其之四 偽帝の遺産

 古代中国の神話に登場する三皇さんこう(三人の神)の一人に伏羲ふくぎという人物がいる。

 伏羲は陰陽思想を生み出し、八卦はっけを考案し、文字を作り、網と針を発明し、薬草の知識を人々に伝授したという伝説の聖人である。

 魏晋代の名著述家・皇甫謐こうほひつは『帝王世紀ていおうせいき』という本の中で、峴山けんざんは伏羲がほうむられた場所だと記している。

「薬草を採るには聖地のようなところだから、従父おじ上はここに居を構えたと言っていた」

 龐統ほうとう龐徳公ほうとくこうの話題を口にしながら山道の先頭を行った。手には松明たいまつを掲げている。龐徳公はすでに息子に屋敷を譲って漢水の魚梁洲ぎょりょうしゅうに居を移しているが、以前は峴山の麓に住んでいた。

「やはり、聖山の霊気を受けた薬草は薬効やっこうが違うのかな?」

「う~ん、それは分からないな」

 孔明は龐統の後ろを歩きながら、服の丈がぴったりになっているのに気が付いた。

士元しげん、その服だけど、れい姉さんに言われたのかい?」

「分かるか?」

「姉さんはお節介だからね。特に身なりにはうるさい」

「二人とも何を呑気なことを言っているんだ」

 警戒心をみなぎらせ、剣の柄を握りしめて歩く徐庶じょしょが前を行く二人をたしなめた。

 幽霊を相手にしようというのだから、おぼろげに照らし出される山道は一層薄気味悪い。辺りでは陽気と陰気の交代が行われている。夕陽の残光は刻一刻と失われ、代わりに暗黒が滲み出してきて全てを染めた。孔明が後ろに続く徐庶に忠告した。

