第十話 絶滅ドラム缶

 叔父さんがウッドストーブで小豆を炊きながら言った。


 もしも世界の終わりがやって来て、幸運にも厄災から逃れて生き残って、不幸にも人類最後の一人になってしまったら、ノルウェーへ行くんだ。そこにすべての豆が保存されている。


「何故ノルウェー?」


 何故って、そこはとても寒いからだ。


 いやいや、そう言う意味じゃなくて。叔父さんはその一言ですべてを言い切ったかのようなどや顔で小豆が煮える鍋を揺らした。あたしは叔父さんのおしるこを心待ちにしていた。だから早くこの話題を切り上げようと会話を進めた。


「ノルウェーにすべての豆って時点で意味不明なんだけど、人類最後の一人になっちゃってノルウェーに行ってどうすればいいの?」


 ノルウェーと北極の間にあるスヴァールバル諸島に世界種子貯蔵庫があるんだ。永久凍土の地下に世界中の植物の種子を保存しておくための施設だ。


「種子って言ったらタネでしょ。マメじゃないよ」


 似たようなものだろ。たとえば世界が滅亡して、大地の植物すべてが枯れ果てても、スヴァールバル諸島へ行けば植物の種子が手に入る。再び緑の大地を復活させられるんだ。来たるべき世界の終わりに備えて知っておいて損はない情報だ。


 叔父さんはくつくつと煮える小豆を木ベラで転がして言った。あたしはコンロでおしるこ用のお餅を焼きながらささやかな反論を展開させてみる。お餅はいい感じに膨らみつつあったし。


「タネから育ててたら食べられる実が育つ前に餓死する自信があるよ」


 それはまあ、世界の終わりってのは物の例えだし。


 叔父さんは木ベラを指揮棒のように振り回して架空のオーケストラを指揮しながら誤魔化した。


「それにどうせならお肉食べたいし。世界お肉貯蔵庫ってのはないの? 来たるべき世界の終わりに備えた食用のノアの方舟的な」


 あたしの追撃。叔父さんは精神的ダメージを受けた。叔父さんは倒れた。そしてむくりと起き上がり、仲間になりたそうにこちらを見つめている。


 お肉かー。やっぱキャンプには肉だよな。そのお餅が焼けたらソーセージも焼くか。


「ハイハイ、待ってましたー。世界の終わりが来る前にソーセージを焼きましょー」


 切り餅がそのお腹を割ってぷっくらと膨らんだところを、叔父さんは焼き網の上からさらって小豆の鍋に投入した。


 世界の終わりがやって来たとしてさ、最後の晩餐は何にする? 人生最後の時に何を食べたい?


 叔父さんが鍋を揺すって言った。小豆の鍋の中にお餅が入場した事により、甘美なるおしるこ感が一気に高まった。溶けた砂糖の甘い香りがふわっと漂って来る。早く食べさせてよ。あたしにとっては最後の晩餐よりも今のおしるこの方が重要なので、さっさとこのテーマも切り上げてしまおう。


「急にそんな事、思い浮かばないよ。そう言う叔父さんは何が食べたいの?」


 俺は甘いのだな。砂糖があれば他に何もいらない。最後の晩餐は、まさしくこの俺特製のおしるこでいいや。世界の終わりにスヴァールバルへ行って小豆を育てるさ。


「じゃあソーセージ焼きながらとっととおしるこ食べましょー。これが人生最後のおしるこになるかも知れないし、充分に甘味を噛み締めましょー」


 結局、あれが叔父さんにとっての最後のおしるこになったのだろうか。世界は滅亡して、叔父さんはもういない。あたしにカブとキャンプ道具を残してくれたけど、特製おしるこのレシピは聞けずじまいだった。


 最後の晩餐。人生最後の時、何を食べたい?


