29 一人、歩きながら

 司郎が何か喚いていたが、勝手に電話が切れた。

 よくよく見れば目の前に「1分10円」の文字。なるほど。時間切れというやつだ。

 公衆電話というものを使ったことが無かったので、会話は中途半端になってしまったが仕方がない。伝えることは伝えた。受話器を戻し、ボックスから出る。


 駅前を離れ、南の方から走ってきたタクシーをつかまえた。

 運転手に行き先だけを伝え、無言で後部座席の窓を開けた。

 肌を刺すような冷気が吹き込んでいるはずなのに何も感じない。

 少しがっかりして窓を閉めた。運転手がほっとしたような声で「今夜も冷えますね」と言った。返事はしなかった。


 目的地の近くでタクシーを降り、自分の足で歩いた。

 外はすっかり暗くなって、立ち並ぶビルや店が看板に火を入れる。中にはチカチカと点滅して、やたら主張してくるものもあるのに、どの文字も廉司の頭には入ってこない。

 擦りガラスを通してみる夢のようだ。


(夢、か)

 廉司は薄く笑みを浮かべた。夢だったのだと言われれば納得できる。

 あの温もりは、一花が恋しいあまりに見た都合のいい夢。幻。

 その証拠に、目覚めればやはり一花は居なかった。


 落胆することに慣れてしまった頭は、初めてかかってきた彼女からの電話にもどこか冷めていた。

 「体の調子はどうですか」と聞かれても何も答えられなかった。どうせ夏目が吹き込んだのだろうと斜めに捉えていた。


 何を聞かれても黙ったままの廉司に、一花は諦めたのか本題を切り出した。


 しばらく会えないんです。


 そう告げられて、廉司の中で何かが音もなくゆっくりと切れた。


 二言三言、彼女に何か言った気がする。その度に一花が必死の声色で何かを訴え返してきたような気も。

 それでも彼女の言葉は廉司に届かなかった。

 これ以上傷つきたくない。

 そんな防衛本能が、彼女を追い詰める言葉を口にさせる。

 一花が言葉を詰まらせたのを肯定だと受け取った脳が通話を切り、スマホをガラス戸に叩きつけた。


 それから今に至るまでの事はあまり覚えていない。




 吐く息が白い。

 夏目が作った粥は半分も口にしていない。

 胃を温めてくれるものが無い。中心に穴が空いているみたいだ。


 週末なのか、人通りが多い。

 笑顔で腕を組みながら通り過ぎていくカップルもいる。


 自分は一花とああいう風になりたかったのだろうか。


「ハッ!まさか」

 思わず噴き出した。近くを歩いていた人間がぎょっとした目をして避けていく。


(一花と笑って腕組みなんて、それこそ夢だ)


 しかし、ふと自分の手を見て思い出した。

 あのショッピングモールで、自分は一花と手を繋いで歩いたではないか。

 いくつも言葉を交わした。笑みを零したこともあったはずだ。

 あの時の満たされた想いはどこへいったのか。

 

 自分がこんなにも欲深い人間だと思い知らされるくらいなら、いっそはじめから――


 胸から何かがせり上がってきて咄嗟に体を折った。

 しばらくじっとして、押し寄せてくる波をやり過ごす。

 鼻でゆっくり呼吸をし、上体を起こす。波が退いたのを確認してから再び歩き始めた。


 立ち並ぶ店の換気扇からいろいろな料理の匂いが漂ってきて人混みに混ざる。

 この時間、この活気、この空気。

 いつもなら「夜の血」が騒ぐのに、今日はやけに冷めている。

 見知った顔が店に誘っても、一瞥しただけで通り過ぎた。

 賑やかな繁華街の中心から少し離れた建物の前で廉司は足を止めた。


 さっきの波はもう来ないか、胸を撫でてみる。大丈夫そうだ。

 右手左手で拳を作ってみる。十分に力は籠る。

 右足左足と重心を入れ替える。ふらつく気配もない。

 腕を回して肩甲骨を動かし、首をぐるりと回した。


 体は動く。頭は冷えている。申し分ない。


 目の前の階段に足を掛ける。

 レンガ色の雑居ビルの三階。電気は点いている。







 プレートが取り付けられたドアの前に立つ。廊下に放置されていた小型の消火器を手にドアノブを回す。

 意外にも鍵は開いていた。


 中で談笑していた男達が、突然現れた廉司を見てきょとんとする。

 一人二人と指で数える。合計七人。

 その中によくよく見知った顔が二つある。組長の辻と、浜岡だ。

 廉司が唇の端を吊り上げる。応接セットに座っていた男達が一斉に立ち上がった。


「かっ、鏑木!」

「おい、前より増えてんじゃねぇか。言っといてくれよ」

「テメェ何しに来やがった!」

「何って、お前」


 廉司が話し切らないうちに、最もドアの近くにいた男が突っ込んできた。

 腰を取られる前にその胸を膝で蹴り上げ、持っていた消火器で頭を殴りつける。床に倒れた男は頭を抱えてのた打ち回った。


 それを見たほかの人間が怒鳴り声を上げる。

 自分一人に向けられる殺気に、廉司はようやく体内の血が熱くなってきたのを感じた。一気に高まろうとするテンションを抑えるように、噛み合わせた歯の間から熱い息を吐き、髪を後ろに撫でつける。

 足元で転がっている男が上げる高い声が耳障りで、顔にもう一発蹴りを入れた。顎がつぶれた感触が革靴越しに伝わってくる。男の悲鳴が低い呻きに変わった。

 廉司は辻を見ながら、足元の男を指で指し示した。


「こんなもんじゃねぇからな」

「アァっ?」

「ウチのやられ方はこんなもんじゃねぇ」


 廉司がやってきた目的を理解したのか、辻の目が血走る。

 それでいいとばかりに廉司は鋭い目つきで笑って見せた。


「ケジメはつけてもらうぜ、辻」


 辻の合図で五人の男達が一気に廉司に向かってくる。

 こんなケンカは久しぶりだ。

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