元直げんちょく殿、幽霊相手に剣は役に立ちませんよ、きっと」

「何も無いよりはマシだろう」

 地元出身の龐統は何度か登ったことがある峴山の山道を目印を確認しつつ、慎重に進んだ。一刻ほど歩いて、目印の一つである八卦岩のもとにそれを見つけた。

「誰か人が倒れています」

「何だって?」

 龐統の掲げる明かりが横たわる小さな肉体を照らし出した。衣服は女性のものである。

「おい、しっかりしろ」

 徐庶が駆け寄って、その女性を抱え起こした。徐庶の声に反応こそしないが、その顔は見知ったものだ。体は温かい。息もしている。

「間違いない。習家の娘だ。生きている。気を失っているようだ」

 徐庶の声は孔明の耳をすり抜けた。ふと孔明が持っていた羽扇うせんの先が静かになびき、孔明は冷ややかな霊気を感じて辺りを見回した。

 八卦岩はそれぞれ卦が刻印された八つの岩が八方に配置された場所である。

 その八方から音もなく、闇の中から現れ出た者たち。精気の失われた青白い顔の彼らは一様に鎧に身を包み、片手に盾を片手に剣を構えている。

「うわ、何だ?」

 驚いた徐庶が身をすくめた。無表情の兵士たちは孔明と龐統にも剣を突き付け、八卦岩の中心へと後退あとずさりさせた。孔明の脳裏に泰山での出来事がよみがえる。

「そなたたち、その娘の家の者か? ちんが求めるものは持ってきたか?」

 その兵士たちをき分けて現れたのは、黒地に青糸で龍の紋様があしらわれた衣装を身に付け、べんすだれの付いた皇帝用の冠)を頭に乗せた貴族風の男だった。

 簾の奥から二つの釣り目がこちらをにらむようにしている。青白い顔は兵士と同様だ。〝朕〟は皇帝が自称する時に用いる第一人称である。ピンときた。

 孔明はそれらの情報だけでそれが誰か見当をつけ、相手に敬意を表すようにして聞いた。

「恐れながら、こう将軍様でしょうか?」

 泰山の時もそうだったが、交渉を行う前にまずは相手をよく観察し、どんな状況に置かれているのかをしっかりと把握しなければならない。

 それによって、言葉選びも変わってくるし、駆け引きも有利になる。

 相手は孔明の問いを「ふん」と鼻であしらった後、

「それは昔の話じゃ。ちんちゅう天子てんしである」

 尊大に答えると、八卦岩の前の石に悠然と腰を下ろした。

 後将軍も仲の天子も袁術えんじゅつのことである。袁術は漢王朝から与えられていた後将軍の官位を放り捨て、自ら天子、つまり、皇帝を自称した。

「ちょっと待て。袁……は……!」

 徐庶の言いかけた口が突然背後からふさがれた。塞いだのは龐統だった。徐庶の横槍が防がれて、冷静さを失わない孔明が代わりに口を開く。

「これは失礼を致しました、陛下へいか

 孔明は相手を立てるようにして言い、ひざますいて平伏した。相手の機嫌を損ねるような態度や文句はつつしまなければならない。それがいつわりの皇帝であろうと、その亡霊であろうと。そして、孔明が平伏したまま続ける。機知を働かせ、自分のペースに持ち込むのだ。

「私は陛下の予章太守・諸葛玄しょかつげんの甥、諸葛孔明と申します」

「おお、胤誼いんぎのか」

 袁術はそれが自分の部下の一族だと知り、気分を良くしたようだった。諸葛玄のあざなを口にして、その所在を尋ねた。

「して、胤誼は今どうしておる?」

「昨年みまかりましてございます」

「死んだのか?」

「はい。予章を失い、陛下に合わせる顔がないと嘆いておりました」

「そうか。だが、案ずることはない。すぐに胤誼も朕の旗の下に加えてやろう」

 徐庶は聞いていて混乱しそうになった。

 建安四(一九九)年六月。劉備りゅうびの討伐軍に敗れて袁術軍は敗走し、消滅した。袁術も死んだという。その情報はすぐに襄陽にもたらされて、荊州のあるじ劉表りゅうひょうも承知している。この情報が間違っていて、袁術は生きて落ち延びてきたのか。それとも、孔明が言うように本当に幽霊となって、死者が話をしているのか。

「叔父はすでに黄泉路よみじに旅立ったかと思いますが」

「フフフ……朕がこのように存在するのじゃ。胤誼も文台ぶんだいもどこかを彷徨さまよっているに違いない」

 文台とは、かつて袁術の命で襄陽を攻めた破虜はりょ将軍・孫堅そんけんあざなだ。孫堅はその時の戦において、この峴山山中で戦死した。

 その魂を捜して移動してきたというのなら、袁術は自分が死んだことを自覚しているのだろう。その目的が何か黒いものであるだろうことも容易にうかがい知れる。

「陛下は孫破虜を捜して襄陽へ参られたのですか?」

「そうよ。文台を捜し出して襄陽を奪い、我が帝国の拠点とするのよ」

 袁術は堂々と自身の野望を再始動させることを宣言した。

「そのために、まずは軍資金を集めなければならぬ。そなたはこの娘の身代金を持参してきたのであろう。それを差し出せ」

「はい。十万銭確かに持参しましたが、このように冥銭めいせんとして用意いたしました」

 孔明は体を起こして、ふところから紙でできた冥銭のたばを差し出した。ところが、見る見るうちに袁術の顔が歪む。いきり立った袁術が腰を上げ、冥銭を指し示す指先を震わせた。