 ドトールのミルフィーユ。ミスタードーナツのエンゼルクリーム。マクドナルドのポテト。叔父さんのおしるこ。父さんのパンケーキ。母さんの豚汁。


 どれもあたしの大好きなものだけど、もう食べられない。人類絶滅の時が来て、いざとっておきの最後の晩餐を食べようとしても、それらを作ってくれる人はもういない。誰もいないんだ。コーヒー一杯飲むのも火起こしから始めなきゃなんない世界になってしまった。


 世界の終わりは突然やって来る。人類絶滅なんてあっという間だ。父さんと母さんと山でキャンプしてて、朝起きたらあたしひとりっきりだし。それからずっと一人で生きてきた。最後の晩餐に何が食べたいか何て考える暇はなかった。毎日、何を食べて生きていこうか考えるのに忙しくて。


 人類絶滅後、スヴァールバル諸島の世界種子貯蔵庫へ行かなくてもいいくらいに植物達は繁栄しまくっていた。虫も姿を消したってのに、植物ってこんなに早く成長するもんだっけってくらいに生い茂っている。


 かっちりとアスファルトで固められた国道ですらミドリ色のフィールドになってしまっていた。道路脇の植え込みはあたしの背丈を越えるほどに盛り上がってるし、街路樹は道路に大きな影を落とすまで枝葉を縦横無尽傍若無人に広げている。学校に通っている時は全然気が付かなかったけど、ただの道路脇の植え込みも人の手によってちゃんと管理されていたんだね。人がいなくなって、ほんと自由に伸び放題だ。


 アスファルトを突き破って飛び出している名前も知らないひょろ長い雑草を避けてカブを走らせながら、あたしは父さんの言葉を思い出していた。


 世界は終わらないよ。誰か一人でも生き残っている間は人間世界は続いている。世界の終わりとはすべての物質が原子崩壊した時の事を言うのだよ。


「そう言う物理的な問題じゃなくてさ。ポストアポカリプス的な世界の終わりに、最後の晩餐に何を食べたいって話さ」


 ポストアポカリプスって言っても、いろんな終末論があるだろ。実際問題として世界の終わりにまともな食材なんて残ってないと思うぞ。


「そう言う現実的な問題じゃなくてさ」


 父さんは大根、人参、牛蒡、油揚げ、そして里芋と豚肉がたっぷりと入った芋煮をおたまでかき回しながら言った。


 そうだな。終末の世界に生き残っている食べられそうな植物を鍋で煮込んで芋煮を作ってそれを最後の晩餐とするかな。あ、味噌あるかな。世界の終わりに味噌を手作りするとなると大変だぞ。


 父さんはおたまを指揮棒のように振り回して架空のオーケストラを指揮しながらふざけて言った。


「味噌なら賞味期限気にしなくていいじゃない。きっと廃墟と化したコンビニの隅っこに置いてあるよ。野菜は世界種子貯蔵庫とかなんとかに行ければなんとかなるかな」


 別にスヴァールバルまで行かなくたって野菜なら農家さんのとこに行けばいいだろ。人類絶滅後でも農家さんは最強の職業だぞ。人の世話がないと育たない軟弱な野菜もあるけど、何世代も厄災を乗り越えて野生化した野菜だって生き残っているはずだ。最後の晩餐は野生野菜の芋煮で決まりだな。あ、豚は絶滅していないって設定かな。豚肉がない芋煮は寂しいぞ。


 父さんはあっさりとスヴァールバルの名を挙げた。ポストアポカリプス界隈ではそんなにメジャーな名前なのか、スヴァールバル諸島。


 そんな訳で、あたしは最強の職業、農家さんの仕事場を目指してカブを走らせていた。最悪ノルウェーまで走らなきゃなんないかって覚悟していたけど、まずは近くの畑に行ってみよう。


 そもそも人類絶滅後の世界でどうやってノルウェーまで行けばいいのやら。ユーラシア大陸を端から端までカブで走れって言うのか。まあ、やってみたいけどね。カブで大陸横断。いやいや、大陸横断以前にどうやってカブ一台で日本から大陸に渡ればいいのよ。


 大陸横断とまではいかないけど、今回はカブで東京横断だ。


 東京横断じゃなくて縦断すれば、平べったい東京をすぐに走破して他県へ越境できたんだろうけど、行き当たりばったりで闇雲に走ったって目的の場所が見つかるはずもない。貴重なガソリンの無駄遣いに終わるのが関の山だ。ちゃんと東京の観光ガイドブックで下調べして、あたしが設定する条件をクリアする土地を探して、走行ルートを計算して、それからようやく出発だ。


