第九話 絶滅アヒージョ

 猛烈にお風呂に入りたい。


 そう思ったのは、ショッピングモールから足を棒にして歩きに歩き回って、汗だくになりながらようやくキャンプ地である車屋さんの整備工場まで帰って来た時だった。


 まるでフルマラソンを走り切ったかのようにふくらはぎはぱんぱんで、重たいキャリーバッグをころころと引きずってたから肩と肘が外れちゃったかと思うほどかくかく震えている。欲張ってお水の他に缶詰とかジャムとかたくさん借りるんじゃなかった。


 歩き過ぎて汗だらだらでせっかく着心地のいい新品のパーカーも脱いじゃうくらいだし、新調したばかりのロングTシャツもすっかり汗まみれ。前髪もべったり額に張り付いちゃうくらいに顔もべとべとだ。もう速攻でひと風呂浴びたいところだけど、そう、人類絶滅後の世界でお風呂に入るのは相当難易度の高いミッションなのだ。


 電気もガスもなしで大量の清潔なお水を沸かすのがどれだけ大変な事か。あたしは今までの絶滅キャンプ中に十分思い知った。


 幸運にも空っぽのきれいなドラム缶を道端で拾ったとしよう。ドラム缶風呂をやってみるとしても、少なくともドラム缶半分のお水100リットルを用意しなければならない。2リットルペットボトル五十本分だ。コンビニを何軒はしごすれば用意できる事やら。そしてお水をいい湯加減まで沸かしてやるために、乾燥した薪をどれだけ用意すればいいのやら。お茶を淹れるのとは訳が違う。街中でそれだけの量の木材を探す難しさと言ったら。いくらお風呂のためとは言え、やってらんないわ。


 元はと言えば、整備が終わってた軽自動車を勝手に動かしたあたしが悪いんだけどさ。こんな酷い思いをするくらいなら、もう二度と車なんて運転しないって心に決めた。


 クロイヨルン達の大好物なんて、まさかあたしが知る訳もないし。




 朝になって、朝陽の眩しさで目を覚ましたあたしがまずした事は、ショッピングモールの再探検だった。


 お皿の上から消えてなくなったパンケーキ。あたし以外に誰もいないこの世界で、いったい誰がパンケーキを食べると言うのか。それはもうクロイヨルンしかいないだろう。


 あたしが焼いたパンケーキを食べてくれたのか。空っぽのお皿を見ると、家の庭に迷い込んだ猫があたしの手からエサを食べてくれたように、原始的だけれどもささやかなコミュニケーションが取れた気がする。


 でも黒い夜は本当にパンケーキを食べたのだろうか。どうやって? あの真っ黒い塊のどこが口でどこが目なんてわかる訳ないし。もぐもぐやって食べたのか。真っ黒く覆い尽くして飲み込むみたいにして消してしまうのか。人間もそうやって絶滅させたのか。


 朝のお散歩に出るみたいにふらっとフードコートからおでかけする。どこかにパンケーキが落ちていないか、確かめてみないと。本当にクロイヨルンが食べてくれたのか。それとも黒い夜が明かりのせいであたしを襲えずに、腹いせにパンケーキをどこか遠くに吹っ飛ばしただけか。


 朝のショッピングモールは明るかった。昨日と雰囲気がまるで違う。昼間のお化け屋敷みたいなおどろおどろしい空気感がなくなっている。電気が点いていないから相変わらず全体的に薄暗いけど、斜めに入り込んで来る朝陽のせいか、明るい部分にくっきりと影ができるくらい爽やかな光に満ちていた。


 窓のないトイレとか、店舗裏側の従業員通路とか、さすがに日の当たらないところは真っ暗だけど、でも真っ黒ではなかった。昨日までここにいた黒い夜達がどこかもっと暗い場所に移動したかのように、普通に濃い日陰みたいな暗い状態だった。怖さもどこかに行ってしまったようだ。


 建物内が暗くても全然怖くないから、あたしは少し大胆な気持ちになってハンドライト一つだけ手に取ってずかずかとモール奥へと進んで行った。


 そして明かり取りの天窓が近い二階へ。こっちにレストランエリアがあったのは昨日確認済みだ。 昨日は暗過ぎて怖過ぎて近寄れなかったけど、今なら明るくて行けそうな気がする。何か変わったところはないか、食べられそうなものは残ってないか、見に行かなくちゃ。