「何じゃ、それは! 朕をたばかるのか!」

「とんでもございません。ですが、陛下はすでに亡くなられております。黄泉では黄泉の金が必要なのではございませんか?」

「黄泉には行かぬ! 朕は仙珠せんじゅの力を得て、死を越えた存在になったのじゃ。冥銭など必要ないわ。帰ってすぐに金を用意してまいれ!」

 袁術は相手が諸葛玄の甥だということも忘れ、恫喝どうかつまがいに命じた。それに応じて、兵士たちの剣も一斉に孔明に付きつけられる。が、

「……な、何じゃ?」

 突如として兵士たちが次々と煙のように掻き消え、剣が地面に落ちる音が続いた。期限切れの時がきたようだ。形勢は逆転した。

 孔明は狼狽ろうばいする偽帝に真相を突き付けた。

「私が聞いたところ、人の霊魂は四十九日の間、この世に留まることができるのだそうです。それを過ぎれば、皆、黄泉の世界へ行くことになります」

「そんなはずはない! 朕は……!」

 袁術の魂も間もなく四十九日目を迎えようとしていた。袁術の姿を形作っていた霊気の結合が力を失って解かれ、静かに闇に溶けようとしている。

 袁術は慌ててふところから黒い宝珠を取り出し、それがまた力を与えてくれることを願ったが、

「朕は……!」

 ついにその霊魂も野望と共に消え去り、黒い宝珠だけが暗い地面に落ちて転がった。徐庶の口を塞ぐ必要がなくなった龐統が歩いていって、無言でそれを拾い上げた。

「はぁ……。ってくれたか。まったく最期まではた迷惑な奴だ。あんな奴に冥銭だろうとくれてやることはない」

 安堵した徐庶が口で大きく息をして、いきどおりを交えてそんな感想をこぼした。

「いえ、せっかく作ったのですから送ってやりましょう。金がないのを理由に誘拐や強盗を働かれてもあの世の人々が迷惑ですし、下手に怨まれても困りますからね……」

 だが、孔明はそう言って、「あの世」や「黄泉」とも呼ばれる太陰世界のことを考えるとともに、叔父の生前の気苦労を察した。

「全て孔明の言うとおりにしよう」

 龐統が呟いて、冥銭に松明の火を付けた。すると、冥銭はあっという間に燃え尽きて、太陰の世界へと送金された。それを見届けた三人は夜の峴山から引き返すことにした。

 孔明の奇想天外な推理と超常現象的な展開……。徐庶が娘を背中に背負いながら、

「しかし、どうなることかと思ったぞ……。まるで一夜の幻想を見たような感覚だ……」

 そんな心情を吐露した。それは孔明も似たようなものだ。

「確かにそうですね。まさか相手が袁術の幽霊だとは考えが及びませんでした」

 ともあれ、無事に習家の娘を救出できた。習禎しゅうていに早く知らせてやろう。

「幽霊も服を着ていたな」

 終始黙って交渉の様子を観察していた龐統が帰路の途中でぽつりと言った感想は、何とも彼らしい一言だった。


 峴山けんざんの木々は葉色を変えるものが増え、漢水の水は冷たさを増して、襄陽は日に日に秋の気配が濃くなりつつあった。

 孔明たちはあの夜の出来事は仲間内だけの秘密にして、口外することはしなかった。袁術の幽霊が犯人だったなど信じてもらえなかったからだ。

 習家の娘は峴山を捜索した者たちが偶然発見したものの、彼女を連れ去った犯人たちは逃亡したまま行方がわからない。それがあたかも真実のようにちまたに広がり、襄陽の人々は自分たちが次の事件に巻き込まれないよう警戒をおこたらなかった。

 荊州学府で起こった禰衡でいこう事件も誰かのいたずらだったとしてすっかり忘れ去られ、学府では何事もなかったかのように講義が行われ、時が過ぎた。

 だが、あれら一連の出来事が幻想でなかったのを示す証拠が孔明らの手元に残されていた。黒い宝珠。袁術の置き土産みやげだ。これを手にした孔明らの目下の議題はこの宝珠の扱いをどうするかである。

 彼らは手に入れた黒い宝珠の正体が何か分からなかったが、青龍爵せいりゅうしゃくという霊宝の存在を知っていた孔明は黒い宝珠が青龍爵と同じ霊宝かもしれない可能性を感じ取って言った。

「――――袁術が死後もあのように活動できたのは、このたまの力だったのかもしれません。天子を称したのにも関係があると思います」

「――――袁術は『仙珠』と呼びました。仙界と関係あるのかもしれません」

「――――そんな大それたもの、どうする?」

「――――もちろん、第二の袁術の手に渡らないようにしなければなりません」

「――――先生方にも報告しておくべきかな?」

「――――先生方もそうだが、劉荊州には報告するのか?」

 青龍爵を陸康りくこうに託した時の経験が孔明を慎重にさせた。この霊宝の力は強大ゆえに時に混乱を招き、戦乱を呼び寄せる。

「――――これは大事です。拙速せっそくな判断はいけません。判断を誤らないためにも、 事情に精通することが肝要です。皆で協力してこの珠に関する情報を集め、それから先生方と相談してどうするかを決めましょう。いかがですか?」