 あたしが求める条件。まずは畑だ。野菜を育てていた畑を持った農家さんが近所にあって、歩いて行ける範囲にきれいな川なんかがあれば言う事なし。そして安心して焚き火を育てられる屋根がある広い場所。その条件で観光ガイドブックの地図を探しまくった。


 ネットが生きてたらスマホでぽちぽちと検索すればあっという間に見つかるんだろうけど、今のあたしには中途半端な厚さの観光ガイドブックが唯一の情報源だ。とても狭い世界になってしまった。それでも、やっぱり情報ってのは偉大だ。あたしの進むべき道を示してくれる。


 東京にもあるじゃないか。コンクリートとアスファルトの砂漠に、道の駅ってオアシスが。周辺の農家さんからありとあらゆる野菜が集められた道の駅は、まさしくノルウェー沖に浮かぶスヴァールバル諸島の世界種子貯蔵庫だ。




 人類絶滅後、食事はどうしても偏ったものになってしまう。仕方ないよね。その手軽さから缶詰と乾燥麺類ばかり食べてるし。と言うか、それぐらいしか手に入らないし。


 なので栄養は偏りまくりだ。賞味期限をほぼ無視できるチョコレートやジャムで糖分は補給できても、やっぱりビタミン類が絶対的に不足してしまう。野菜だ。コンビニやドラッグストアでビタミン系のサプリメントを借りる事もできるけど、やっぱり野菜が食べたくなる。


 人類絶滅後の世界で野菜は超のつくレア食材なのだ。新鮮な野菜なんて夢のまた夢だ。サバイバルキャンプの訓練として食べられる野草の勉強もしとくべきだったな。今度図書館でキャンプして食べられる野草の図鑑でも捜索してみようかしらね。


 あのアスファルトを割って伸びている草、なんか春菊の葉っぱに似ていないかな。天ぷらにしたら美味しいかも。あっちの植え込みから飛び出ている葉っぱは大葉によく似ている。刻んでお蕎麦の薬味にならないかな。


 そんな事を考えながら伸び放題の植物の群れを見ていると、なんだかどれもこれも美味しそうに見えてきてしまう。だからと言って気軽にぱくって口に入れちゃいけない。お医者さんも絶滅した世界だ。ドラッグストアの整腸剤も効かないレベルでお腹を壊しちゃったら、それこそ死に直結してしまう。腹痛で動けなくなり、ごはんも食べられなくなり、じわじわと衰弱していくあたし。これ以上痩せてしまったらさすがに危険水準だわ。


 細くなった脚をぴんと踏ん張って、シートをニーグリップしてカブを立ち乗りで運転する。二十三区を離れて、自然の緑色はますます濃くなっていた。背の高いビルが姿を消して、代わりにまるで林道を走っているかのように生い茂る植物が視界を遮っている。人類が絶滅して九ヶ月、正確には九ヶ月と三週間と六日、人間の街は異常な速度で成長する植物達に着々と侵略されていた。


 地図通りに走れていれば、もうそろそろ目的地に着いてもいいはずだ。地図を脳内で3D化させた映像と、現実の植物に侵略された街の光景とがあまりにもかけ離れてて、走っていて距離感が失われている。


 目的地を通り過ぎちゃったかなって不安になってきた時、荒れ放題の木の枝の隙間に大きな看板のようなものが見えた。ふらっと、センターラインを突き破るように生えていた背の高い雑草を避けて対向車線側にはみ出てみる。そしたら急に視界が開けて広い場所に出た。駐車場だ。


 ほら、あたしのカンは見事に当たった。駐車場は背の低い雑草が生えまくっていて、でも街路樹が植わってない分だけ空が広く見えた。ぱあって明るい青い空の下に、窓が大きくて斜め屋根の開放的な建物がある。間違いない。観光ガイドブックに写真が載っていた建物だ。東京都内最大級の農産物直売所、あきる野ファーマーズセンターとかなんとか。


