18 始動

 廉司は不機嫌だった。

 いつも身に纏っている威圧感とは別の、殺気のようなモノが漂っている。

 ベンツのハンドルを握る夏目が、慎重に言葉を選んで今日の段取りを確認しても返事もしない。

 こんな状態で上手くいくのだろうか。夏目は珍しく気分を沈ませていた。


 廉司におどろおどろしいオーラを纏わせている原因は一人しかいない。

 一花だ。





 あの日、ショッピングモールから屋敷に戻ると、廉司はそのまま一花を寝室へ連れ込んでしまった。


(荷物多いのになぁ)

 そんなことを思いながらも、夏目はようやく廉司に春が訪れたことを自分の事のように喜んでいた。

 天井まで届くキャットタワーを一人で組み立て、いつもは廉司の役目であるとらのエサやりも引き受けた。腹が満たされ、眠くなったとらが寝室へ向かおうとするのを必死で止め、鋭い爪で引っ掻かれても叫び声を堪える。

 それでも彼は嬉しかった。


 不意に自分も美咲を抱きたくなってスマホのロックを外した時、玄関の方で人の気配がした。

 誰だ、こんな大事な時に!

 血相を変えて玄関へ向かう。追い返してやろうと電気を点けてみると、そこにブーツを足に引っかけた一花がふらつきながら立っていた。

 夏目の姿を見るなり顔を真っ赤にして、暗い闇の中へ逃げ出そうとする彼女を何とか捕まえた。


「一花さん?!何して――」

「シーッ!」


 一花が人差し指を立てながら屋敷の奥を窺う。


「廉司さん、寝てるんです」

「わかってますよ、そんな事。だから、何してるんですか?まさか、若に黙って帰る気じゃないですよねっ?」

「……すみません」

「ダメですよっ!ちょっと待ってて下さい。今すぐ起こして」

「いいんです!起こさないであげて。よく眠ってるし、それに」

「?」

「か……顔を合わせるのが、ちょっと」


 今度は首元まで赤く染めて俯いてしまう。

 よく見ると、綺麗な首筋に所々小さな鬱血が見える。どうやらコトはめでたく済んだらしい。ほんの少し安心した。


「ちゃんとお礼を言わなきゃいけないのは分かってるんです。いろいろ良くして頂いて」

「……そんなによかったですか?」

「え?」


 一花のきょとんとした顔に、夏目は下を向いて笑った。

 廉司が選ぶ女性はきっと特別な女性に違いない。

 予てから、そう思ってはいたが……まさか、こんな。


「一花さん、是非泊まっていってもらえませんか?若が悲しみます」

「……ごめんなさい。門限があって」

「門限?」

「あ、私の家は……寮なんです。その、社員寮」


 門限のある社員寮なんて聞いたことがない。

 苦しい言い訳にしか聞こえず、額に手を遣りながら一花を見下ろしたが、その顔がやけに強張っているのに気づいて問い詰めるのをやめた。


「……わかりました。じゃあ寮まで送ります」

「え」

「送らせてください。でないと俺が若に怒られます。『一人で帰したのか』って」

「でも」

「お願いします。俺の為を思って。ね?」

「……じゃあ、お言葉に甘えて」




 駅まで、しか送れなかったことは口が裂けても廉司には言えない。

 頑として寮の場所を言わない一花に夏目が折れ、三万円握らせてタクシーに乗るところを見届けた。

 タクシーのテールランプが見えなくなってから、もし一花が金の事を廉司に伝えたらどうしようかと血の気が引いたが、その心配は取り越し苦労だった。


 あの日を境に廉司のメールに一花が返事をしてこなくなったのだ。


 そして、今に至る。



 ベンツを繁華街の中心から少し離れた場所に停め、目的地まで歩いた。

 太陽が出ているのに肩を竦めたくなるような冷たい風が、いかがわしい店々の間をすり抜けてくる。こんな昼時は客引きも酔っ払いもいない。建付けの悪い店裏の扉を開け閉めする音が時折聞こえるだけだ。


 無言のまま夏目の前を歩いていた廉司が一件の雑居ビルの前で足を止めた。二人でビルの三階を見上げる。

 窓に貼られた「辻興業」の文字。

 中の様子は分からないが、蛍光灯の光は見える。人は居るらしい。

 廉司が手首に巻いたロレックスの文字盤を睨んだ。

 本当に今日行くのか。夏目は慌てた。


「大丈夫なんですか」

「なにが」

 やっと返事が返ってきた。


「いや、何も若が出向く必要はないんじゃないかと」

「『所有者責任』ってやつだ。至らない子供のケツは親が拭く」

「それなら畠山に来させるべきでは?」

「アイツが敵陣で冷静に話が出来るかよ。ただでさえやられた側なんだぜ?」

「しかし、若にもしものことがあったら……」

「その為にお前が居るんだろ?それに」


 パンパンとコートの上から自身の腰を叩いて見せる。夏目がぎょっとした。


「まさか、持って来てるんですかっ?」

「嘘だよ、バカ。ほら行くぞ」


 夏目の尻を蹴り、コートを翻して雑居ビルの階段を上っていく。

 その腰に何も携帯されていないことを確認して、夏目は安堵しながらも憂鬱さからは解放されなかった。

 