 孔明は仲間から次々と浴びせられる質問に答えながら、そう提案した。

「――――よし、そうしよう。その珠は一時龐公先生に預けておいて、俺たちは手分けして情報を集めようじゃないか。何だか面白くなってきたな」

 方針を決めたのは徐庶で、それから三カ月が経っていた。

 魚梁洲ぎょりょうしゅう。龐徳公邸から少し離れた司馬徽しばきの私塾。崔州平さいしゅうへい石韜せきとう孟建もうけん・徐庶・習禎の五人と孔明が講堂に集まり、密議をかわそうとしていた。議長代わりの司馬徽が口を開く。

「さて、睡虎すいこも戻ってきたことだし、例の件について皆の意見を聞こうか」

水鏡すいきょう先生まで。その呼び名は止めてください」

 徐庶が苦笑して言った。

「孔明の〝臥龍がりゅう〟、士元の〝鳳雛ほうすう〟と通じ合って良い。案外悪くない呼び名だと思うが」

〝睡虎〟または〝酔虎すいこ〟は徐庶に付けられたあだ名だ。峴山の夜の出来事を荊州学府の学友に話したところ、寝ぼけた奴、酩酊めいていした奴という意味のあだ名を付けられてしまった。

「まずは各々おのおのが集めた情報を整理しようか。西河と睡虎が旅立っている間、孔明と文祥は文献を調べていた。孔明、分かったことを要約して話してもらおう」

「はい。仙珠とは火・土・金・水・木の五気を受けた霊宝で、天下に五つ存在します。私たちが手に入れたのはその一つ〝黒水珠こくすいじゅ〟だと思われます。仙珠は〝天宝〟とも呼ばれ、天運を左右する力を秘めているそうです。これらの仙珠は過去の清濁政争とも大きな関係がありました……」

 司馬徽の勧めで、孔明が自身の頭にまとめ上げた仙珠の知識を語り始めた。

 荊州学府には全国から優秀な学者や知識人たちが集まっている。中でも、秀才ぶりが群を抜く王粲おうさんは有名だった。王粲は少年時代に長安遷都に同行した後、同郷の劉表を頼って荊州にやってきた。彼の詩文の才能は傑出しており、暴政に荒れ果てた長安から荊州へ落ち延びる時に詠んだ『七哀詩しちあいし』は読んだ者を涙させるほどの名作で、後に〝建安七子けんあんしちし〟(建安時代の名詩人七人)の筆頭に数えられる。

 そして、さらに彼を特別にしたのは、かつて大学者・蔡邕さいようから教えを受けたという事実であった。王粲は蔡邕からその文才を絶賛され、その蔵書の全てを譲り受けていたのである。

 王粲は襄陽の西郊、萬山まんざんに居を構えており、萬山は孔明が暮らす隆中から襄陽城への道中にある。孔明は張仲景から預かった薬を王粲に届けたのをきっかけに面識を持ち、許可をもらって習禎とともに蔡邕が遺した文献を調べ始めた。

 蔡邕はあらゆる分野に通じる当代随一の学者で、『神仙概論』という仙珠・神器に関する著述も遺していたのである。それには、仙珠や神器が政争の具となった歴史も記されており、王粲の祖父も関わっていた。

 王粲の祖父は名を王暢おうちょうあざな叔茂しゅくぼうといい、劉表の学問の師であると共に政治的教導者でもあった。王暢は清流派(政治の浄化運動を図った正義派官僚グループ)に属し、その内の「八俊はっしゅん」(八人の清義に傑出した者)の一人に数えられた人物である。そして、劉表自身もそれに続く「八及はっきゅう」(八人の清義を慕っていく者)の一人として、名をとどろかせた。

 つい十年前まで、清流派と濁流派(政治の混乱の原因となった腐敗官僚グループ)の政治抗争が繰り広げられ、その裏に五仙珠と四神器の争奪戦があったのだ。

「……これらの関係性をかんがみれば、劉荊州も清濁の仙珠争奪に関与していたはずですし、今でも求めていると思われます」

「ああ、その通りだ。劉荊州は密かに張元節ちょうげんせつと交通していた」

「主に仙珠に関しての情報交換をしていたようだ」

 孔明の推察を裏付けるように孟建と石韜が言った。司馬徽の指示で、二人は劉表に仕える韓嵩かんすうと交友して、その情報を得ていた。

 韓嵩はあざな徳高とくこうという。義陽ぎよう郡(南陽郡の一部)の人で、司馬徽の私塾に初期から参加していた人物である。劉表に仕えるようになってからは顔を出すことはなくなってしまったが、孟建らにとっては学友の関係である。

