其之二 光陰の華

 黄承彦こうしょうげんは襄陽では名の知られた名士である。有力豪族の黄氏に連なり、荊州牧の劉表りゅうひょうとは義理兄弟の関係でもあった。

 彼の邸宅は襄陽城西郊にあり、隆中への帰路の途中、南へ細い街道を曲がった先にある。結構な敷地に邸宅と草庵そうあんあずまやなどがいくつか建っていて、楼閣もある。

 龐徳公ほうとくこうの質素な住まいと比べると、豪族性が際立って見えた。

 一年前から、孔明は龐徳公から受け取った薬草を定期的に黄承彦邸に届ける役目を果たしている。ボロの牛車ぎっしゃを門の脇に停め、孔明が門番の老夫に挨拶あいさつすると、今やすっかり顔見知りとなった門番は孔明の入邸をあっさりと認めてくれた。

 孔明は背負った野菜入りのかごを門番に預けて門をくぐった。そして、本邸には向かわず、いつものように裏庭にある離れに向かった。

 池の中央が小島になっていて、二階建ての小さな望楼ぼうろうが建っている。島を二つの橋がつないでおり、橋の一方はそのまま本邸裏に続く外廊がいろうと連結している。孔明はそちらではなく、少しだけ遠回りをして、裏庭側から小島に架かる石橋を渡った。

 その際、屋敷に勤める年配の女使用人とすれ違ったが、彼女も孔明を見咎みとがめるどころか微笑ほほえんで、

「今、仲景ちゅうけい先生がいらっしゃっていますよ」

 と、知らせてくれた。

「仲景先生、孔明です」

 孔明は部屋の入口で立ち止まり、声をかけた。その小ぢんまりとした望楼の一階部分はにわか作りの診療所として使われている。衝立ついたてで仕切られていて、患者のプライバシーに配慮し、中の様子が見えないようになっている。中から声が返ってきた。

「ああ。悪いが、診察中だ。少し待っていてくれ」

「はい」

 孔明は誰が診察を受けているのか知っている。黄承彦の一人娘・黄華こうかだ。だが、会ったこともなければ、顔を見たこともない。

 黄承彦の話によれば、一年前に伝染病を罹患りかんし、張仲景の治療を受けて辛うじて命を取り留めたものの、皮膚がたるみ、肌が黒ずむ後遺症が残ったという。

 彼女の場合、顔面にそれが顕著で、醜い顔をさらすのを嫌がって人前には姿を見せない。一度だけ顔を隠して屋敷の外に散歩に出たことがあったが、それを子供たちに目撃され、「阿羞あしゅう」とさげすまれた。

 彼女にはそれが沈痛だったようだ。無理もない。十五のうら若き乙女が容姿を馬鹿にされ、嘲笑ちょうしょうされたのだから。以来、彼女は屋敷の外には出ていない。引きこもり状態だ。

「先生、ありがとうございました」

 一時の間を置いて、少女の可憐かれんな声が聞こえ、楼内から気配が消えた。彼女は裏口から出て行ったようだ。それを裏付けるように「入りなさい」と声がして、孔明は楼内に入った。衝立の向こうに張仲景が座っていた。

「薬をお持ちしました」

「ああ、ご苦労……」

 張仲景の表情はえない。彼女の顔に残った黒ずみは血行障害、肌のたるみと乾燥肌は極度の脱水症状によるものだ。これまで当帰芍薬散とうきしゃくやくさん桂枝茯苓丸けいしぶくりょうがん温経湯うんけいとうなど血行障害や乾燥肌に良い薬を処方してきたが、大きな効果は見られない。

 しかし、だからといって、治療をあきらめるわけにもいかない。

 まだ嫁入り前の少女がその容姿のせいで、ちまたで「阿羞」と蔑まされていることを知ると、不憫ふびんでならない。

『まだまだ陰盛だな。瘀血おけつの改善が見られない。何とかしてやりたいものだが……』

 張仲景が今も黄承彦邸を定期的に出入りしているのは人情だけでなく、荊州一の医者としてのプライドがあるからだ。瘀血とは血行障害のことである。

『当帰を軸にしながらも、肝に効能する新薬を創り出して、さらに血気を高めてからの方がよいか……』

 張仲景は孔明から当帰の入った袋を受け取りながら自問した。

 当帰は生理不順など女性特有の病気に効果を発揮する薬草である。当帰の名は、その昔、婦人病を患って夫に去られた女性がある薬草を服用したところ、すっかり回復した上に以前より美しくなり、噂を聞いた夫がその女性のもとへ帰ってきたという故事にちなむ。