 レストランエリアには五軒ほどよく名前を聞くチェーン店が肩を寄せ合うように並んでいて、あたしは適当に一番手前の店に入ってみた。


 誰もいない店内は、当たり前だけど、がらんとしていてあまりにも殺風景だった。


 もしも時間が止まってしまったら、きっとこんな風に生活感ってのが失われていくんだろう。テーブルの上にはかさかさに乾いたカップや食べ物の痕跡がこびりついたお皿がきちっと並べられていて、九ヶ月以上も誰にも座られる事がなかったベンチスタイルの席には薄っすらと埃が積もっていた。どこを見ても生命感が感じられず、言いたくないけど、どうしてもあの言葉を思い浮かべてしまう空間だ。あの言葉。それは死の世界。人類絶滅後のファミリーレストランに見る光景は、荒れ果てたフードコート以上に誰もいないと言う孤独を煽ってくる光景だった。


 せめてもの救いは大きな窓の外が眩しい光に溢れているってとこか。ほんと、太陽って偉大だね。怖いくらい殺風景なファミレスの光景をぎりぎりのところで温かみのある空間へと踏みとどまらせている。


 太陽の下、遠くにこんもりとした緑の塊となっている山々が見え、太い道路には車の姿は全然なくって真っ直ぐなラインが気持ちいいくらいだ。広々と見渡せる大駐車場の車はみんな死んだカナブンみたいにお腹を見せてひっくり返っている。窓からの広い景色も悪くないし、ここで朝ごはんを食べようかな。厨房を借りて、パンケーキをちょいとアレンジして焼き直して。


 一人鍋用の固形燃料でもあれば助かるな、と厨房を覗き込んでから、あたしははっと息を飲んで恐る恐る窓の方へ首を傾けた。


 車が、みんな、ひっくり返っている。死んだカナブンみたいに。セミの死骸のように。海面に浮かんだ魚の死体のようにお腹を上にしてひっくり返っている。


 ざっと見渡しても大駐車場に百何十台はあるだろうか。小さな軽自動車も大きなワゴン車も、高そうな外国車も安そうな普通車も、それらの車がすべて裏返しになって乱雑に転がっていた。まるで無邪気な子供がミニカーをひっくり返して遊んだような。


「何、これ」


 思わず震える声が漏れた。窓に顔を寄せ、駐車場を見下ろすようにしてあたしが乗ってきた軽自動車を探す。正面エントランス前にびたっと停めといたはずだ。


 あった。停めた場所にはあったが、やっぱり裏返っている。そればかりか、何度もひっくりかえしては元に戻し、また転がしては裏返しにしてって繰り返したように、遠目で見てもわかるくらい外装がぼろぼろになり、フロントガラスも粉々に割れ砕けていた。


 もし、フードコートでキャンプせずに車中泊をしていたら。あたしが車に乗ったまま、あんな風に乱暴に弄ばれていたら。背筋にぞうっと悪寒が走り、脚がかたかたと震えてきた。


 ひょっとして、パンケーキを食べてくれたクロイヨルンとはまた別の黒い夜が、あたしの車を追いかけてきたあいつがここまでやってきて、エンジンがまだ温かい軽自動車を見つけて、ここまでぼろぼろにしてしまったのではないか。他の車も、駐車場にあるすべての車を覗き込んで、あたしを探していたのではないか。


 悪意があろうか、無邪気な遊びだろうか、そんなのはどうでもいい。ここにいちゃいけない。一刻も早くここから離れなきゃ。


 あたしはフードコートに駆け戻って、昨日バッグ屋さんから借りたキャリーバッグにお水と缶詰とジャムを詰めるだけ詰めて、ハンドライト一つを武器として構えて、慌てず、走らず、息を潜めて正面エントランスに向かった。


 あたし一人分入れる隙間が開いたままの自動ドアの向こうに、ドアもボンネットもべこべこにへっこんだ軽自動車がひっくり返っている。フロントガラスは無残にも破られて、まるで大きな生き物が舌を力なくだらりと垂らしているみたいに運転席のシートがフロントガラス部分から突き出ていた。


