11 綻ぶ花

 夏目が応接間まで連れてきた猫に手を伸ばす。

 初めて見る笑顔に、煙草に火を点けるのも忘れて見入ってしまう。

 一輪の花が咲く。

 名前の通りだと思った。


「――ですか?」

「、あ?」


 ふと声を掛けられて我に返る。その拍子に指で挟んでいた煙草が足元に落ちた。何でもないフリをして拾い上げる。

 一花は革張りのソファに姿勢よく座ったまま、きょとんとしている。

 彼女の後ろに立っていた夏目が一つ咳払いをしてから部屋を出て行った。


「この子、名前は付けてあげたんですか?」

「あ?あぁ、名前な。“とら”だ。縞柄だからな」


 動揺を悟られぬよう、視線を外してジッポライターのヤスリに親指を引っかける。こんな時に限ってなかなか火が点かない。


「白黒なのに“とら”なんですか?」

「ダメか?」

「いえ、なんでなのかなって」


 一花は柔らかな表情のまま膝の上のとらを優しく撫でている。

 気に入らないわけではない。単なる疑問のようだ。

 ようやく煙草に火が点いて少しホッとする。


「そんな猫がいたんだ」

「?」

「ガキの頃、一冊だけ持ってた絵本に」


 どこへやったか忘れたけどな。

 そう言って一花に当たらないよう、顔を横に向けて煙を吐き出す。


 表紙も破れてボロボロになった絵本。

 真っ白な背景に描かれた目つきの悪い猫。覚えているのはそれだけだ。

 泥と血が洗い流された猫の毛色を見るまで思い出すことも無かった。

 自ら蓋をして見て見ぬふりをしてきた遠い過去が突然よみがえってきたはずなのに、妙に気持ちが穏やかなのが不思議でならない。


 遠い目をして唇に煙草を近づける廉司に、一花が口を開く。


「『100万回生きたねこ』?」


 一花が口にした言葉にハッとする。


「ちがいましたか?」

 問いかける彼女の口元が柔らかな笑みを湛えている。


「白黒の、縞模様の猫が出てくる絵本って、それかなぁって」

「あぁ、そうだ……確かそんなタイトルだった」


 忘れかけていた記憶が断片的に色を取り戻す。

 内容もよく分からなかったのに飽きもせず、何度も「読んでくれ」とねだった。

 母はその度に、静かに微笑んで白い表紙をめくってくれた。

 幼い廉司を膝に座らせた母の匂いに包まれるような錯覚に陥る。


「……懐かしい。話は全然思い出せねぇけどな」

「すごく素敵なお話です。私も小さい頃よく読んでました」

「本、好きなのか?」

「はい。今でも空き時間によく読みます。難しいのは苦手ですけど」


 俺はカンタンなのも苦手だ。

 そう返すと一花が小さな鈴を鳴らすように笑った。笑われたはずなのに胸が温かくなる。

 一花に撫でられているとらは安心したように目を閉じている。

 こんなに満たされた気持ちになったのは初めてだった。

 そっと腕を伸ばし、まだ十分吸える長さの煙草をテーブルの上の灰皿に押し付けた。


「あ、引っ掻き傷」

「ん?」


 廉司のシャツの袖から覗いた無数の赤い筋を一花が見つけた。


「とらちゃんですか?」

「あぁ、そうだ。やられた。すり寄ってくるから撫でてやってるのに、いきなり腕にしがみついて蹴りを入れやがる。離そうにも止めねぇ。何が気に入らねぇんだか」

「それ、多分じゃれてるんです」

「あ?」

「痛い思いされてるなら、けりぐるみをあげたらどうですか?」

「『ケリグルミ』?何だ、それ」

「それはペットショップに売ってるんですか?」


 突然、応接間の入り口に現れた夏目にぎょっとする。

 一方の一花は驚く気配も見せず、夏目にけりぐるみの説明を始めた。


「あの、長い形をしてて、綿が入ってて。そうですね、人間の抱き枕に近いというか……」

「猫に抱き枕? うーん、いまいちピンとこないですね。正直、俺も若も猫を飼ったことがないので、どういったものを揃えてやればいいのかよく分からないんです。店員に聞こうにも怖がらせてしまいそうで……俺達、ヤクザですから」

「……」

「そうだ。良ければ一緒に行って頂けませんか?ペットショップ」

「え?」

「おい、夏目」


 何を言い出すのかと睨んだが、夏目は涼しい顔をして廉司の方を見ようともしない。

 どうフォローしようかと一花に目を向けると、彼女は片手でとらを撫でたままじっと考え込んでいた。


(ほら見ろ。お前が困らせるようなこと言うからだぞ)