 孔明は張仲景が表情を曇らせて思慮している様子から、彼女の経過が優れないのだろうと察した。孔明が彼女の経過について自分から尋ねることはない。自分の病気や容体を知られたくないという患者の心理を理解しているからだ。孔明の叔父がそうだった。病気やけがの状況が深刻であればあるほど、それを隠そうとする。

 家族や友人を心配させないためでもあるが、自分でそれを認めたくないという気持ちがそこにある。

 ふと、微風に乗って甘い香りが漂ってきた。小さな池の周りには桂花けいか金木犀きんもくせい)が植えられ、オレンジ色の可憐な花が咲きほころび始めている。

「この花も生薬になるのでしょうか?」

 孔明は何気なしに呟いた。張仲景は思い出すように言った。

「そう言えば、承彦殿が言っていた。娘が病にかかった頃からずっと庭の桂花が花を付けていると……。枯れ落ちても、またすぐに花を咲かせるそうだ」

 通常なら、桂花は秋に咲く。花の寿命ははかなく、四、五日で枯れる。それがどういうわけか、黄承彦邸の桂花は一年中咲いているらしい。そういえば、確かにいつ黄承彦邸を訪れても、ほのかな甘い芳香が漂っている。

「昔、烏有うゆう先生が言っていたのですが、天地の気の流れが樹木に変化をもたらすそうです」

 古代中国には自然界のあらゆるものを〝陰〟と〝陽〟に分類する陰陽思想というものがあった。さらに、世界に存在するもの全てが、木・火・土・金・水の五元素でできていて、天地、宇宙、世の中のあらゆる原理がこの五元素の循環によって成り立っているという五行ごぎょう説と統合した〝陰陽五行思想〟が常識となって一般社会に普及していた。この陰陽五行思想は張仲景の医療理論にも大きく影響している。

 病気とは、人体を流れる陰陽両気のバランスが崩れることで引き起こされる。

 張仲景の病気治療は生薬を使って、その不均衡を是正することである。

 五行説に当てはめると、皮膚の病気は〝金〟に当たる。

 五元素の優劣関係を説明した五行相克そうこく説の理論によれば、火が金属を溶かしてしまうように、金に打ち克つのは〝火〟の属性である。火は色では赤、方角では南に相当し、医療に応用して考えた場合、血流に当たる。

 桂花は中国南部原産で、花は赤系のオレンジ。血流改善の効果を期待しても、的外まとはずれではないだろう。

「なるほど。天地が桂花を薬に使うよう示しているということか。確かに良いかもしれん。物は試しだ。早速、新薬を作ってみよう」

 張仲景が考えていた肝機能を改善して血流を増やすというアプローチとも合致する。肝臓を陰陽五行説に当てはめると、〝木〟であり、桂花には瘀血を散じさせる効果がある。張仲景は至極しごく納得して、望楼の周囲に咲く桂花をみ始めた。

 孔明もそれを手伝った。


 そうこうしているうちにすっかり日が傾いてしまい、

「今から隆中に帰るのは物騒だ。今夜は泊まってゆきなさい」

 屋敷のあるじの黄承彦は孔明にそう提案し、孔明もその言葉に甘えることにした。

 耕牛を兼用した牛車でのんびりと移動する。襄陽城や龐徳公邸、黄承彦邸など出かけ先はどれも片道数十里の道程だ。片田舎の隆中から出て用事を済ますには一日で足りないことがしばしばで、孔明は時々外泊をすることがあった。

 弟の均はそんな事情を知っているし、年の割にはしっかりしているので、一日二日留守にしても心配はない。

 黄承彦邸の客間で、孔明と張仲景は夕飯を馳走ちそうになった。鯿魚へんぎょ(体高が高いふなのような淡水魚)料理が特に美味で、孔明は弟に申し訳なく思いながらも、それを平らげた。

しゅう家が養魚をしておってな。時々いただくんだよ」

 黄承彦が魚料理に満足気な孔明の様子を見て、そんな事情を話してくれた。

 習家も襄陽の名家の一つである。後漢初期に習郁しゅういく大鴻臚だいこうろ(外務大臣)になり、襄陽侯に封じられた。習郁は封地に広大な私的園林を造成し、白馬山の泉の水を引いて、大小二つの池を作った。そして、古代の賢人・范蠡はんれいならって、魚の養殖を始めた。習家の養魚産業は襄陽では有名で、人々はその池を「習家池しゅうけち」と呼んでいる。

