最終話 炎上(二〇〇〇年八月二六日 早朝)

 爆撃でも受けたようなすさまじい音と衝撃に叩き起こされた。建物全体が細かくビリビリと音をたてていた。

 心臓が激しく打っていた。部屋は暗かった。突然深い眠りから引きずり出されて、なにがなんだかわからなかった。自分がどこにいるのかさえわからなかった。そして次の瞬間には、建物になにかが打ち付けられ、どこかが潰されたような激しい音がする。建物全体が揺らぐ。体がビクリと反応する。建物の悲鳴が伝わってくる。

 わかったのは、とにかく逃げ出さなければまずいということだけだ。

 顔に触れた電灯のひもを引っ張ってみるが、まったく反応がない。

 とにかく落ち着こうと思って息を吸い込む。残り香に、すべてを思い出す。

「森野さん」

 布団の上をまさぐりながら、暗闇の中で呼びかける。返事はない。

 ドアの小さな磨りガラス越しに外が光った。狂ったような激しい音が鳴り響く。

 雷だった。

 残光の中で部屋を見回してみたが、誰もいない。気配もない。

 どうやら私は辛うじてパンツだけを身につけているようだった。自分で履いた記憶はなかった。たぶん森野さんが履かせてくれたのだ。たしかに朝寝坊して、おばさんが来たときに素っ裸というのはまずい。でも、森野さんと裸で抱き合って寝ているというのはもっとまずい。

 甘い感覚とともにそんな想いがほんの短いあいだ脳裏に浮かんだが、今はそんな場合ではなかった。

 どこからか焦げ臭い匂いが浸入してくる。廊下がほんのり明るくなっている。

 ドアを開け、廊下を覗く。煙の漂う廊下の一番奥に、燃え上がった木が倒れ込んでいて、崩れかけた建物に燃え移り始めていた。

 急いでリュックのポケットから小型のマグライトを取り出した。パソコンが入っていることだけを確認してショルダーバッグのジッパーを閉じ、リュックを肩に掛け、近くにまとめてあったズボンとシャツを掴む。その時、紙のようなものがひらひらと落ちる。それを拾い上げ、とにかく靴に足を突っ込んで、部屋を出る。

 廊下には早くも煙が充満していて、思わずむせこむ。奥はもう赤々と炎が勢いを増していた。できるだけ煙を吸い込まないように、姿勢を低くして、煙の薄い廊下の端の方を通って、玄関へと急ぐ。紐を結んでいないぱかぱかとする靴がもどかしい。

 何度か咳き込みながら、どうにか玄関に辿り着き、なんとか建物の外に逃れ出た。



 遠くの雲間はもうほんのり明るかった。ひどい雨が降っているが、このまま玄関の軒下にいるわけにもいかない。吐き出されてくる煙はますます多くなり、高温にきしむ柱のメキメキという音が聞こえてくる。公民館は炎に制圧されつつあるようだった。

 グラウンドには雨をしのげそうな樹がもう一本あったが、激しい雷はまだ鳴り続いている。今度はそこに落ちないとも限らない。

 そうだ、昨晩星空を見たときに、裏に物置小屋みたいなものがあった。

 突然、中からなにかが破裂したようなパンっという甲高い音がする。一瞬身を縮め、ほとんど反射的に公民館を離れた。雨に打たれながらぬかるみを走り、とにかくその小屋に身を寄せた。

 短い庇はなんとか雨を遮ってくれているものの、雨はさらに強くなっていた。中に入ろうと思ったが、あいにく扉には鍵がかかっている。

 公民館の火は勢いを増し、もう奥の半分ほどが炎に包まれていた。今まさに図書室の部分が燃え上がっていて、ガラスの割れた窓から火が噴き出している。さっきまでいた宿直室にも火の手が及んでいた。さっきの甲高い音は、ガスコンロについていたカートリッジが膨張に耐えきれなくなって破裂した音にちがいない。

 まるで生き物がうねっているような壮絶な燃え方だった。黒々とした煙が炎に照らされ、天に昇っていく。その燃え方は、夜明け直前の薄暗さの中で、どこか神々しささえ感じさせた。

 燃え上がる炎の熱はここまで届いていた。全身に熱を感じる。それで自分がほとんど裸であることを思い出した。あわてて抱えていたズボンを履こうとして、握りしめていた紙切れに気づく。


