第6章 RING

28 耳を覆いたくなるほどの無音

 ぼんやりした表情で粥を口に運んでいた廉司のスマホが音を立てた。

 刺青の入った彼の背中を温めたタオルで拭いていた夏目は、ついその画面を盗み見てしまった。一花だ。


 すぐさま廉司の肩に黒のジャージを掛けて退室する。襖を閉め、洗面所で新しいタオルを用意しようと思うのに足が動かない。

 寝室から微かに漏れてくる廉司の声に耳を澄ませた。


――会えないって、どういう事だ


 鼓膜に届いたその言葉に、夏目は目を見開く。


――しばらく?しばらくってどれくらいだ


 力の籠らない問い詰め。

 夏目は立ち尽くしたまま、冷気が伝わってくる足元を見つめていた。

 どうして、というやり場のない疑問が込み上げてくる。


 独断で一花を連れ帰ったあの夜、彼女は確かに朝まで廉司の傍にいた。

 何とも思っていない相手を一晩中介抱するような優しさを、夏目は持ち合わせていない。

 だから安心していたのだ。これからはもっと廉司の事を気にかけてくれるだろうと思った。


 たとえ、彼女が警察官だとしても。


「……」

 眼鏡のフレームを空いた手で押さえる。

 

 一花の素性について調べたのは、廉司と一花がコンビニで出会ってからすぐだ。

 廉司に指示されたわけではない。廉司は何も知らない。

 彼女の職業を知った時、廉司に伝えようとは思わなかった。まさか二人が深い仲になるなど思いもしなかったからだ。


(いや、違う。言えなかったんだ)


 一花は廉司が初めて本気で思いを寄せた相手だ。

 一花が何であれ構わなかった。廉司を幸せにしてくれるのならば。

 それなのに。


――嘘つくな。お前、本当はもう会う気が無いんじゃないのか


 嘘。嘘だったのだろうか。


 倒れた廉司を思い、不安そうな表情を浮かべたのも。

 逸る気持ちを抑えられず、夏目の前を急ぎ足で歩き廉司の部屋に駆け込んだのも。

 朝、襖の間から垣間見た、廉司の寝顔を慈しむような瞳も。

 

 すべて、嘘?


 ふと庭へ続くガラス戸へ目を遣る。

 また雪になり切れない雨が降っている。

 空から落ちてきた水滴が椿の葉を揺らす。


 冬の朝日が差し込んでも目を覚まさない廉司の腕からそっと抜け出し、帰ろうとした一花に手作りの朝食を食べていくように勧めた。

 彼女は「大丈夫です」と申し訳なさそうに断った後、表情をがらりと変えて言ったのだ。


「もう、大丈夫ですから」


 今まで見せたことのない顔。

 自信に満ちた……いや、違う。吹っ切れたとも形容しがたい。

 言うなれば、、そう見えた。


 だから、安心していたのに。


――セカイが……住む世界が違う。そう言いてぇのか


(どうして?)


 寝室の中から、何かがガラスにぶつかり割れる大きな音が響く。

 物が床に倒され、破片が飛び散る。

 屋敷の反対側にある待機室から物音を聞きつけて走ってきた甲本達を無言のまま手で制止した。

 聞く者の身を抉るような荒々しい音の洪水が暫くして唐突に止んだ。

 部屋の中からは布擦れの音一つ聞こえなくなった。


「……なにか、あったのか?」


 声を最小限にまで忍ばせた甲本の問いかけにも答えず、夏目は冷めたタオルを握りしめ、ぐっと瞼を閉じた。







 気がつけば夜になっていた。

 自分が何をすべきなのかわからなくなり、自室で転がっていた体を起こす。

 畳の上に放置されたスマホに廉司からの呼び出しは無い。

 向こうが動かないのなら、こちらからアクションを取るしかない。


(とりあえずメシでも作るか)