 孔明もその話を耳にしたことがある。習家の少年、習禎しゅうていが荊州学府で学んでいて、孔明の数少ない学友の一人だった。名家の出自の割には気取った様子がなく、非常に真面目な少年といった印象である。習家の家風なのか范蠡のことについて詳しく、習郁が記した『養魚経ようぎょけい』が家宝らしい。

『養魚経』は魚の養殖に関する世界最古の著書である。

 ちなみに、龐徳公が大事にしているのが『神農本草経しんのうほんぞうけい』で、これは三六五種の動物、植物、鉱物の薬効を上・中・下の三品に分類して記述した最古の薬物書である。

 後に『黄帝内経こうていだいけい』、『傷寒雑病論しょうかんざつびょうろん』とともに、中国医学における三大経典の一つに数えられる逸品だ。

「龐家は製薬、習家は養魚。やはり、家を保つためには何か生業なりわいが必要でしょうか?」

「貧し過ぎては学問をする余裕はない。世俗に交じって生きるなら、いくらか金を稼ぐ手段は必要であろうな。だが、本格的に商売を始めて、商人に身を落とすこともあるまい。のぅ、仲景殿?」

 漢代では、商人はいやしい者という扱いで、その身分は底辺に位置しており、奴隷より上とされたくらいだった。

「そうですな。黄泉よみ許子将きょししょうもまさか大商人になってほしいと思って才能を称えたわけではないだろう」

 それを聞くと、また許劭きょしょうのあの一言がよみがえる。そして、もう一つ背負った言葉がある。

「実は龐公先生にも重いお言葉をいただきまして……」

 孔明は今日の出来事を話した。それを聞いた賢人二人は深く頷いて言うのだった。

「……ふむ。『国家の良薬たれ』か。龐公殿も随分そなたのことを気に入っているのだな」

「そういうことなら、わしもうりたぐいだなぁ……」

 黄承彦はそう言って、頭をいた。

「買いかぶり過ぎではないでしょうか。許子将殿も龐公先生も……」

「そうは思わないな。医者の私が医者を見れば、それが名医なのかやぶ医者なのか分かる。それと同じで、一流の人物は一流の人物を見抜くということだ。医者の私も、国には薬を処方できぬ。それができる才能を持っているということだ。それを育てるか育てないかは、そなた次第だが……」

「不安なのは分かるが、そこまで才能を期待されているのだ。素直にその道を進めばよいのではないか。かい家とも龐家とも姻戚なのだから、商売など考えず、世話になればよい。日銭ひぜにに困らぬ程度の安定を得れば、学問に専念できるようになる。おのずと自信も深まろう。いずれそなたが龍才を発揮する時が来たら、今度は蒯家と龐家がその恩恵にあずかることになるのだ。あらかじめ援助を受けたところで気に病むことはない」

 龐徳公だけでなく、張仲景も黄承彦も孔明の不安を一蹴し、龍の道を進めとさとす。

「あるいは、どこか豪家の娘を嫁にもらうかだな。叔父殿の喪は明けたのだろう。そなたも嫁をもらっても良い年頃だ」

 その一言に黄承彦と孔明がハッとした様子で張仲景を見た。

「私はこのような田舎書生の身ですし、それは考えられません」

 孔明はその提言を慌てて否定した。黄承彦がタイミングよく孔明に取引をもちかける。

「とにかく商売など考えずに援助を取り付けることだ。蒯家にも龐家にも遠慮してしまうなら、わしが援助してやろう。ただではないぞ。ちゃんと仕事をしてもらう。その見返りとしての援助だ」

「どんな仕事でしょうか?」

 一人娘の父親として、黄承彦が誠実に孔明に対する。一呼吸置いて、

「……国家の良薬にはいずれなるとして、今は娘の良薬になってくれまいか?」

「え?」

「知っての通り、このところ娘は屋敷に籠ったままで、一歩たりと外に出ることがない。他人との交流は皆無だ。昔から好奇心旺盛で人の話を聞くのが好きであったのに、今ではすっかり心を閉ざしてしまっている。よく望楼に登って外の景色を眺めているのを見かけるが、見ていて辛い。わしには弱音よわねこぼさずに気丈に振る舞ってはいるが、内心は孤独であろうと思う。日々悶々もんもんとしておっては快気にも悪かろうし、誰か話し相手になってくれる者がほしいとずっと思っておった。どうだ?」