〝すてきな夜をありがとう。これからは前向きに生きていけそうな気がします。〟


 くしゃくしゃになってしまったメモ用紙には丁寧な字でそう書かれていた。

 嬉しいような、悲しいような、複雑な気持ちだった。

 私はメモ用紙のしわを伸ばし、折りたたんだ。

 落とさないように気をつけながら、ともかくまずズボンを履いた。少なくともこれで変質者扱いされずにすむだろう。シャツを着ようとして、今度は胸ポケットに紙が入っていることに気がついた。少女の書き置きだ。なんだかずいぶん前の話のような気がする。そういえば森野さんの電話番号のメモも入れていた。今後もお守り代わりくらいになら使えるかもしれない。新しいメモ用紙を仲間に加えてから、袖に腕を通した。

 靴下は落としてきてしまったらしい。替えはリュックに入っているはずだが、裸足のまま、靴をはき直す。紐が泥でどろどろだ。雨だれが容赦なく泥の混じった水滴を足元に跳ね飛ばしてくる。

 それでも人並みな格好になるとやっと気持ちが落ち着いた。

 だれか、消防車を呼んでくれただろうか? でもたぶんこの村には消防署などはなく、せいぜいあるのは消防団だろう。それにもう消し止めるのはたぶん無理だ。さいわい、周りには燃え移りそうなものはなく、横風もほとんど吹いていない。

 とにかく身の安全だけは確保できた。大事な研究用のノートパソコンも持ち出せた。靴紐を結んで汚れた手を、庇から落ちてくる雨の水で洗って、ズボンでぬぐう。雨は少し弱くなっていた。

 これからどうしたものか思案する。このままいなくなるのもまずいだろう。おばさんが心配するはずだ。それに駅がどの辺にあるのか、まるで覚えていない。少々寒いけれども、雨はいずれ止みそうだし、誰かが来てくれるまで、このままここにいるしか選択肢はないようだった。少なくとも消防車は来るだろう。

 いったい今は何時なのだろうか。時計はどうしたのだろうか。そうだった。森野さんともつれ合うようにして宿直室に戻ってから、はずしたのだった。時計も、服もパンツも。

 森野さんの感覚はまだ生々しく残っていた。

 あれほどまで気持ちが良かったのは、初めて避妊具を着けずにしたせいなのだろうが、どうもそれだけとも思えなかった。それに、いくら森野さんがあんなに素敵だったとはいえ、いままであんなふうに続けざまに二度もできたことはない。あれほど長く続いたこともない。

 踊りだって、そうだ。踊るという行為がこれほど気持ちのいいものだとは思わなかった。思い通りに体が動くということも。でも、だいたい、なんで私はあんな風に踊ることができたのだろう。幻覚だったのだろうか。そうとしか考えられなかった。でも肉体にはその感覚がしっかりと刻み込まれていた。

 特別な夜、と森野さんが言っていたことを思い出す。

 自分でもまったく信じられないことに、一度したあとで、森野さんに交際を申し込んでいた。ほとんどプロポーズといってもよかった。

 今まで出会ってすぐにそんな気持ちになったことはなかった。知り合ってすぐに寝たことだってそうだ。そういう機会がほとんどなかったということもあるが、それはむしろ私の慎重で臆病な性格からくることなのだ。

 付き合いたいと思ったのは、同情をしたわけでも、すごくよかったからでも、万が一にも妊娠させる可能性があったからでもない。あっという間に恋してしまっただけのことだ。一目惚れとはちょっと違う。図書室でのあの数時間が信じられないくらい楽しかったのだ。あんな時間が私の人生に訪れるとは想像もしていなかった。

 常夜灯の薄暗い光の下で、私たちは寄り添って、抱き合うようにして横になっていた。

「ごめんなさい」

 しばらく沈黙が続いたあとで、森野さんは静かに言った。

 私の位置から森野さんの表情を見ることはできなかった。

「気持ちはとってもうれしいんだけど、私はもうそういう気はないの。ごめんなさい。それとこのことは今夜限りのことにして下さい。すごく勝手ですけど、私のことは忘れてください。お願いします。私、太田さんがそういう人だと分かったから、してもいいと思ったの」

 そういう人というのは、森野さんの願いをちゃんと聞き入れてくれる人という意味なのだろう。最初の人と同じように。今晩のことを誰にも言わないと私に約束させたのは、こういうことを念頭に置いてのことだったのだろうか。

「でも」

 なおも食い下がろうとすると、森野さんは体を起こして、言葉を遮るように柔らかくくちびるを重ねてきた。まるで聞き分けの悪い子どもをなだめるみたいだった。すぐに顔を上げたが、影になった表情からはなにも読み取れなかった。

