ミント

王子

ミント

 薄葉はくばさんはいつも放課後の教室に一人で居座っている。完全下校時間になるまで読書したり宿題をしたりしているらしいが、本当のところは何をしているのか誰も知らない。放課後の教室は薄葉さんのもので、クラスの誰もが、先生でさえもそれを承知していた。

 中学生にして百七十センチの高身長。細くしなやかに伸びた指、腕、脚。揺れる度に人を惑わしそうな黒の長髪。長い睫毛まつげや完璧な形の鼻を収めた顔立ち。人を超えた美しい生き物と形容してもよかった。

 薄葉さんは目立ち過ぎたので、誰でも彼女に近寄ると、おこがましいことをしている気持ちになる。だから彼女はいつも一人だった。一人であることが彼女をより美しく見せ、畏敬いけいの念を抱かせるほど特異な存在にしていた。

 クラスメイトの一人として話ができないこともないが、彼女の話し方には一切びる響きは無くて、言葉も徹底的にシンプルで、それは大人に対しても違いは無かった。他の誰にも無い謎めいた空気があり、二言三言で彼女の声に支配されてしまいそうになる。

 男子は無条件に心を奪われ、僕も例外ではなかった。女子でも魅了される者がいたが、男女問わず言い寄ろうものならば、他の生徒から冷たい仕打ちを受け、先生からも厳重注意を受ける。薄葉さんは学校全体の絶対不可侵領域であり、誰のものでもなかった。


 金曜日だというのに体操着をロッカーに置き忘れ、薄葉さんのものである放課後の教室に足を踏み入れざるを得なくなった。

 誰にも姿を見られないよう周囲を警戒し、教室のドアをノックする。中からは物音一つしないが、そっと覗き見ると、窓際の席で本を読む薄葉さんがいた。血液が逆流しそうなほど緊張する。

 戸を開け「失礼します」と口にする。薄葉さんはこちらを一瞥いちべつし、本に視線を戻した。彼女の横顔をうかがうと口角がわずかに上がっているように見えた。極力音を立てないように、薄葉さんの世界を邪魔しないように、自分のロッカーの前に立つ。

「ねえ」

 背後からの声に心臓が跳ねる。何かまずいことをしただろうか。

「どうしてノックなんてしたの」

 あの音が気にさわったのなら僕が全面的に悪い。薄葉さんはいつどんなときだって美しくて正しい。

「ごめんなさい」と、深々と頭を下げた。

「なんで謝るの。自分の教室に入るのに、どうしてノックなんてしたのって聞いただけ」

 今すぐにでも逃げ出したい。でも、何も言わずに背を向けるのはきっと重罪だ。

「なんとなく」

 乾いた口で辛うじて答える。声が震えているのに気付いて、手も震えてくる。指先が冷たい。

 薄葉さんはスっと立ち上がって、ベランダに出るドアを開けた。七月の熱風が吹き込んで、薄葉さんのスカートがふわりと揺れる。見てはいけないものを見た気がして顔を背けた。

 横目で盗み見ると、薄葉さんは白いプランターの前にしゃがみこんでいる。あそこに植えられているのは、薄葉さんがある日突然に栽培を始めたミントだ。ベランダの私的利用だって、薄葉さんならば何の問題も無い。彼女の意志で、彼女の目的で、彼女が必要と判断したことなのだから、誰もそれに異を唱えたりしない。

 薄葉さんはミントを数枚ちぎり、廊下の水道で洗って席に戻った。カバンから白いマグカップと水筒を取り出す。無地のマグカップにミントを放り込み、水筒を傾けて無色透明の液体を注ぐ。泡の弾ける音。細い指を挿し込みくるりくるりと回し、口をつけた。

 一挙手一投足全てに意味があるようで、映画のワンシーンを見ているようで、僕は教室の備品みたいに立ち尽くしていた。

 薄葉さんが手招きをする。逆らうことなんてできない。引き寄せられるように前に立つと、マグカップが差し出された。うまく考えられない。何が起きているのか分からない。受け取って口をつける。