「私が……ですか?」

 これには孔明も戸惑った。年若き女性の話し相手など経験がない。唯一あるのは姉の玲だが、これを経験として数えることはできない。そんな自分がいったい何を話せば良いというのだろうか……。

 停止してしまった思考回路を再起動させて、孔明が聞いた。

「彼女が望むでしょうか?」

 人目を避けている彼女が本当にそれを望んでいるのか。先程もそうであったように、彼女は他人の気配を感じただけでも、それを嫌がって遠ざかる。

「誰でも良いというわけではないが、心の底では話し相手がほしいと望んでいるはずだ。それに全くの赤の他人よりも少しでも名前を知っている者の方が心を許せようし、年寄りよりも若者の方がよかろう。……娘は屋敷に籠るようになってからはひたすら本を読んでおってな、そなたと話が合うのではないかと思った」

 黄承彦が懇々こんこんと、切々と、熱意を込めてその理由を語った。純粋な親心は人を打つ。話を聞いた張仲景がその心を意気に感じて、強力に後押しした。

「良い話ではないか。受けたらどうだ? 良い考えがある。そなたは幾分いくぶん薬の知識もあることだし、私の代わりということにしよう。承彦殿が仰るように憂悶は病気の回復を阻害するし、喜びの感情は血脈改善に作用する。今の彼女に必要なのは心の治療かもしれない。となれば、私よりもそなたの方が適任だ。それに加えて、桂花を調合した薬の経過報告をしてくれるなら、私もしばらく荊州学府で新しい薬の研究に専念できる」

 別に悪い話ではない。それ以前に断れる雰囲気でもない。黄承彦と張仲景の視線が孔明を拘束して有無を言わせなかった。

「……分かりました。お引き受け致します」

 賢人二人の圧力に押し切られるようにして、孔明はその仕事を引き受けることになった。


 その夜がけていった。雲間から月が顔を出して、降り注ぐ月光が望楼を淡く輝かせ、裏庭の池を美しく照らす。その月は形を歪めることなく、真円しんえんの姿を静寂した真っ暗な水面みなもに映している。闇のどこかで数匹のかえるが平和を謳歌おうかする重奏をかなでていた。が、孔明の心は穏やかではない。自分にとってはかなりの難題が直前に待ち構えている。何しろ明朝、早速一度目の会談が行われる手筈てはずとなったからだ。

 それを考えるととてもじっとしていられず、寝室として与えられた客間から裏庭に出ると、頭の中にいくつか台詞せりふを考えて、独り予行演習を始めた。

『まず仲景先生が事情を話し、私を紹介する……。そこで自己紹介だ。しばらく仲景先生の代わりを務めます、諸葛孔明です……』

 孔明は医療殿として使われている楼内に入って、衝立ついたての横の棚に置かれた薬を確かめた。月光が水面に反射して楼内に微かな明かりを届けている。

『今度、仲景先生が新薬を持って来られます。それまでこの当帰芍薬散とうきしゃくやくさんを服用してください……。ああ、これじゃ本当に医者の口調くちょうだ。これは駄目だ……』

 孔明は目をつぶって、今の台詞を頭から破棄した。新たな台詞を考えようとするが、適当な言葉が出てこない。かつて劉繇りゅうよう陸康りくこうといった名の知れた郡太守や許劭、張仲景といった当代一の名士たちを前にしても、堂々と言葉を吐き出してきたというのに、今度ばかりはまるで駄目だ。