「太田さんが真剣な気持ちで言ってくれていることはわかっています。それに、すごくうれしい。でも、だめなんです」

 きっぱりとした語尾は意志の固さを示していた。私を見下ろす冷静な視線を感じた。それは森野さんの中では揺るぎない決定事項のようだった。とても崩せそうにはなかった。

 それから森野さんは、まるでお詫びでもするように、ていねいに私を刺激し始めた。まだ無理だと思ったが、身体の方はそうでもないようで、私たちはもう一度した。

 二度目を終えてさすがにふたりともぐったりして、そのまま寝入ってしまったらしい。気がついたら、こんなことになっていた。

 そういえば、図書室はどうしたんだろう。机やプロジェクターなんかはあのままだろうか。火災の原因もはっきりしているし、もう燃えてしまったから関係ないかもしれないが、一応失火原因とかを調査するだろうから、もしあのままだったらなんと説明したらいいのか。森野さんの性格ならもしかするとひとりで元に戻したかもしれないが、でもなんとなくあのままになっているような気がした。もっとも、公民館のおばさんがなにも言わなければ、なんの問題もないかもしれない。

 遠くからサイレンの音が聞こえた。5分もせずに到着するはずだ。

 雨はもうあがりかけていた。空は空しいほど急速に明るさを増していた。特別な夜はもう終わったのだ。

 サイレンの音がしたすぐにあとに、車が敷地のぬかるみを近づいてくる音がした。大きめのセダンだった。運転をしているのは公民館のおばさんだった。小屋の軒先の私をすぐに見つけてくれた。

「ああ、よかったよ。よかった。無事だったみたいだね」

 おばさんは思いがけない素早い身のこなしで車から降りてくると、私の頭頂部からつま先までをざっと見た。私の肩を両側からパンパンと痛いくらい強くたたいた。笑っているような、泣いているような顔をしていた。

「おかげさまで、なんとか。でも驚きました」

 おばさんは私に並ぶようにして軒下に入り、火の勢いの衰え始めた公民館を見つめた。

「ああ、燃えちゃったね」と、おばさんが独り言のように言った。

「はい」

 思わず、すみません、という言葉が口から出かけたが、あわてて呑み込んだ。少なくとも火災に関しては私はなにもしていない。

 もう雨は完全に上がっていた。

「太田さんと言ったね。森野さんから名前だけは聞いたんだよ。私がしゃべっていて、名乗る暇もなかったもんね」

「いえ、こちらこそ、ちゃんと申し上げませんで」

「森野さんはあんたをここに連れてきただけな」

「え?」

 私は意表を突かれ、言葉を失った。横顔を見たが真意をはかりかねた。

「だから、森野さんはあんたをここに連れてきただけで、それ以上は関わりがなかったってこと。いいね」

「ええ」

 心臓がバクバクしていた。まさか、あのあと森野さんがおばさんに報告しに行ったとか? でも、まさかそんなことはあるはずなかった。

 動悸が治まる間もなく、けたたましいサイレンを鳴り響かせた消防車がすぐにやってきた。想像していたよりも立派な普通の消防車だった。

 ひとりの消防団員が小走りでこちらにやってきた。こちらは想像していたとおりの、普通のおじさんぽい、隊員というよりも団員という感じの人だった。

「山田さん、こりゃ、もうだめだな」

 消防団員は、よく陽に焼けた顔を歪ませながら言った。ほかの消防団員は消火を始める準備をどこかのんびりとした感じて始めていた。

「そうだね。でも、まあ、もうすぐ取り壊しだったんだし。ちょっと残念だけど」

「そうだよな。なんだか、取り壊されるのが嫌で、自分から燃えちまったみたいだ。で、こちらは?」

 初めて私に気づいたような感じで、消防団員のおじさんは私を睨みつけるような目で見ながら言った。たぶん普段からこういう目つきなのだろうが、私は睨まれたように感じた。

「ああ、こちらは東京の学者先生。河村先生のところに来て、ちょっとした手違いで最終に乗り遅れちゃったもんだから、昨晩こちらにお泊まりいただいたんだよ」

「おお、そうですか。それは、それは。いや、とんだ災難でしたな」

「いえ」

 儀礼的に否定してみたものの、ふと、昨日からのことが、災難というわけでもないように思えた。ひとつひとつの出来事をとってみればいいこともわるいこともあったし、最終的には公民館から焼け出されたのだから災難だったといえるが、むしろ私は自分の中に、それまでに感じたことのないような温かいものを感じていた。まるで、いつの間にか、自分でも気付かぬうちに凍り付いてしまっていた身体に、再び血が流れ始めた、そんな感じだった。厳しい冬が終わって、樹の幹の周りの雪が溶け出し、土が顔を覗かせるみたいに。

