こうしす! 2024 元社内SE祝園アカネのハッキング事件

プロローグ


 二〇二四年四月。


 会議室には、冷たくて重苦しい空気が満ちていました。テーブルの向こうには人事部長とその腰巾着。一方、私は一人。


 しばらくの沈黙のあと、人事部長が険しい表情で切り出します。


「祝園課長、あなたには――」


 不穏な雰囲気。次の言葉は何となく予想できます。だから、ポケットにICレコーダーを忍ばせているわけですが。でも私は、予想が外れる可能性に賭けて固唾を呑みます。


「――この会社を辞めて頂きたい」


 やはりか。


 すっと、血の気が引いていきます。


 頭に上った血と相殺されたのか、私は意外にも冷静でした。まるで、この部屋の冷気すべてを体内に取り込んだような気分です。入社以来丸九年。色々ありましたが、こんなに冷めた気持ちになるのは初めてかもしれません。

 

「それは退職勧奨ですか? それとも、解雇予告ですか?」

「……あくまでも、退職勧奨です。しかし、拒否される場合、懲戒解雇の手続きに入らなければなりません。理由は分かりますね?」


 まあ、おおよその見当はついていますが、ここはきちんと説明していただかなければなりません。


「いいえ。説明してください」


 私が冷ややかに返答すると、白髪頭はやれやれといった表情で仰け反りました。


「ふん。あなたは、システム課長という立場にありながら、労働組合を煽動し、社長命令に反して、IT資産管理システムBigBrotherを停止させました。これは重大な就業規則違反にあたります。わかりますね?」


 私も茨のような口調で応戦します。


「それは、やむを得ない措置でした。システム課からBigBrotherのアップデートに必要な予算を何度も申請し、経営企画部や人事部にも協力を依頼したにもかかわらず、承認されなかったからです。セキュリティ確保のためシステムの停止は不可避でした。私は責務を果たしたにすぎません」

「BigBrotherは社長命令でテレワーク環境のセキュリティ強化のために導入したものでしょう。アップデートできないというだけの理由で、システムを止めて、セキュリティを弱めるというのは、まぁ極めて悪質と言わざるを得ませんな。それを、システム課の責務だとは」


 人事部長はふっと嘲笑します。


 あーはいはい。そういうご認識なのですね。ため息も漏れません。


「いいですか? BigBrotherのようなIT資産管理システムは、技術的にはスパイウェアとそんなに変わらないんです。もし脆弱性を突いて乗っ取られてしまえば、スパイウェアそのものになってしまいます。だから、アップデートしていない資産管理システムなんて、百害あって一利なしなんです」

「ふん。私から言わせてもらえば、そんな滅多にないようなリスクをでっちあげて、監視の目から逃れようとしているとしか思えませんなぁ」


 出た。ついに出ましたね、本音が。つまり、人事部としては、監視の目を潰されたことにご立腹なのです。とはいえ、資産管理システムをサボり監視の目として使うのはナンセンスな上にノーセンスとしか言いようがありません。だからこそ、労働組合を動員して、それを実証したのです。データ上、こうした監視の有無で生産性が向上するということは認められませんでした。つまり、根拠のないことを言っているのは人事部長なのです。


「それって、あなたの感想ですよね? 何かエビデンスでもあるんですか?」


 私がまろやかにそう挑発すると、人事部長は、テーブルをドンと叩きました。


 すかさず私は言います。


「アー、ナニスルンデスカ、ヤメテクダサイ」


 ICレコーダーを意識しすぎて、ちょっと棒読みになってしまいました。まいっか。


「君は……!」


 人事部長を遮り、私は言葉を続けます。


「とにかく私は職責を果たしただけで、懲戒解雇事由にあたるようなことはしていませんし、自発的に退職する気もありません」


 すると、人事部長は真っ赤なお顔をぷるぷるとさせました。


「もう明日から来なくて良い!」


 はいな。


 いただきました。判例では、「明日から来なくて良い」というのは解雇ではなく、自宅待機命令となります。つまり、実質無限有給休暇。


 ま、でも、私、本当はもうこの会社に縋り付く気は毛頭ないんですよね。これまでの未払い残業代を一分単位で請求して、おさらばって感じでしょうか。私は課長でも管理監督者ではないので残業代は出ますし、時効を考えても過去三年、チリツモで結構な額になりそうです。ざっと百万円は堅いですね。


 入社当初から追い出し部屋志望だった私でさえ、こんな考えに至るほどなのですから、我ながら相当な気持ちの冷めっぷりです。


 9年間、社内SEとして、会社のために働いてあげたのに、なんでこんな結果になるんでしょうね。ま、システム課なんて金を生まない間接部門。普通の経営者から見れば虚業の金食い虫なんでしょうけどね。はあ、前社長の時代が懐かしい。


「では失礼します。あとのことは弁護士に連絡してください」


 そう言って、私は弁護士から預かった封筒を、投げ渡しました。


 退室後、私は少し乱暴に扉を閉めます。そのバタンという音に驚き、少し我に返りました。



 ……私、全然、冷静なんかじゃありませんでした。


 まあ、私はどうなっても良いのです。私なんか、災害後の人手不足で課長になっただけで、課長職の適性がゼロでしたし、いつ降格になってもおかしくはありませんでした。さすがに退職勧奨は予想外でしたが。


 それより気がかりなのは部下のことでした。課長としては一年も満たない期間でしたが、曲がりなりにも私は彼らの上司でした。彼らの能力のことは多少なりとも知っています。私がいなくとも活躍することでしょう。でも、私のせいで不利益を被ってはほしくないのです。


 自席に戻ると、いつものように網干茉莉がやってきます。


「課長、次期不動産賃貸料管理システムの見積の件なんですけど、RFPのこの点が間違っていて――」


 彼女はまだ入社二年目なのに、その物怖じしない姿勢は頼もしく感じます。生意気な態度にはやや不安もありつつ、彼女の今後が楽しみでした。


 どこかから、英賀保芽依の悲鳴が聞こえてきます。


「うわああん、祝園課長~」


 これも今日が最後です。そう考えると少しは寂しいものがあります。

 

 ここに山家課長と少佐、そして垂水先輩がいないのは残念です。皆が職場復帰するとき、私は笑顔で迎えたかった。それももう叶わぬ夢です。


 ……はぁ。


 響く電話のベル。オフィスの喧騒。そして、新幹線が通過する音。


 机の電話が鳴りました。


「祝園です」

『網干です。課長宛に、よく分からない電話ですけど、どうします?』

「誰からですか?」

『名乗るほどでもないとか。若い声です。悪戯かと』


 最後の仕事が不審電話の対応とは。ま、これも悪くはありませんね。


「私が対応します。こっちに転送してください」

『はい』


 プツッと音が鳴り、外線に切り替わります。


「はい、お電話かわりました、祝園です」

『ふふっ、話は聞いた。あなたクビだってね』

「はぁ、どのようなご用件でしょうか」

『会社にぎゃふんと言わせたくない?』


 ……誰だろう。この聞き覚えのある声は。

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