『女性と話すことに関する知識。これは決定的に欠けているなぁ……』

 孔明はまた一つ自分に欠けているものに気付いて、がっくりとこうべを垂れた。

 そうやって孔明が台詞に詰まっている時、向こう側の橋から誰かが近付いてくる気配がした。驚かせてはいけないと思い、孔明はわざと衝立を少し動かして物音を立てた。

「きゃ!」

 それが逆に相手を驚かせた。少女の驚いたような声が上がり、孔明もそれが黄華だと気付いた。彼女は思わずそでで顔を隠し、素早く身をひるがえした。

「……あ、お待ちください!」

「どちら様……ですか?」

 聞き覚えのある声に黄華が立ち止まって、勇気を振り絞って聞いた。

「諸葛孔明と申します」

 穏やかで明朗な声が背中に届いた。

「ああ、いつも薬を届けてくださっているという……。父からお名前は伺っています」

 背を向けたまま、黄華は微かに頷いた。背後の若者も頭を下げたようだった。

「驚かせてしまって、申し訳ありません」

 顔を見たことはない。だが、優しく柔らかな印象が黄華の胸に広がった。

 黄華が高鳴る心臓の鼓動を抑えながら、言葉をつむいだ。

「何をしておられたのですか?」

「考え事をしていました」

「何を考えておられたのですか?」

「え……それは……月のことを……」

 互いに顔を合わせない孔明と黄華の会話は予定外に偶然に、そして、唐突に始まった。

「あの……こちらには年中桂花が咲いていると伺いまして、その……、あの月の上にも、切っても切っても枝を伸ばす大きな桂花があるという話を思い出しました」

 池の水面に浮かぶ月を見て、咄嗟とっさにそんな話題を切り出した。無理矢理口を動かしたものだから、孔明らしくもなく、いくつかある月の伝説がごちゃ混ぜになった。

「その種は植えるとどんどん成長して、美しい花を咲かせ続けたといいます」

 月にあるという高さ五百丈の月桂樹げっけいじゅ(金木犀)。呉剛ごごうという男がそれを切り倒そうとするのだが、その生命力はすさまじく、すぐに再生してしまう。ある時、呉剛が地上の善良な人間たちにこの桂花の種を与えたところ、彼らが植えた桂花はあっという間に成長して、花を咲かせ、辺りに甘い香りを漂わせたという。

 孔明は何とか言葉を繋ごうとして、頭の中に収められた知識のページを大急ぎでめくる。

「あの……『日中に三足のからす有り、月中にうさぎ蟾蜍せんじょ有り』という言葉をご存じですか?」

 それは『論衡』の中にある一文なのだが、言いながら、孔明は顔をしかめた。

 何という固くかたい話題だろう。が、孔明が予想した反応とは全く違う答えが返ってきた。

「その言葉は存じませんが、月に兎と蟾蜍がいるというのは、嫦娥じょうがの物語ですね」

 嫦娥とは月の女神の名前で、彼女が夫の後羿こうげい(后羿)と地上へ降り、満月の夜に独りで月へ帰ることになった〝嫦娥奔月ほんげつ〟という神話の主人公である。そして、彼女が月に帰った旧暦八月十五日を祀るようになったのが中秋節の始まりである。

 黄華が上空の月を仰ぎ、孔明は水面の月に視線を落とす。

「ああ、そうです。……最近読んだ本では、日中に烏がいるというのは間違いだそうです」

 太陽の中に見える黒点は烏だと信じられていた時代である。王充おうじゅうは著書『論衡』の中でそれを否定した。

「ですが、私は実際に三本足の烏を見たことがあります。その烏は陰気から生まれた霊鳥で……その……」

 それは事実なのだが、何も知らない少女に説明するのは困難だ。

 孔明は自分が変人と思われることを恐れて、言葉を濁そうとした。だが、意外にも黄華の方が話に興味を持った。

「何ですか?」

「信じられないかもしれませんが、私はその不思議な烏を見ました。それで、今度は兎と蟾蜍を探してみようかと……」

 事実と虚構をごっちゃにしながらも、しどろもどろ、孔明は何とか話を繋ぐ。

「彼女は月に帰った後、醜い蟾蜍になってしまったのでしたね……。孔明様がお探しの蟾蜍とは、私のことかもしれません。もう噂をお耳にしてご存知かもしれませんが、実は私もみにくいのです……」

 蟾蜍はヒキガエルである。彼女の気持ちも知らず、蛙たちの鳴き声が夜陰に響いていた。自虐的な黄華の嘆息が聞こえるようだった。

 孔明はそれを感じてなぐさめるように言った。

「私の故郷は徐州瑯琊ろうやなのですが……彼女が蟾蜍になってしまったという話はありません。もしかしたら、兎がいた霊薬で元に戻ったのかもしれませんね」

「そのような薬が本当にあるでしょうか?」

「あるという伝説はあります。ないという伝説はありません」

 月には一羽の兎がいて、きねうすで不老不死の霊薬を搗いているという伝説がある。

「月桂の花を浸した水はどんな病も治してしまうといいます」

 また、ある伝説では、疫病に苦しむ故郷の人々を救うため、月にあるという万病に効く月桂の花を求めて呉剛が月へと登り、花を満開にさせた月桂樹の枝葉を揺すったところ、花が地上の川に中に落ちて、その川の水を飲んだ人々の病をたちどころに治してしまったというものがある。