 砂埃に覆われた車が何台も放置されているけど安心して焚き火ができそうな広い駐車場。テントを張るのには申し分ない広さの開放的なエントランス。窓が大きくて太陽の光がたっぷり注がれている天井の高い店内。観光ガイドブックに載っていた写真のままの、人類絶滅後の世界で理想的なキャンプ施設じゃないか。


 カブで駐車場を斜めに突っ切って、エントランスにびたっと横付けする。ヘッドライトで店内を照らし、中の様子をそうっと窺う。うん、中まで太陽の光が差し込んでいて、少し影になっている部分もあるけど黒い夜達はいなさそうだ。真っ暗じゃない。それだけでほっとする。


 さすがに十ヶ月近くも放置されて、芽が出て、腐って、乾いて、もはや原型もとどめていない野菜達。いや、かつて野菜だったものと言うべきか。でも缶詰とかレトルトとか、まだ食べられそうな加工品もたっぷりと見える。店舗奥側は野菜の苗や種の販売コーナーになっているようだ。ほらね、やっぱりあった。叔父さん、スヴァールバル世界種子貯蔵庫は東京にもあったよ。


 観光ガイドブックの情報が古いものでなければ、店舗別館って感じで建物の向こう側に見えるのはバーベキュー用の施設で、さらに駐車場の奥側は貸し出し農園となっているはずだ。キャンプするのにこれほど好条件な物件があるだろうか。


 ここをキャンプ地とする、とばかりにカブのエンジンもかけっぱなしで飛び降りて、風防ドアに脚をねじ込んで無理矢理押し開ける。全域停電のせいで自動ドアが動かなくなっているだけでロックされてはなく、自動ドアはすんなりと開いてくれた。


「こんにちはーっ」


 わかりきっているけど、一連の流れとしていつものように一声かけておく。


「誰かいませんかー?」


 しんっと静まり返っている店内にあたしのかすれた声が染み込んでいく。誰とも喋る事がないから声の出し方を忘れてしまうわ。咳払い一つして声がけを続ける。


「お邪魔でなければ、ここにテント張ってキャンプしてもいいですかー?」


 当然のように返事はない。あたしの声に反応してくれるのは静けさだけだ。いや、むしろ返事がある方が怖いか。あたし以外にいったい誰がいるのやら。さて、返事がないのはどうぞご自由にって意味だ。では、遠慮なくキャンプさせていただきます。


 どこにテントを張ろうか。外の焚き火からの光が届く範囲で、それでいて風が入ってこないぎりぎりのラインを見極めて。と、店舗エントランスできょろきょろ見回していると、壁に貼られた情報掲示板の一枚の写真が目に飛び込んできた。


 裸の少年のにっこにこした笑顔の写真だ。アウトドア体験クラブ会員募集、と書かれたポスターに貼り付けてあった。地図を見ると、この道の駅からすぐのところ、川辺に小さなキャンプ場があるっぽい。そこでアウトドアキャンプが体験できるようだ、が。あたしの目はポスターの裸の少年の写真に釘付けにされた。問題は裸の少年じゃない。裸の少年が何に入っているか、だ。


 それは紛れもなくドラム缶風呂だった。



 

 コンクリートブロックはけっこう重い。それを八個も運ばないとなんない。でもこれが大事な作業なんだ。どこにドラム缶風呂を設営するか。川のすぐ近くじゃないと何度もお水を汲むのがすごく大変だし、かと言って川に近過ぎても焚き火の火力を維持するのがちょっと厄介になるし。

 

 どこか真っ平らでごろごろした石も少ないドラム缶を置くのに適した場所はないかなって河原を見て回ると、きっと前回のアウトドア体験会かなんかでドラム缶風呂を置いたであろう焚き火跡を見つけた。丁寧に石をどけてあって、まさにブロックを積んだような四角いへこみも見て取れる。ちょうど川の流れとキャンプ場管理小屋兼倉庫の間ぐらいで、すのこなんかも置けそうな平らな場所だ。水運びにも薪運びにもちょうどいい距離感。ここだね、お風呂場は。