 そして、張倹ちょうけんあざなを元節。山陽高平の人で、曹操に召し出されて許県で漢朝に仕えていた。実は彼も清流派「八及」の一人であり、昨年死去するまで劉表との交通が続いていた。

 このように劉表と王氏、張倹は皆同郷であり、根底に清流を共有する同志でもあり、非常に繋がりが深かったのである。

 清名ある劉表は昔を知る古老たちからの人気は高い。清流派の群雄である彼が荊州を安定統治している。漢を再興するのは劉表しかいないと信じて疑わない者たちもいる。

 劉表と張倹の繋がりは孔明にとっては新しい情報だ。孔明は自分の中の情報を静かに更新した。司馬徽が徐庶と崔州平の出張組に話を振った。

「よいかな、よいかな。……次は睡虎と西河だ。許では何か分かったかね?」

 徐庶は予州潁川郡の出身で、その潁川郡の中心が漢朝が臨時政府を置き、曹操が支配している許県である。徐庶は里帰りした後、その許へ足を運んで情報収集を行った。

「……やはり徹底した情報管理が行われているのか、朝廷の一部の者しか知らないのか、仙珠についての情報は得られませんでした。ただ、袁術を破った後で劉予州(劉備)が突然曹操に叛旗をひるがえす行動に出たのは、袁術が所持していた霊宝を手に入れたからではないかという憶測があるようです。袁術の下にいた劉勲りゅうくんという人物が曹操側にもたらした情報らしいですが、信憑性しんぴょうせいが高いと見られています。どうやら曹操側も以前から袁術が霊宝を所持していたことを把握していたようです」

「青龍爵だ」

 孔明が断言した。この手に触った青龍の彫刻があしらわれた銅爵。

〝地宝〟ともいう四神器のうちの一つ。そして、それを手に入れようと躍起になっていたのが袁術である。

 袁術は廬江ろこう郡を攻め、念願かなって青龍爵を手に入れた。袁術が皇帝を僭称せんしょうしたのは、それから間もなくのことである。司馬徽が確認した。

「以前孔明が言っていたものだな?」

「はい。袁術が天子を僭称したのは黒水珠と青龍爵、天地の霊宝の両方を手に入れて増長した結果だったのかもしれません」

 袁術は寿春という地の南郊と北郊に祭壇さいだんを築いて天地をまつり、天子を称した。いわゆる封禅ほうぜんの儀式である。天地の神に対し、自分こそが人の世界における唯一無二の支配者、皇帝であることを宣言するのだ。

「私は袁公とじかに話してきました。袁公は自分が赤火珠せっかじゅを保有しているとあっさり話してくれましたよ」

 崔州平が孔明たちに向き直って、冀州へ出向いて袁紹とかわした会話をつぶさに語った。崔州平は北方出身の名士だ。袁紹えんしょうとは名士同士の付き合いで、昔から顔馴染かおなじみであった。

「袁公は昔、我等が董卓討伐軍を起こした際、盟主となった。今の袁公は漢の大将軍だ。これは単に四世三公の名家であるからだけではなく、赤火珠の天運がそう導いたのだと考えている。だからこそ、漢の命運を握っているのも自分だという自負がある。それだけに曹操が陛下をようして天下に号令するのが許せないらしい。袁公は曹操も仙珠を保有していると見て、曹操と対決するつもりでいるよ」