 何度か黄華とのやり取りを続けて、ようやく孔明の心と頭に平静さが戻ってきた。

「泰山山頂には人の寿命を記録した玉策ぎょくさくがあるという伝説があります。単なる伝説だと信じない人もいます。架空の話だと一笑に付す人もいます。しかし、私はこの足で泰山に登り、この目でそれを見、この手にそれを取り、奇跡をの当たりにしました。今思えば、あれはまぼろしだったのかもしれません。ですが、信じていなければ、そんな幻さえ見ることもなかったでしょう」

 孔明が少年時代の体験を語りながら、悲嘆に暮れる黄華の心を優しく鼓舞した。

 あえなく行き詰まりそうだった話題が不思議と続いていく。孔明は力強く断言した。

「私が三本足の烏を見たのも事実です。ですから、霊薬もきっとどこかにあるのでしょう」

 彼の言葉は自分を傷つけないように配慮に溢れている。それを感じて、

「こうして命があるだけでも感謝しなければなりませんよね」

 黄華は気丈に言った。自分がわずらった傷寒しょうかん(伝染病)は荊州南部で大流行し、十人に八人が亡くなったと張仲景から聞かされた。

「そうですね。私は四年の歳月をかけて襄陽へ避難してきましたが、その間にたくさんの人の死を見てきました。それと同時にたくさんの人に生かされていると感じます」

「そのおっしゃり様、きっとお優しい人なのですね……。孔明様と話していると、恐れを感じません……」

 思わず漏れた告白だった。黄華はこの容貌ゆえにあざけりとさげすみの言葉を投げかけられることを、心を傷付けられることをずっと恐れていた。

 が、話をしてみて分かった。孔明の心に排撃性は微塵みじんもない。

 黄華の胸の鼓動はすでに穏やかなリズムを刻んでいる。孔明の口からもすっかりぎこちなさは消え去り、舌も滑らかになっていた。

「私も恐ろしいものを見、怖い思いを体験してきましたから、その反動なのかもしれません。今もたくさんの人に助けていただいていますし、自分の人生に責任を持って生きなければならないと思います」

 黄華がこくんと頷いた。孔明の言葉は彼女の心に染みついた影を取り払うようだった。

「世界のあらゆるものに陰と陽、光と影が存在します。全ての物事には一長一短があり、その両面を知らなければ、真実を知ることはできません。陰は変じて陽となる。あなたは病気を患って、その苦しみと悲しみを知った。それは変じて、他人への優しさとなって表れることでしょう」

「孔明様は私の真実をお知りになりたいですか?」

 とても勇気のいる言葉だった。だが、もう恐れはなかった。

「ええ」

 孔明の返事に黄華が振り返った。月明かりに照らされて、彼女の顔容かんばせ水面みなもに映った。

「その昔、西施せいしが川で洗濯をする姿に見とれた魚たちは泳ぐのを忘れて沈んでしまったそうです……」

「えっ?」

 自分の容姿を見た孔明がどんな反応を示すのか、それが気がかりだった黄華だったが、孔明が水面を見つめたままそんな話を始めたものだから、当然その反応に戸惑った。

王昭君おうしょうくん匈奴きょうどに嫁ぐために長城を越えました。その旅の途中、空を飛んでいたかりの群れは彼女の姿と望郷の調べに魅入られて次々と落ちてしまったといいます」

 春秋時代、呉越の抗争中にその美貌を利用された傾国の美女・西施。越王勾践こうせんに仕えた軍師・范蠡はんれいの策で呉に送られ、呉王夫差ふさはその美貌におぼれ、国を傾けてしまう。

 前漢代、強大な勢力を誇った異民族・匈奴を懐柔するために匈奴王に嫁がされた女性がいた。それが悲劇の美女・王昭君である。彼女は二度と漢の土を踏むことはなかった。

 部屋に籠り、本を読んで日々過ごすことを日常にしていた黄華は孔明の口から出てきた女性たちの名前も、それに関する故事も知っていた。

 しかし、なぜそんな昔話をするのか。その意図がつかめず、黄華はただ黙して話を聞いた。

「悪名を極めた董卓とうたくちゅうすのに貢献した美女がいます。名を貂蝉ちょうせんといいます。憂国の思いにふける彼女の物悲しい美しさに月も恥じて雲に隠れたそうです」

 董卓はつい六年前までこの世に存在した暴虐無人ぼうぎゃくぶじんの奸雄である。この男を暗殺するため、董卓とその配下の呂布りょふの間を往復したのが憂国の美女・貂蝉だった。

