか嫌われてるのかなってずっと思ってた」
「……いえ、別にそういうつもりは全然ありませんけど。距離を置こうとしてるわけじゃないんです」
「でも高校時代、128個嫌いなところがあるって」
「ああ……。あれは、もう忘れてください。言い過ぎでした」
高校時代、私は、当時同じクラスだった幼なじみのアカネBから告白されました。あの校舎裏の光景、今でもよく思い出します。顔を真っ赤にして、少し視線を逸らしながら、掠れた声を絞り出す、彼の姿を。
『……ずっと好きでした……あなたのことだけが、ずっと……。だから……僕と付き合ってくれませんか?』
しかし、当時の私は――。
『ごめんなさい。気持ちには応えられません』
『ええっ、どうして……。まさか他に』
『違います。単純に、嫌いなところが沢山あるからです。ひとつ、自信がなさそうなこと。二つ、声が小さいこと。三つ――』
最終的に、私は128個の嫌いな点を挙げて、アカネBを振ったのでした。その後、彼がうずくまって泣いていたことを知っています。
まあ、自分から振った手前、「明日からも今まで通り友達で」などという、おこがましいことは言えるはずもなく、そして、謝ることもできず、これまでずっと棚上げにしてきました。
しかし、向き合わねばならない時が来たのでしょう。
まさか、夜鳴きそばから、こんな展開になってしまうとは……。
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