 コンクリートブロックを二つ重ねて、その山を四つ均等に配置する。その上にドラム缶を乗せて、ブロックの間で火を焚くんだ。ちゃんと空気が流れ込むようにブロックの穴を向き合わせないと。


 コンクリートブロックも重いけど、それにも増してドラム缶はもっと重い。たとえ空っぽのドラム缶でも、そこらの女子高生が持ち上げられるものじゃない。ドラム缶は持ち上げて移動させるんじゃなくて、転がして移動させるものだ。


 管理倉庫にあった四本のドラム缶風呂。ちゃんと手入れされてたみたいで、明るい色に塗装されてて錆びも全然見られなかった。一番手前にある一本に手をかけて、軽く前後に揺すってみる。ごわんごわんって内側に響く音を立ててドラム缶は小さく揺れた。


 うん、あたし一人で持ち上げるのは無理だけど、転がす事は出来そうな重さだ。本当に久しぶりのまともなお風呂なんだ。何だってやってやるさ。もうプールでの水風呂やお湯タオルで身体を拭くだけの見すぼらしい生活ともおさらばだ。


 ドラム缶の縁に両手をかけてぐいとドラム缶本体を引き寄せる。ドラム缶は少しだけ手前に傾いた。でもすぐに元の位置に戻ろうとするが、そこですかさず今度は向こう側へ押してやる。すると今よりも大きく向こうへ傾く。後はこの繰り返しだ。徐々に前後の傾きを大きくしてやり、倒れそうで倒れないぎりぎりの角度を探る。そしてだいたい斜め六十度ぐらい、絶妙なバランスでまるでドラム缶が片脚立ちしてるみたいな傾きを維持してやる。その状態で縁にかけた手で車のハンドルを回すみたいに転がしてやれば、重たいドラム缶だってか弱い女子高生一人でも移動できる。


 ごろごろとバランスを保ちながら大きな石がごつごつとした川縁を転がして、ドラム缶風呂をコンクリートブロックの土台まで持ってくる。何だか不思議なもので、ドラム缶をひと回しするごとにじわじわと笑いがこみ上げてきた。ドラム缶をごろりとひと回し、頬がにんまりと緩む。ドラム缶をごろりともうひと回し、鼻からふっふっと息が漏れる。ごろりごろり、口元に浮かぶにやにやが止まらない。


 片脚立ちしてるみたいなドラム缶をブロックの上に降ろしてやる時には、もう笑いを堪えるのに唇を噛むほどだった。人間なんて誰もかれもいなくなった世界で、たったひとり、あたしは何をやってるんだか。たかだかドラム缶でお風呂するくらいで、何をここまで一生懸命になっているんだか。お腹が震えるくらいに笑えてくる。


 たくさんの薪木にすのこや踏み台、手桶とか、お風呂に必要なものは全部管理倉庫に置いてあった。至れり尽くせりのドラム缶風呂だ。笑いを噛み殺しながら、にやけ顔でセッティング終了。さあ、お風呂だ。


 うふふって笑いながらジッポライターで新聞紙に火をつける。どこの放火犯よ。そしてたぶん、あたしは最速記録更新の速さで焚き火を育て上げてしまった。やればできる子じゃないか。


 ドラム缶下はオレンジ色の炎がぐるぐると渦巻いて、コンクリートブロックの穴からうまく空気が流れ込んでいるようだ。火力は申し分ない。後は川の水だ。もう火もつけちゃったし、ドラム缶は言わば風呂釜を空焚きしてる状態だ。早くお水を入れないと。


 笑い声で息を弾ませながらバケツ片手に川までジャンプ。トレッキングブーツごと日焼け対策のタイツのふくらはぎまでざぶんと川に浸かる。どうせお風呂に入るんだからって謎理論を展開させてじゃぶじゃぶ景気良く行こうか。


 川を汚す人間や生き物がいなくなったせいか、流れる水はとても澄んでいて冷たい。どうせお風呂に入るんだから理論に基づいて、バケツを一気に潜らせて清らかな水でいっぱいにしてやる。ぐいっと胸の高さまで持ち上げて、やっぱ満タンだと重すぎるわって大胆にこぼす。あたしは服の上から水浴びするみたいに胸から冷たい川の水をかぶってやった。