 彼女の離間の策は功を奏し、董卓に貂蝉を奪われて嫉妬した呂布はついに董卓を殺した。貂蝉は呂布に伴われ、今は孔明の故郷・徐州にいる。

「この屋敷には桂花がいつも咲き誇り、かんばしい香りを漂わせていますが、ある人が通る度にその美貌にかなわず枯れ落ちてしまうようです」

「えっ?」

 後年、四人の美人を表わす代名詞として、〝沈魚ちんぎょ〟〝落雁らくがん〟〝閉月へいげつ〟〝羞華しゅうか〟という熟語が誕生するのだが、それぞれ西施、王昭君、貂蝉、楊貴妃ようきひを指す。この時代、唐の楊貴妃はまだ存在していない。孔明はそれを先取りして言った。

「あなたはさながら〝羞華美人〟でしょうか?」

「えっ?」

「あなたのまことの姿は美しい。ご覧なさい」

 孔明は言って、水面にえる月と黄華の容姿を手で指し示した。

「これ……は?」

 また戸惑いの声が漏れた。そこには醜い顔はない。たるんだ皮と黒ずんだ皮膚もない。みずみずしい白い肌をしたうるわしい少女のかたちがそこにあった。

「どうして?」

 黄華は思わずそれを疑って、自分の顔を触って確かめた。柔らかくたるんだ皮の感触も、固く強張こわばった皮膚の感触もない。あるのは滑らかで弾力に富んだ軟肌やわはだの感触。

 孔明はふと気付いた。真相が脳裏の奥底から静かに浮かび上がってくるような感覚だった。

「もしかすると、あなたの顔に残っていたのは陰気の固陋ころうだったのかもしれません……」

「陰気の固陋……?」

「私が読んだ本に月が海水を引き寄せているとありました。それで潮の満ち引きが起こるのだそうです。月は太陰。水も陰。恐らく月は陰気のものを吸い寄せるのでしょう。ですから、あなたの顔にしつこく残った陰気も月に吸い取られてなくなったのかもしれない」

 その本はやはり『論衡』である。これは本を読んだ上での孔明独自の解釈に過ぎないが、ひとまずこの超常現象を説明していた。

「明朝、仲景先生から説明があると思いますが、しばらく先生の代わりに私が参ります」

「そうなのですか?」

「ご迷惑でなければ……」

「迷惑なはずがございません」

 黄華が間髪入れず否定した。孔明は水面みなもから庭の桂花に視線を移し、それから、ようやく黄華の顔容かんばせを拝んだ。月下にたたずむ黄華は水面の彼女よりもずっと美しかった。

「女性の性質は陰、樹木もまた陰。ここの桂花が満開なのも、本当に月桂の種から生まれたものだからかもしれないし、あなたが持っていた陰気の影響を受けてなのかもしれない。あなたの名はこの桂花が由来ですか?」

「はい。私が生まれてから、父は年に一度桂花を植えてくれます」

「素敵な習慣だ。ところで、私はあなたのことを何とお呼びすればよろしいですか?」

「阿羞で結構です」

「え?」

 今度は孔明が驚く番だった。〝阿羞〟は〝ブサイクちゃん〟という意味のあだ名なのだ。

「孔明様とお話をしたら、何だかこの名が素敵に思えてきました。ですから、阿羞で結構です」

 黄華のその発言は孔明の言葉が確かに彼女の心をいやしたことの証だった。

「しかし、それは……」

「それでは、『月英げつえい』とお呼びください。今、考えました。私のあざなです」

 通常、儀礼的に本名を呼ぶのは避けられるため、成人すると字を持つ。

 それは女性でも同じで、『礼記らいき』では、女子は十五でかんざしをつけ、字を持ったとある。

「分かりました、月英殿。今夜はもう遅い。そろそろ失礼します」

「はい。おやすみなさい」

 黄華は一礼すると、もう一度水面を覗き込んで本来の姿を確認した。

 そして、口元を緩ませ、小走りに部屋へ戻っていった。一連の所作には喜びがにじみ出ているようであった。


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