 消防団員たちは消火の準備をしたものの、一向に消火作業を始める気配はなかった。どうやら最後まで燃やしてしまおうと考えているようだった。

「取り壊しっていうのは、どういうことですか」

「うん」

 おばさんはちょっと考えるように一息置いてから続けた。

「もう、今年でここは取り壊しの予定になってたんだ。ここは私らが通っていた小学校だったんだよ、昔はね。もう随分も前に閉校されちまったけどね」

「なんとか、公民館として、残しといたんだけどよ」

 おじさんが付け足した。

「ところが市の方が、頼んでもいないのに、建て替えるって言ってきてね。建築基準法やら、耐震性やら、なんかって理由でね。床だって、何年か前にきれいに張り替えたのにね。合併したとたん、そんなことになっちゃってさ」と、おばさんがさらに付け足した。

「結局、コンクリートの箱物を作りたいだけなんだよ、あいつらは」

 おじさんがそういうと、ふたりは黙り込んで、もうほとんど黒こげになって、焼け落ちてしまった母校を眺めた。

 なにか私は、そんな場所の最後の人間となって、しかもそんな場所であんなことをしたと思うと、ますますうしろめたい気持ちになった。

「団長!」

 むこうから消防団員が呼びかけた。

「おう、なんだ」

「一応、形だけかけときましょうか?」

「おう、そうしてくれ」

 おじさんがそう答えると、ようやく消火活動が始まった。くすぶりが治まり、わずかになっていた煙が完全にとまっただけだった。

 それからちょっとして軽自動車のパトカーがやってきた。

 団長が行って、しばらく警官と話し込んでいた。

「先生は、どうするね」

「ああ、もう私は今日帰る予定だったので、今度こそ、電車に乗って帰ろうと思います」

「そんなに汚れちゃいないけど、あたしんちで風呂でも入っていくかい? 朝ご飯もまだだろうし」

「いえ、でも、そこまで甘えちゃ悪いですから。ところで、今何時ですか」

「たぶん、6時頃じゃないかな。そんなこと気にしなくていいからさ」

「あの、森野さんのことですけど」

 私は気になっていたままになっていたことを持ち出した。

「さっき言ったとおりだよ。そういうことにしておいてやっておくれ。ほら、おまわりがやってきた。あいつが森野さんに〝ほの字〟らしいんだよ」

 装備をがちゃがちゃいわせながら、警官が早足でこちらに向かってきた。

「あの、昨晩こちらに泊まっていたというのは、あなたでしょうか」

 生真面目そうな若い警官は、いかにもこの村の人ではないらしかった。

「ああ、そうだけど、何か問題でもあるのかい?」

 私に代わって、おばさんが答えた。

「一応ですが、事情をお伺いできますか」

 丁寧ではあるが、押しの強い物言いだった。

「団長さんに聞かなかったのかい。この人は電車に乗り遅れて泊まるところがないから、ここに泊まってもらっただけだよ」

「ええ、聞きましたけど、火災が発生したことでもありますし、一応、駐在所まで来ていただいて」

「火災たって、どうみたって、雷で燃えたあの樹から燃え移ったんだろう?」

「まあそのようですが、一応」

「一応、一応、って。ちょっと、あんた、いったいなんなんだい」

 どうやらこの警官は普段から村の人たちとうまくいっていないようだった。

「でも、一応」

「ちょっと、あんた、いい加減しなよ」

 おばさんは警官の胸を軽く押した。私にはそのとき、警官が薄ら笑いをしたように見えた。

「山田さん」

 警官は腰の手錠に手を回しながら勝ち誇ったように言った。

「公務執行妨害で逮捕します」

「ちょ、ちょっと」

 私はあわてて間に入った。

「ちょっと、待って下さい」

 警官は細く冷たい目で私を見た。

「私が駐在所で事情を話せばいいのでしょう」

「まあ、一応、そうしていただければ」

「そうすれば、今の件はなかったことにしていただけるんですよね」

「一応、そういうことになりますね」

「いいよ、先生。こんなんで、逮捕できるはずないよ」

「山田さん、だめですよ。この人、ほんとうに逮捕しますよ」

 警官は、まあ一応、という顔でにやついていた。

「じゃあ、行きましょう」

 私は山田さんがそれ以上危ないことをしないよう、バッグを手に取ると、さっきのお返しみたいに山田さんの肩をぽんぽんとやさしく叩き、先に立ってパトカーの方にゆっくりと歩き始めた。がちゃがちゃいう音があとからついてきた。