 気乗りしない体を引きずって台所に立った時、はたと、とらの事を思い出した。

 そういえば廉司が倒れた夜からとらにエサをやっていない。

 まずい。慌ててリビングを覗く。しかし、とらの姿はどこにも見当たらない。


 一時間後、夏目一人で始めたとら探しは屋敷にいた組員七名を巻き込んでの大捜索となっていた。

 ちゅーるのパウチを一本づつ手にした強面の男達が必死になって猫を探す。

 しかし、どれだけ探しても出てこない。

 庭を担当していた甲本達が寒さに震えながら屋敷の中に戻ってきた。


「ダメだ、夏目。どこにも居ねぇよ」

「ダメだじゃダメなんだよ!絶対見つけろ。どっかにいるっ」

「でもなぁ、もう全部調べたぞ?男八人で調べたんだぞ?」

「見落としてるところがあるんだよ!ゴチャゴチャ言わずにもう一回見てこいっ!」

「あの」

「なんだっ?」

 夏目と甲本のやりとりを見ていた一人の若い組員が恐る恐る口を開いた。


「……若の、部屋にいるってことは無いんですかね……?」





「若、お休みのところすみません」


 寝室前の板間に正座した夏目と甲本が声を掛ける。

 だが予想通り返事はない。それでも二人はめげなかった。


「とらがそちらにお邪魔してませんか?」


 無言。また眠ってしまったのだろうか。

 眉間に皺を寄せた夏目の横で甲本がわざとらしく明るい声を出す。


「いえ、そろそろ夕飯時なものですから。とらも腹がへってるんじゃないかと。なぁ?」

「……」


 若、今のキャットフードはすごいですね。いえ、この間、トイレの砂を買いに行ったんですけどもね。正月限定の商品なんかもあるんですよ。このちゅーるもいつものマグロ入りじゃないんですよ。俺が持ってるのは伊勢海老入り。夏目のなんかタラバガニ入りですよ。いや、本当にすごい品揃えですね、最近のペットショップは――


 まるで下手な落語家のようにベラベラと喋る甲本が「ペットショップ」というワードを口にした途端、夏目が彼の左膝を拳で殴った。

 なんで殴るの?そんな顔で甲本が見つめ返す。

 甲本の疑問を咳払いで払いのけた。


「若、少しよろしいですか?」


 それでも返事はない。夏目と甲本は目を合わせて頷いた。


「失礼します」


 二人同時に左右の襖を開き、中の様子に言葉を失った。


 もともと物の少ない寝室の四隅に置かれていた間接照明が壁を切り裂き、窓を突き破り、床に倒れて破片が辺り一面に散乱している。

 夏目が昼前に持ってきた粥の椀も床で粉々になり、残っていた中身が絨毯を汚している。

 庭を望める南側のガラス戸も全て割れ、遮光カーテンが揺れて冷気が室内の温度を奪っていた。


 甲本と言葉を交わすことも無く、破片を踏まないように気を付けながら中央のベッドに近づく。断りもなく、丸まっていた掛布団をめくった。雑に畳まれたジャージ。やはり居ない。

 並んだ枕の下を手で探っていた夏目に、ようやく甲本が低い声を掛けた。


「おい、これ」


 カーテンの下に落ちていたと差し出されたスマホの画面はヒビだらけになっていて、心なしか変形している。試しにホームボタンを押してみたがヒビが虹色に光るだけで役に立たない。


 二人の胸騒ぎが最高潮に達しようとした時、外から組員の叫び声が聞こえた。

 再び慎重に足場を選んで寝室を後にし、表に出た。

 騒ぎ声のするカーポートまで走る。夏目と甲本の姿が見えると若い男達が我先にと声を上げた。誰も彼もが、そこに停められた五台余りの車の足元を指さしている。


「全部やられてます!」

「こっちもです!」


 組員の車は勿論。ベンツもアルファードも使い物にならなくなっていた。


「くそっ、誰がこんな」

「……若だ」


 夏目の呟きに皆がどよめく。

 切り裂かれ、空気が抜けたタイヤを見つめながら、夏目は考えられる最悪の事態を頭からひねり出そうと苦心した。


 その時、懐に入れていたスマホが鳴った。

 画面に表示された名前に戸惑いながらも通話ボタンを押し、すぐに応答した。


「夏目です」

「おう、良かった。お前は無事なんだな」

「ど、ういうことですか、組長」

「あぁ?なんだ。一緒にいるんじゃねぇのか?お前に聞けばあのバカが何しようとしてるのか分かると思ったんだが」

「若から連絡があったんですかっ?」

「あぁ、しかも公衆電話からな」

「若は、何て」

「『八代目を継ぐ話は無かったことにしてくれ』。そうほざきやがった。それだけだ」


 どんな手を使ってもいいから廉司を俺の所に連れて来てくれ。目を覚まさせてやる。

 一方的に電話は切れた。


 夏目の顔から血の気が失せる。呼吸をしているのか、何か言葉を発しようとしているのか、薄い唇がパクパクと開閉する。心配した甲本に肩を支えられ、夏目はようやく彼の顔に焦点を合わせた。


「夏目、大丈夫か?」

「か、を」

「?」


 夏目の端正な顔が歪む。絞り出された声は悲鳴にも似ていた。


「若を、若を探せ!早くっ」


 弾かれたように組員たちが動き出す。全員がスマホを取り出し、部下を呼び出して足を確保しようとする。


 夏目も電話帳を開いた。ふとハ行で手が止まる。


 まさか。いや、そんなはずはない。

 しかし当たりだったら。このままいけば間違いなく抗争になる。


(コイツらにまで知られるわけにはいかねぇ)


 夏目はスマホを閉じ、騒然とする輪の中から黙って離れた。

 屋敷の門を抜けて、そのまま自分と美咲の住まいであるマンションへ走る。

 不幸中の幸いか、今日は自慢のGT-Rをマンションのガレージに置いてきたのだ。


 この足なら全速力で飛ばしてもマンションまで四十分。間に合ってくれ。

 

 十五分ほど必死に走ったところで、夏目は突然空に向かって声を上げた。

 タクシーを停めるという手段を、大通りに出るまで失念していた。

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