 どうせお風呂に入るんだから理論をさらに展開だ。この際だ、洗濯も済ませちゃえ。バケツに残った水をもう一度身体にかぶる。コットン生地のパーカーはみるみる水を吸って中に着てる長袖Tシャツまでひやーっと濡れて冷たくなった。おへそのくぼみにまで川の水が流れたのがわかる。


 いやいや、あたしは何をはしゃいでるんだ。ドラム缶風呂が空焚きで焼けて傷んでしまう。水浴び兼洗濯はお風呂が沸くまでの時間でやりましょう。


 改めてバケツを川の流れに沈めて、今度はちゃんと持ち運べるように目分量で半分くらい澄んだ水を汲む。水浸しのトレッキングシューズをがっぽがっぽと言わせて燃えるドラム缶までバケツを運び、バケツの水を熱せられたドラム缶の底へ勢いよくぶちまけた。もうかなり熱を持っていたのか、水はじゅわっと飛び立つような音を立てて蒸気を吹き上げた。


 湯気が沸き立つドラム缶を覗き込むと、バケツ半分の水はドラム缶サイズではびっくりするくらい少なくって、底に薄っすらと溜まってるだけだった。少なくともドラム缶の半分、百リットルは溜めたい。このブリキのバケツに半分でせいぜい五リットルくらいかな。どれだけ川とドラム缶を往復しなきゃなんないの。服を着たまま水浴びとか遊んでる場合じゃなかった。


 再び流れる川の浅瀬へ笑いながらダイブ。透き通った鏡みたいに青い空を映している川面を揃えた両足で突き破って、大きな波紋が流れに消える前にバケツをざぶんと水に潜らせる。水汲みみたいな単純作業はバケツ何杯とか何往復なんて計算しちゃいけない。とにかく勢いが大事だ。疲れて嫌になるよりも早くドラム缶をいっぱいにしてやればいい。


 じゃぶじゃぶと水をこぼしてアウトドアスカートも水浸しにしながら重たいバケツを担ぎ上げて、全然空っぽのドラム缶に冷たい水を注ぎ込む。また川まで大股で歩いて飛び込んで、水を胸からかぶる勢いでバケツで掬い上げる。汗なんだかこぼした水なんだかわかんないくらい全身ずぶ濡れになって、長い前髪からぽたぽたと水滴を垂らしながら何度も何度も浅瀬とドラム缶を往復して、そしてようやくドラム缶半分を越えるくらいに水が溜まった。


 さすがにこれだけ大量の水ともなるとすぐにお風呂温度まで沸くはずもなく、手を突っ込んでみてもまだ全然冷たかった。さて、ちょうどいいお湯になるまでお洗濯でもしますか。


 水が滴るくらいにぐっしょりと濡れた巻きスカートを解いて、お気に入りのパーカーも川に脱ぎ捨てる。


 ここでどうせお風呂に入るんだから理論を再展開だ。多少身体が冷えちゃっても構わない。むしろその方がドラム缶風呂のお湯の温度が低めでもあったかく楽しめるってものだ。あたしは川底にどっかりと座り込んで、大きめの石を洗濯板代わりにパーカーとスカートを擦り付けりゃようにして洗った。衣服として繊維が傷むだろうけど、別にお気に入りだからって気にしない。またどこかのアウトドアショップに借りに行けばいいんだ。人類は絶滅してしまって在庫は有り余ってるくらいだ。どんなブランドのウェアでも借り放題、着放題だ。


 そうやって長袖Tシャツも黒タイツもじゃぶじゃぶ洗って、ついでに身体もごしごしと洗っちゃえ。下着姿のまま身体を擦ってると、ついに、ドラム缶がもくもくと白い湯気を立ち昇らせ始めた。よし、きたきた。ついにきました。


 焚き火の側に洗った服を干してやって、さあて、にやにやしながらもうもうと湯気に煙るドラム缶を覗き込む。やっぱり普通のバスタブと違って狭い筒状だから湯気がこもりやすいのか、ドラム缶の中まで真っ白だった。ちょっと煮立ち過ぎかな。