 夏目の配慮の無さを咎めようとした時、一花が徐に口を開いた。


「ごめんなさい」


 その言葉に、やっぱりなと思いながら気落ちする。

 夏目を責めておきながら、どこかで期待していた自分に呆れた。

 居た堪れなくなって新しい煙草に手を伸ばす。


「休みが無くて……」

「お仕事が大変だって仰ってましたもんね。そうですよね、困らせてしまってすみません。忘れて下」

「でも、再来週。再来週の水曜日なら空いてます。それまで待ってもらえませんか?」

「!」


 思わず漏れそうになった声を、喉の奥に引っ込める。

 夏目が見たこともないような笑顔を顔に貼りつけている。


「本当ですか?助かります」

「いえ、私もとらちゃんの事、ずっと気になってましたから。成り行きとはいえ、大変な事を引き受けていただいて……本当に感謝してるんです」


 ね、とらちゃん。良かったね。

 そう囁いて、また顔を綻ばせた。


 廉司の頭の中は、もうぐちゃぐちゃだった。

 それを二人に悟られまいと、ソファに深く身を沈め、口元を隠すように片肘をついて固まっていることしか出来ない。

 身動きの取れない廉司をよそに一花と夏目は、どんなものが必要か、どこに行けば全て揃えられそうかと意見を交換している。その様子が実に楽しそうに見えて、廉司は不機嫌そうな視線を部屋の隅へ投げた。

 

 その時、ちょうど床の間に飾ってある置き時計が夜の十時を告げた。


「あ。じゃあ私そろそろ……」


 眠っていたとらを優しく抱き上げて夏目に返すと、黒い服にびっしりとついた毛を払おうともせず、一花は帰り支度を始めた。

 せっかく出して頂いたのに。そう言って、ほとんど口をつけていないグラスの中のジュースに申し訳なさそうに目を向けた。


「お気になさらず。では、再来週の水曜日に」

「はい。先の話になってしまって、すみません」

「いえいえ。こちらが無理にお願いしたんですから。じゃあまた日が近くなったら時間と場所を」

「はい」

「若にメールで」


 突然呼ばれてハッと視線を上げる。

 ボディーバッグを背中に下げた一花が廉司を見つめていた。穏やかな笑みを浮かべながら。


「また、メールします」

「……おぉ」

「おやすみなさい、廉司さん」


 ペコリと頭を下げて応接間を出た一花を夏目が玄関まで送っていった。

 廉司は、ポツンと一人取り残された部屋で、一花に向かって上げかけた手を戻すことも出来ず、宙に浮かせたまま暫く呆然としていた。


 一花のために用意されたグラスの表面を水滴が滑り落ちる。

 廉司の煙草が指に挟まれている支点を中心にゆっくりと傾き始めたとき、急に夏目のどアップが視界いっぱいに広がって心臓が飛び出そうになった。


「若」

「! 熱っ!」


 煙草が指先で回転し、裸足の甲に落ちた。チリっとした痛みに飛び上がる。

 大丈夫ですか、という冷静な問いかけに思いきり睨み返した。


「もうそろそろお休みにならないと。明日は今年最後の定例会です」

「、わかってる……っ!」

「あの事は報告されるんですか?」

「あの事?」

「半グレと白スーツの件です」


 一花の前とは打って変わって冷たさを取り戻した夏目の声に、一歩遅れて頭を回転させる。


「定例会で挙げることじゃねぇ。今の段階ではな」

「そうですか」

「するとすれば事後報告だ。執行部のジジイ共に口出しされるのはごめんだからな」

「わかりました」


 床に火が移らないうちに拾い上げた煙草を灰皿の上で揉み消す。二本のフィルターが身を寄せ合った。


「さぁ、寝るとするか」

「九時には車を温めておきます」

「おぉ」


 勢いよく立ち上がったものの未だ完全に落ち着きを取り戻せない廉司は、撫でつけた髪をガシガシと掻き毟りながら応接間を後にする。

 その様子を視界の隅に捉えながら夏目はテーブルの上を片付け始めた。


「ご苦労様です」

「んー」

「明日は早いですから。ちゃんと起きて下さいね。『廉司さん』」


 茶化すような背後からの呼びかけに一瞬思考が停止する。

 廊下の埋め込み棚に飾られていた重さ5キロの木彫りの大黒天を片手で掴み上げ、勢いよく応接間を振り返る。

 だが、もう夏目の姿はそこになかった。

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