 漢のシンボル・カラーは赤である。赤い仙珠を握る袁紹は自分こそが皇帝を補佐して天下に号令すべき存在なのだと崔州平に豪語した。

「袁公にも顔が効くとはさすが西河殿だ」

「うむ。しかし、よくそこまで聞き出せましたな」

「私が荊州にいるからだろう。あちらは私が劉荊州にも顔がくと考えている。曹操を討つために劉荊州に提携を訴えるよう要請されたよ」

 崔州平は苦笑いで孟建と石韜に答えた。司馬徽が一同を見渡すように首を動かして、

「よいかな、よいかな。だんだん真理が見えてきた。我等が聞き知っていたのは物事の表面に過ぎなかった。目に見え、耳に聞こえる世界の向こうに我等の想像の及ばない世界があったわけだな。禰正平でいせいへいがそなたたちを蝌蚪かと呼ばわりしたのは、それを教えるつもりだったのかもしれないな」

 と、そう結んだ。徐庶が一つ嘆息を挟んで言った。

「曹操の用兵は早い。袁紹と干戈かんかを交えたかと思えば、今度はまた張繍を攻める準備をしている。劉・張・袁の連携が固まる前にそれを崩すつもりだ」

 それを受けて、崔州平が学友たちのリーダーらしく一同に告げた。

「戦場は荊州に迫っている。事態の裏側を知り、天運を左右するものを手にした以上、我等もこれまでのように座視することはできないぞ」

 北に曹操。南に孫策そんさく。孫策は父の仇討ちと称して、江夏こうか黄祖こうそを攻めたばかりだった。父・孫堅を峴山に殺したのは黄祖の兵だった。その因縁が時を越えてくすぶっている。

「ええ。ですから、皆で決めようとこうして集まってもらったわけです。龐公先生も私たちで決めるようにおっしゃっていましたし……」

 隠遁者の龐徳公は事情を聞いて仙珠の一時預かりだけは承諾したが、その後の処置は荊州の未来をになう若者たちの判断に任せた。

「――――預かるのは良いとして、これの使い道は手に入れたそなたらで責任を持って考えよ。どうすれば、世のためになるのか。国家の良薬として役立てるにはどうすべきなのか考える良い機会ではないか」

 龐徳公は相変わらず野良仕事に忙しい様子で、屋敷を訪れた孔明にそう告げた。

 預けた黒水珠はかぶを入れた籠の中に無造作に放り込まれてあって、孔明の目に白の中に紛れた黒い珠が印象的に映った。

 国家の良薬――――龐徳公が孔明に言ったその言葉は孔明の未来を指し示す指針だ。この場に立ち会っている司馬徽も龐徳公と考えは同じだ。学生たち自身で結論を導けばよい。未来の歴史をつむいでいくのは彼らだ。

 司馬徽が学生たちに未来を問う。

「だいたい情報は出揃でそろったようだな。では、そなたたちの答えを聞こうか」

 最年長らしく崔州平がまず自身の答えを述べた。

「他人の手にあった仙珠がこの荊州に運ばれてきたことを天命と受け取るなら、私はまず荊州の平和を守ることを第一に考えて対処するのが良いと思う。それには、やはり劉荊州に託すのが最善の方法だろう」

「私も西河殿に同感だ」

「私もだ。荊州が手に入れたものを荊州の安定のために利用するのは至極しごく妥当だと思う」

 崔州平の意見に孟建と石韜も賛同した。司馬徽が頷いて、孔明に問う。

「孔明はどうなのだ?」

「私もおおむね同じ考えです。龐公先生が言われたように世のために役立てるなら隠し続けるわけにはいかないし、出すなら誰かに託さなければならない。仙珠を巡る清流派の戦いも知りましたし、そうなると、その相手は劉荊州に限られるような気がします」

 孔明はあまねく天下のことを考えた末に、劉表という答えに行き着いた。

 生き残っている群雄の中で清流派として名声があるのは劉表しかいない。

 あくまでも、荊州第一の考えから劉表に決した崔州平らとは若干じゃっかん経緯は異なるが。

「じゃあ、決まりだな。俺は荊州を守るために仙珠の力を使うというのなら、託す相手は誰だっていいと思っている」

 徐庶は他の面々より自由で柔軟な思考だ。孔明に近いようで、崔州平たちにも近い。

文祥ぶんしょう、何か言いたいことはあるか?」

 司馬徽が年少の習禎に尋ねた。事件解決に協力してもらった立場の習禎には先輩たちの決定に口を挟む余地はない。傍観者に過ぎない習禎は首を振って、

「いえ、私は何も。ところで、士元殿の意見は聞かないのですか?」

「士元は龐公先生のところへ仙珠を受け取りに行った。あいつは着眼点が少々ずれていること以外、考えは俺たちと同じだ。そもそも襄陽人だし、荊州を守ることについて異論はないさ」