 下着姿に裸足のまんまで川に入り、バケツにもう一杯川の水を汲んでドラム缶のお湯に注ぎ足す。それだけで湯気はさあって晴れていった。沸き立つ湯気の割にはそこまで熱くなってないのかな。


 踏み台に登ってバケツでドラム缶の中をかき混ぜてやると、おお、見事に冷え切った身体にちょっとあったかいくらいのお湯が出来上がってるじゃないか。よし、ドラム缶風呂、完成だ。


 まるで大きくてまん丸い下駄のような底板をドラム缶に浮かべる。これで火に直接当たってるドラム缶の底に触れなくて済む仕掛けだ。踏み台の上で身につけているものをすべて脱ぎ捨てて、ぷかぷかとお湯に浮かぶ底板に冷えた足を乗せる。恐る恐る体重をかけてやれば、底板の隙間から熱いお湯がぶくぶくと染み出てきて、足の裏、足首、ふくらはぎへと暖かさが這い上ってくる。


 ドラム缶の縁に手をかけて、えいやっとばかりに沈みゆく底板に飛び乗った。あたしの全体重が乗った底板はざぶんと一気に沈んで、あたしの膝、太ももが小さく渦を巻いてお湯に潜っていく。


 このままお湯の中にどこまでも沈んでしまえ。あったかいお湯に身体を潜らせるなんて何ヶ月ぶりの事やら。おへそ、胸のちょい下までお湯が来たとこで底板がドラム缶の底に達したようだ。あたしは沈んだ勢いのまま身体を屈めて、胸、肩、首までお湯に潜らせた。


 完璧ってこう言う事を言うのね。すっぽりとあたしの小さな身体はドラム缶に収まった。底板の上で膝を抱いた三角座りみたいな格好になってるけど、たっぷり首までお湯に浸かって、頭をドラム缶の内側にくっつけて空を仰ぎ見た。


 ドラム缶の縁に切り取られた青い空が、もくもくと立ち昇る湯気の向こうにまん丸くて、あたしはため息すら忘れて丸い青空に見惚れてしまった。


 何てきれいな青なんだろう。真っ青じゃなくて、かと言って水色とも違う、とても透き通った薄い青。何枚も何枚も透明な青い層を積み重ねて、遠く光を透かせて見上げたような色合い。きっとこれこそを空色って言うんだろう。


 あたしは急に頭のスイッチがオフになったような気がした。何にも考えられない。あたしはこの色の空を見るために、人類絶滅後の世界を一人で生きてきたのか。これっぽっちのドラム缶サイズの丸くて小さい空のため。


 濡れた髪を撫でてくれる川のせせらぎの音。ドラム缶を下から突き上げる焚き火が爆ぜる音。ドラム缶の中で低く反響するあたしの吐息。それらがないまぜになって白く煙る湯気をかき回す。そして焚き火に熱せられたお湯はあたしの体温よりも熱くなって、頭の中にどんどん熱い血を巡らせてくれた。


 何なのさ、この気持ちは。何も考えられなくなったんじゃない。このすっきりとしたシャープな感覚は、そう、何も考える必要がないんだ。こんな世界であたしが生きる理由。人類絶滅後もたった一人で何のために生きているのか。そんな事を考える意味なんてない。


 あたしのスイッチがオフになったんじゃない。まさにスイッチがオンになったんだ。


 あたしはお風呂に入るために生きてきた。そんなシンプルな気持ちでいいんだ。


 って、ちょっとお湯が熱くなってきた。ドラム缶風呂ってどうやって温度調整するんだろ。あいにく人類はすでに絶滅していてこの世界にはあたし一人しかいないし、自分で何とかするしかないか。


 せっかく悟りの境地みたいなのが降りてきたってのに、あたしはドラム缶風呂から上がって、燃え盛る焚き火の太い薪を何本か間引いて火力を弱めて、バケツ片手に川まで跳ねるように歩いた。


 うふっ。うふふって笑みをこぼしながらバケツいっぱいに川の水を汲み、ぼたぼたとこぼしながらドラム缶風呂まで歩いて戻った。全裸で。

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