第4章 繋がり

16 夜が明けて

「生理か?」


 突然顔を覗き込まれて、我に返る。

 自分に向けられて発せられた言葉の意味を理解するまで二秒かかった。


「なぁ」

「そういうの、やめてもらえませんか」


 一花は冷静さを貼り付けた顔でそっぽを向いた。

 しかし、何かと理由をつけては彼女に絡んでくる隣の男は気遣いというものを知らない。


「違うのかよ。じゃあ何」

「いい加減にしてください」

「でもお前、こないだから――」

三浦みうら、やめてやれ。渓が嫌がってるのが分からんのか?いくら同期でも、それはセクハラだ」

「まさか。こんなヤツ相手にそんな気起きませんよ。可愛くねぇし。俺は忠告してやってるんですよ、主任。コイツ、最近変だ」

「何が」

「隙があるんです」


 イチらしくないですよ。

 そう言って三浦は、一花とは反対側の車窓に目を向けた。

 ふてくされたような彼を咎めた助手席の男――主任の藤田ふじたは大きなため息をついてから、くたびれたような横顔で前方に向き直った。


 真っ黒なバンの中には同じ装備を身につけた人間が運転手も含めて八名乗り込んでいる。その誰もが口を閉ざしてしまい、スピーカーから発せられる無線だけが耳に届く。


 スモーク処理を施された窓の外を眺める一花の頬を沈黙の棘が刺す。こんな居た堪れない気持ちになったのは初めてだ。気まずさを紛らわせようと身につけた防弾ベストのファスナーを上げ直す。不意に、指先に体温で温かくなったネックレスが触れた。反射的に体の奥が熱くなる。

 集中しなくちゃ。そう分かっているのに一度火照った体はなかなか冷めない。


 車が目的地に近づき、藤田がメンバーに声を掛けてようやく一花の頭が切り替わった。





 現場である銀行の周辺はやじ馬で騒然としていた。

 バンはそれを横目に通り過ぎ、目と鼻の先に位置する公民館の駐車場に停車した。

 車を降りたメンバーが流れるような動作で必要な資機材を手に、次々と建物の中に入っていく。カーテンで閉ざされたホールが先に到着していた所轄警察官や交渉班の手によって前線本部に生まれ変わっていた。


 並べられたテーブルに設置された通信機材の前でヘッドセットを頭に、電波状況を調べている男――交渉班の上村うえむらに藤田が声を掛けた。


「動きは?」

「さっき無線で伝えたとおりだ。十五分ほど前に銀行員の女性が二人解放された。まだ中に二人残されてる」

犯人ホシは一人で間違いないんだな?」

「あぁ。刃物を確認したが、その他にも道具があるかはまだ何とも。電話と目視で分かることなどたかが知れてる」

「要求は何なんだ」

「金だ、車だと叫んでいるが支離滅裂だ。ありゃヤク中かもな」

「わかった。出来るだけ早めに処理したい」

「あぁ。残された人質が心配だ」


 藤田が上村の元を離れ、捜査方針を固めるため公民館に横付けされた幹部車両に乗り込む。

 一花は他のメンバーと共に機材のセッティングをしながら、次の指示を待った。





 事件発生から七時間が経った。

 犯人への対処方針の第一段階である説得工作は上手くいかなかったようだ。

 責任者たちは、犯人がクスリを使っていることと人質の心身の限界を考慮し、部隊突入の段階へコマを進めた。


 藤田が待機していた一花達、突入班のもとへ戻ってきた。

 三浦が「やっとか」と大きく伸びをした。


「いろいろと試みてみたが、これ以上の情報は得られそうにない。ホシもクスリが切れてきたのか自暴自棄になりだした。人質の一人が負傷している。これ以上引き延ばすのは危険だという見解だ」

「突入ですか」


 どこか楽しんでいるような三浦の声に藤田が頷く。


「マイクと潜望鏡で銀行内部の様子はほぼ把握している。人質となっているのは支店長とその部下の女性一名。説得を試みた支店長が右肩を負傷。二人は店内奥の応接室に閉じ込められている。ホシは頻繁に店内を移動し、こちらの動きを窺っている」

「ホシが応接室から離れた時を狙うんですね」


 突入班のメンバーがそれぞれの頭の中に寸分違わぬ店内の間取りを描き出す。


「通りに面するシャッターは閉ざされているが、その上部に採光用の小さな窓がある。そこから閃光弾を投入。作動後、裏口から突入する。ホシの確保と人質の保護に分かれてくれ」

「はい!」

「ホシの確保をA班、人質の保護をB班とする。A班。渓、三浦――」


 藤田はいつも突入順に名前を呼ぶ。

 表情を変えない一花の後ろで三浦が小さく舌打ちした。





「渓」


 銀行の裏口へ向かう途中、すでに本部にいるはずの藤田に呼び止められた。


「はい」


 素直な一花の返事に彼は少しだけ表情を和らげた。


「良かった。いつものお前だ」

「?」

「いや、いいんだ。何でもない」


 一瞬普段のくたびれた笑みを浮かべ、すぐに厳しい目つきに変わる。

 藤田が任務時に見せるプロの顔だ。


「渓」

「はい」

「相手は刃物を持っている。クスリも使ってる。追い詰められてどんな行動に出るかは予想できん。わかるな?」

「はい」

「よし……」


 顎を引き現場の方角へ目を遣ると、藤田は一花の肩を軽く叩いた。


「お前には期待している。お前の持ってるもの全てを見せてやれ」


 そう言い残して本部へ踵を返した彼の背に、一花は小さく首を縦に振った。





――特殊班各員、異常は無いか。どうぞ


 イヤホンに無線が届く。異常なしの報告が各所から告げられる。マイクが拾えるだけの音量で名前を告げ、報告することがない事を伝えた。


――了解。突入の合図を待て


 銀行の裏口に待機する突入班のメンバーが息を殺す。

 その先頭で一花は内部の物音を聞き逃すまいと耳を澄ませた。自分の呼吸が何時間も止まっているような感覚に陥る。


――本部より各員。ホシが応接室を出た。準備はいいか


 ビリビリとした緊張の中で、一人一人囁き声で応答する。

 自分の報告を終えた三浦が、いつものように一花の背を一度叩いた。


――本部より。A班、渓


 頭の中は波紋一つない水面のように静まり返っている。


「A班、渓。いつでも行けます」


 一花は目の前のドアから離れて間合いを取ると、軸足にぐっと力を込めた。

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