 太陽の下、黒い影の部分は少ない。黒い夜は今ここにはいない。でも用心に越した事はない。ハンドライトの強い光を車に当てて、あたしはその側を通り抜けた。


 車屋さんのキャンプ地からこのショッピングモールまで目の前で裏返しになっている軽自動車で走ってきたってのに、足を失っちゃって、あたしはどうやって帰ればいいのさ。


 歩けばいいんでしょ、歩けば。重たいキャリーバッグをころころと引きずって、キャンプ地まで歩いて帰りますよ。まだ朝になったばかりだ。数時間も歩けば帰れる、はずよね。


 すべての車がひっくり返ってる大駐車場を抜けて、街路樹や植え込みの植物が鬱蒼と茂った道路まで歩いて、あたしは早速途方に暮れた。


 帰り道は右かな、それとも左かな。あたし、どっちから走って来たっけ?




 猛烈にお風呂に入りたい。それと同時に、猛烈にお腹空いた。たくさん歩いたから、カロリーたっぷりの油っこいものをたらふく食べたい。運動の後はやっぱり動物性タンパク質だ。


 お風呂の件はいったん置いといて、まずはごはんにしよう。ショッピングモールのスーパーから缶詰をたくさん借りてきたんだし、今日は贅沢してもいいでしょ。


 あたしはとりあえず汗まみれの長袖Tシャツだけ脱いで、売り物の新車のドアに引っ掛けて干した。今日はいい天気だ。こうしてればすぐに乾くでしょ。また川で洗濯しなくちゃって考えながらネルシャツを羽織って、カーディーラー前の道路へ向かった。


 道路脇の街路樹から落ち枝を適当に拾う。もうどこの森だよってくらいに枝葉が伸びまくっていて、風に折られた枯れ枝が拾い放題だ。焚き火の餌に困る事はない。ウッドストーブに焚べるどころか、あとで焚き火が出来るくらい両手いっぱいに拾える。


 ふと、道路の真ん中に放置されている車が目に入った。元はきれいだったはずの赤いボディもすっかり砂埃に覆われて、運転席側のドアが開けっ放しで、タイヤを少し斜めにして停まっている。


 全体的にしゅっと締まったデザインの車で、見た目からあたしの軽自動車よりも断然スピードが出て、相当パワーもあるだろうってわかる。って、あたしの軽自動車じゃないか。


 ドアが開きっ放しで道路の真ん中に放置されてたって事は、きっと走行中に黒い夜に襲われて何らかの理由で走れなくなったんだろう。運転手さんは逃げられたのかな。それとも飲み込まれるように消えてしまったのか。どっちにしろ、黒い夜は車を狙うって事で間違いない。


 自動車の走行音、熱、運動エネルギー。黒い夜はそれらを食べている。そう思う。人間や動物など、動くものも飲み込んでいるんだろうが、あくまでも積極的に人間を狙っている訳ではなく、自動車が持つ大きなエネルギーを奪おうとするその過程で人間も消しているだけじゃないか。人間の身体そのもの、家庭用の小型発電機やあたしのカブ、焚き火程度のエネルギーには黒い夜は反応できない。だからあたしは今まで襲われなかった。あたしが車を運転して、初めて黒い夜の方から襲いかかってきた訳だし。


 とりあえず焚き火で黒い夜を呼ぶ事はないはず。でも念のため、ごはんを温めるウッドストーブと焚き火と、明かりのための発電機をそれぞれ少し離しておこう。念のため、ね。


 店舗前に展示してある新車のリアハッチを開けば、これだけで立派なタープテントの代わりになる。ちょっと屋根になる部分が短いけどね。でもこれで十分。今日はここでごはんにしよう。


 新聞紙を適当にちぎってジッポライターで火を点ける。かすかな燃え音を立ててオレンジ色の炎を揺らす新聞紙をウッドストーブに詰め込んで、さらに乾いた葉っぱも投入して燃やしてやる。細めの木の枝二本をお箸みたいにしてちょいちょいと火をいじくって空気の流れ口を作ってやり、そこへ枯れ枝を焼べる。ウッドストーブはぱっと花が咲いたように炎を舞い上げて燃えた。