 警官が横に並んだところで、振り向いて、山田さんに一礼する振りをして、ウインクした。そして、「夕飯、ありがとうございました。おいしかったです」と言った。山田さんは申し訳なさそうな顔をしながらも一度だけ強く頷いた。



 私は駐在所で、あれやこれや、昨日からの行動を事細かに訊かれた。もちろん電車に乗り遅れて公民館に泊まることになったいきさつも話さないわけにはいかなかった。でも、森野さんに関しては、山田さんから言われたとおり、たまたま教授のところで拾ってもらって、公民館を紹介してもらって、連れて行ってもらった、ということしか言わなかった。この事情聴取が嘘をついていいものかどうかは分からなかった。まさか、嘘をついてもいいのか聞くわけにもいかない。できるのは、焼け出される前の図書室なんかの状態を予想して、それに沿うように、そして森野さんの存在がなかったように答えることだけだった。

 いちばん困ったのは、夕飯について訊かれたときだった。どのように食料を調達したのか、嘘をつくしかなかった。おばさんが用意してくれたことにするしかなかった。私自身が森野さんと夕飯をともにしたところまでしかしらない。警察がどこまで調べるか分からないし、焼け跡の状況にもよるが、後片付けがされていなければ、誰かと食事をしていたのがばれてしまう可能性がある。嘘がバレたところでなにかの罪に問われることはないとは思うが、その辺は、賭だった。私は森野さんがちゃんと後片付けをして帰った方に賭けた。そしてその時に、流しのところに〝ひとり分〟だけの食器やコップなんかが洗って置かれていたイメージが見えた。たぶん、逃げる間際に視界の端に捉えていたのだ。

 それからは、私は自信を持って受け答えすることができた。もちろん、その変化を警官に気づかれないように気をつけながら。

 結局私はだらだらと2、3時間拘束され、無罪放免となった。話を聞かれたのは1時間ほどだったが、警官が記入した調書を、自筆で書き直させられて、間違うとそのたびにそこに拇印を押させられた。腹が立ったが、仕方がない。とにかくこれで森野さんを少しは守ることができるらしいということだけが慰めだった。

 警官は駅までクルマで送るといってくれたが、もうこれ以上かかわりたくなかったし、駅まで歩いてもそう遠くはないようなので、丁重に断った。


 駅に着いたのは、10時前で、昨日より少しだけ早いくらいの時間だった。雨の降ったせいで、昨日よりはだいぶ涼しく感じられた。空も一層澄んでいた。

 あのおばあさんが木陰のベンチに座っていた。今日はどうやら寝ているらしかった。

 2匹の蝶が戯れるように降りてくる。私のまわりを一周すると、長く螺旋を描くようにして雨上がりの青い空へ舞い上がっていった。



                               《了》




参考文献等


(CD)

パブロ・カザルス、鳥の歌……ホワイトハウス・コンサート、ソニー・ミュージック・ジャパン・インターナショナル


(書籍等)

『パブロ・カザルス 喜びと悲しみ』A・E・カーン 編 吉田 秀和・郷司 敬吾 訳、朝日新聞出版、一九九一年一二月一〇日


日本のことばシリーズ3 岩手県のことば、編著者 代表 平山輝男、明治書院、平成13年6月15日発行


国立国語研究所資料集13-2 全国方言談話データベース 日本のふるさとことば集成 第2巻 岩手・秋田、編集・独立行政法人国立国語研究所、国書刊行会、2006年10月27日発行


岩手方言の語源、著者 本堂寛、熊谷印刷出版部、平成16年1月30日


本堂 寛、〝岩手県盛岡市方言の副助詞〟、方言資料叢刊、8巻、p.31-35、2000-11-15、方言研究ゼミナール(広島大学)、http://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/00019168


『ワンプのほし』 ビル・ピート


『予告された殺人の記録』 ガブリエル・ガルシア=マルケス 新潮文庫

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森の図書室、カザルスの夜 百一 里優 @Momoi_Riyu

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