 レンガ色の雑居ビルの三階。

 辻興業と彫られたプレートが取り付けられた灰色のドアをノックする。中から男の太い声が答えた。

 ドアを開けると、20坪程の事務所スペースがあり、部屋の中央に応接セットのガラステーブルとソファが4脚置かれている。

 最奥にやたらと立派な事務机。そこでふんぞり返っているのが、辻宗則つじむねのりだ。

 深更通りを挟んで飛廉会と角を突き合わせている辻組の組長である。


「いたずら電話かと思ってたんだけどなぁ。本当に来たな」

「忙しい中時間割いてもらったんだからな。約束は守るぜ」

「よし、じゃあサッサと話を聞かせてもらおうか。こっちは『忙しい』んでね」


 椅子の背もたれに反動をつけて立ち上がると辻は、ソファから廉司達を威嚇するように睨みつけていた三人の若衆を怒号一つで壁に貼りつかせた。

 入れ替わるように辻と廉司が向かい合って腰を下ろす。

 二人の間に置かれた机上の灰皿を若衆が下げる。準備が整った。


「お宅んところに浜岡ってのがいるだろ」

「浜岡ぁ?」

「そうだ。カタギ相手にいろいろ面倒を起こしてる。アンタも手を焼いてるんじゃないか?」

「さあねぇ……そいつが何なんだ?」

「ウチの若いモンと揉めてな」

「浜岡と、か?」

「いや、正確にはそいつの息がかかった半グレとだ」

「半グレ!」


 辻が声を上げて笑う。つられるように壁際に立つ三人も肩を揺らした。

 おかしいのも当然だと鼻で笑い返した廉司の後ろで、夏目だけが無表情だった。


「オイオイ、冗談はやめてくれ。切れ者と恐れられる飛廉の頭ともあろう人が。自分とこの若いのがカタギにやられた腹いせに、ウチに言い掛かりつけんのか?それでお前、抗争にでもなったら、どう落とし前つけるんだ、コラ!」


 辻の笑いが途中から怒気を孕み、場が凍り付く。

 一気に顔を強張らせた三人の若衆を見上げて廉司はフッと笑った。


「浜岡がお宅の組にいることは認めるんだな?」

「だったら何なんだ、アァ?」

「安心したぜ。本当に言い掛かりになるところだった」


 そう言って廉司は懐から、浜岡を捉えた写真と動画の入ったUSBメモリーを取り出し、辻に事の顛末を話し出した。





 辻組の事務所に入ってから、気が付けば一時間余りが経っていた。

 雑居ビルの階段を下り、建物を振り返る。きっと向こうもこちらの様子を窺っているだろう。

 廉司が胸ポケットの中の煙草を取り出し、火を点ける。

 それを合図に二人はビルに背を向けて歩き出した。


 相変わらず人通りは少ない。

 何に妨害されることもなく、冷え切ったベンツまで辿り着いた。車内の空気までキンと冷たくなっている。夏目がエンジンをかけ、エアコンに手を伸ばし、廉司は体を震わせた。


「あー、寒い」

「……どう出ますかね」

「ん?」

「辻ですよ」

「さあな。だがコッチの言い分は通ってるだろ」

「まともに払うとは思えませんよ」

「まぁ、安くはねぇ額だからな」


 全身の強張りが抜ける程度に車内が暖まったところで夏目がギアを入れ、ベンツがゆっくりと動き始める。


 廉司が辻に示談の条件として提示したのは、北川、戸部の二人分を合わせて八千万。同額の現金と引き換えに朴が集めた浜岡の情報を全て渡す、というものだ。

 辻組にしてみれば、対立相手である飛廉会が浜岡の薬物売買の証拠を握っているというのは都合が悪い。もし、そんなものを警察に持っていかれては――その情報源が匿名であったとしても、辻組に対する取り締まりは厳しくなる。

 金を払えば証拠は回収でき、組同士の抗争も回避できる。


「今時、喧嘩する方が高くつくんだ」

「辻がそれを分かっていればいいんですが」

「アイツだって、こんな時代に代紋カンバン掲げて人束ねてんだ。馬鹿じゃ出来ねぇ」


 ヤクザの抗争には命も懲役も金も懸けなければならない。下手をすれば組そのものが壊滅する恐れもある。

 それは廉司としても避けたいところだ。

 ヤクザ社会のルールを知らない人間が無闇に手を出すとこういう面倒が起こる。

 生き辛い世の中だ。


(ウチのモンにも注意しとくか)


 何とはなしに車窓を眺めていると懐のスマホが震えた。気づくが早いか、すぐに取り出し画面を開く。しかし、それを見る目が落胆の色を帯びたのを夏目はバックミラー越しに確認した。


「何か?」

「畠山の事務所へ行ってくれ」

「アイツ、何か言ってきたんですか?」

「今日の掛け合いがどうなったのか気になるんだろ。相変わらず気が短ぇな」


 廉司が溜息とともに背もたれに深く体を沈める。

 その姿にスマホが震える度、飛びつくように反応する最近の廉司を重ね、夏目はやるせない気持ちになった。

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