 本日のメインはショッピングモールから借りて来た鯖のバジルオイル漬けの缶詰だ。人類絶滅後、鯖缶にはもはやあたしの主食かってくらいにお世話になっている。どこのコンビニにも置いてあるし、水煮や味噌煮以外にもメーカーごとにアレンジしてあって飽きずに続けられる逸品だし。


 小さめのスキレットにたっぷりとオリーブオイルを注ぐ。イケメン料理俳優もびっくりするくらいにたっぷりとだ。そしてそこへ乾燥ニンニクを投入。香り付けのためだし、景気良くがっつり行こう。ウッドストーブへセットして、あたしの主食を缶からスキレットへ食べたいだけ浸してやる。


 さすがに鯖缶だけじゃあちょっと寂しいし、何より味気ない。今日は色々な缶詰を借りられたんだ。ソーセージの缶詰、焼き鳥の缶詰、ホタテの缶詰、そしてミックスビーンズの缶詰。どんどんスキレットのオイルの海へぶち込んでやる。タンパク質祭りだ。


 鯖缶に残ったバジル入りオイルをスキレットに加えてやって、オイルがくつくつと煮立ってくれば、アヒージョの出来上がり。細い焚き木によるウッドストーブの弱目の火力がちょうどいい火加減で、くたくたのアヒージョ感を見せつけてくれる。


 アヒージョによく合う飲み物として父さんや母さんはワインを飲んでいたけど、人類絶滅後でもあたしは女子高生であって、お酒を飲む気もないので、ペットボトルのお茶でいい。砂糖さえ入っていなければペットボトル飲料の賞味期限なんてあってないようなものだし。


 ラスト一滴まで、鯖の出汁が染みたオイルをいただこうとスキレットの上で鯖缶を逆さまにして振っていたら、ふと、ショッピングモール駐車場のひっくり返った車の群れを思い出した。黒い夜も車を逆さまに振って最後の一滴まで手に入れようとしたのか。


 あたしがコンビニやスーパーにたっぷりとある鯖缶を借りているように、黒い夜達も大型駐車場や国道などの大通りで大きなエネルギーを持った車を漁っていたんだろう。あたしの主食が鯖缶であるように、黒い夜の主食は車、いや、車が持っているエネルギーだ。


 人類が絶滅して車が一台も走らなくなって、黒い夜は主食であるエネルギーを得られなくなって姿を隠して活動を控えているはずだ。もしも、あたしの主食である鯖缶がなくなってしまったら、あたしはどうすればいいんだろう。


 いやいや、さすがにそれは心配し過ぎかな。日本中に、あたしの行動範囲を狭めて東京都内としても、いったい何個の鯖缶が在庫してあるか。考えた事もない。これから先一年二年、そして五年十年と食べ続けられるだけの鯖缶が眠っているだろう。さすがに十年物の鯖缶はちょっと怖いかな。


 黒い夜は大きなエネルギーを刈り取る。その過程で人間をも飲み込み、消し去り、ついに絶滅させるにまで至った。そして自らの主食である人間が生み出す膨大なエネルギーさえも失った彼らは、これからどこへ行くのだろう。


 どこから来て、どこへ行くのか。我々は何者なのか。誰の言葉だったかな。ヨーロッパに攻め込んだ野蛮人の隊長さんだっけ? 


 黒い夜は人間がエネルギーを生み出せるよう進化するまで待って、それから一気に収穫して食べ尽くし、自分達も消えて行くって、地球の歴史上に一瞬だけ現れた転換期なのだと思う。


 地球に生まれた生命は何度も進化と絶滅を繰り返している。父さんが言ってた。人間の文明の前にもいくつか発達した古代文明があったはず。叔父さんが言ってた。


 あたしはたまたまその地球に存在する生命の転換の瞬間に立ち会っているだけの存在なんだろう。そしてそれを見届けたら、あたしはどこへ行くのか。


 いい感じにくつくつと煮立ってるアヒージョにフォークを突き立てる。鯖の切り身はほろっと崩れて、ニンニクとバジルが香るオイルの油面が揺れた。まるで鯖がオイルのお風呂に入っているみたいだ。


 生命の転換期に、人類最後の一人、あたしはどこへ行くのか。まずはお風呂に行きたい。アヒージョのくつくつと揺れる油面を見ながら思った。


 猛烈にお風呂に入りたい。

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