 それについては何故か自信ありげに答える徐庶だった。学生たちの意見の一致を見届けて、司馬徽が「よいかな、よいかな」と頷くのだった。


 荊州牧・劉表に託す。孔明とその仲間たちでそうした意志決定が為され、その日のうちに崔州平が代表して韓嵩に伴われて荊州府に上殿した。そして、無事に黒水珠は劉表に譲渡された。孔明はその話を徐庶の屋敷で聞いた。

 徐庶の質素な屋敷は襄陽城の西郊、檀渓水だんけいすいのほとりにあって、孔明の住まいがある隆中りゅうちゅうへの通り道だった。徐庶邸のお隣が崔州平邸である。

「仙珠は必ず荊州の安泰に繋がると、劉荊州は大層お喜びであった」

「袁公の話はお伝えしたのですか?」

「ああ。一応伝えはしたよ。荊州殿がどう行動するかは分からないが」

 崔州平が会見の様子を徐庶と語っていた。孔明は開け放たれた窓から檀渓水の流れを見つめていた。もう黒水珠のことは頭になかったが、自分が下した判断にも絶対的な自信を持てないでいた。そんなもやもやを吹き飛ばすかのように、渓流から吹きあがってくる空気は新鮮で心地よかったが、一方で冬の到来を感じさせるそれは孔明の顔を刺すようだった。

「孔明、そんなに川を見つめて飛び込みたいのか? 檀渓の流れは速い。止めておけ」

 徐庶は会話に興味を示さずに視線を落とす孔明に冗談を投げかけた。

「ご心配なく、酔虎殿」

 孔明は徐庶に付けられたあだ名で返した。確かに徐庶と崔州平は酒を酌み交わし、冷えた体を温めながらの会話だった。

「考えているのは曹操のことか?」

「分かりますか?」

「その顔を見たら、何となくな……。お前は曹操の話題になると、決まって顔が強張こわばる」

 荊州、特に襄陽にとって最大の不安要素は日に日に勢力を増す曹操の存在である。

 徐庶の報告では、曹操は張繍を攻める準備をしていたということだったが、戦は行われなかった。曹操は戦を用いず、張繍を降伏させることに成功して、その戦力を吸収したのである。つい先日の出来事であった。

「戦わずして勝つ。曹操は兵法の上策をやってのけました。友軍だと考えていた張繍の戦力がそっくり敵戦力となってしまったわけですから、劉荊州の動揺は激しいでしょう」

 故郷の徐州を蹂躙じゅうりんし、多くの民を虐殺した曹操は恐ろしくも憎むべき敵だ。

 しかし、一方で、彼の卓越した軍略には感嘆せざるを得ない。

「押しに押した後で引く。こんなことをされれば、どんな体制も揺らぐ。決戦で固まっていたはずの張繍の意志がころりと覆った……」

「確かに驚いた。あの仙珠は本当に役に立つのか?」

 一転して徐庶が仙珠の力を疑うように言った。

「全ては所有者である劉荊州の行動次第でしょう……」

 劉表が荊州を越えて軍を動かさないのは、領土併呑へいどんの意志を持たず、与えられた職務を忠実に実行する清流的信念の持ち主であるからだ。

 漢の皇帝が住まう許を攻撃しないのは、皇族としての務めをわきまえているからだろう。しかし、それだけではないはずだ。

 劉表は張倹と交通していたことから曹操が仙珠を所持していることを知っているのだ。それで曹操に対抗できないのではないかという不安があった。

 孔明はそんな彼に黒水珠を渡せば、劉表が自信を付け、曹操に対抗しうると考えたのだが……。

 建安四(一九九)年の冬は厳しい寒さを伴った。天運を抱え込んだ劉表は天を祀る祭祀を行ったものの動こうとせず、州内の防備を固めただけだった。

 曹操もそんな劉表に見向きもせず、年が明けて早々、軍を徐州へ向けた。



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