 舌で炭酸が弾けた。思っていたより強い。ミントの匂いが鼻腔を貫き、脳にも届いてスーッとする。後味が苦い。この炭酸、砂糖が入っていないんだ。

 薄葉さんは頬杖をつき僕を見上げた。

「そういうの、大丈夫なんだね」

 言われて気が付いた。薄葉さんの唇が触れたマグカップを、僕が! こんなこと誰かに知られたら大変なことになる。顔も耳も熱い。

「ごめん、気付かなくて。本当に、気付かなくて。わざとじゃなくて」

 薄葉さんは笑った。

「何言ってるの。こんな飲み物、子供の口に合わないだろうなって思ったんだけど」

 その笑みには無邪気さのかけらも無くて、全てを見透かしたようにひどく大人びて見えた。僕を「子供」と言ったとおり、薄葉さんは本当に大人なんじゃないだろうか。

「私、好きな人がいるんだけどさ」

 秘密を打ち明けるような、しっとりとした声。突然、マグカップをぎゅっと握りしめていた僕の両手を、薄葉さんの両手が包み込んだ。ミントのひんやりした刺激はどこかへ飛んでしまった。

「大学生。姉の彼氏なんだけど」

 薄葉さんは僕の指を丁寧にほどくと、マグカップを取って机にコトンと置いた。

「高校が同じで、そのときから付き合ってて。地元から離れて同じ大学に行ってる。同じアパートに住みながら。たまに、うちに帰ってくるの。二人一緒に」

 手からも耳からも情報が流れ込んできて、頭の中は渋滞していた。整理する間もなく「それで?」と口をついて出る。

「私、彼氏さんに言ったの。『一人で帰ってきて。私のために会いに来て』って。『それはダメだ』って言われた。当たり前だけど」

 薄葉さんに好きな人がいて。でもお姉さんの彼氏で。だからって、薄葉さんが手に入れたいと望むものが、手に入らないことなんてあるんだろうか。あっていいんだろうか。僕には分からない。指先にはまだ彼女の体温が残っている気がした。

「だから諦めようと思ってる。私はまだ子供で、子供は子供なりの身の丈で生きなきゃいけないんだよね」

 薄葉さんの声には今まで聞いたことの無い切実さが滲んでいて、僕は言葉に詰まる。僕が何を言っても、彼女の心を一ミリも動かせる気がしなかった。

 薄葉さんは頬杖を崩し、僕に顔を近づけて覗き込むようにする。ミントの香りがする。

「それで、君だったら私だけのために何かしてくれる? 私をどこか遠くに連れ去って、愛して、甘えさせて、溶け合うの。そうしたら、君に私の全部をあげてもいい」

 吐息をそっと漏らすような、熱を帯びた小さな声。僕の額から大粒の汗が一つぽたりと床に落ちた。

 彼女の瞳に映った僕はあまりにも子供だった。射すくめられて身じろぎ一つできないでいる。薄葉さんは、僕が見たことの無い景色をこの瞳で見つめてきて、僕が経験したことの無い諦めをとっくの昔に手に入れているんだ。僕が彼女に与えられるものなんて何も無い。自分を子供だと言う薄葉さんよりも、僕はずっとずっと子供なんだ。

「よく分からないよ」

 僕の子供じみた答えに薄葉さんはまた笑った。おかしくてたまらないといった具合で。

「かわいい。ごめんね、冗談だよ」

 薄葉さんはマグカップの中身を飲み干すと、机の上のものをカバンにしまった。彼女が席を立って歩き出すと、待っていたかのように完全下校時間を告げるチャイムが鳴った。

 僕をそそのかした彼女の後ろ姿は、やはり子供には見えなかった。この放課後の教室には、きっと何年何十年経っても彼女と僕の叶わぬ恋が居座り続けるに違いない。

 薄葉さんを失った席からは、嫌味なほど爽やかなミントの残り香がした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ミント 王子 @affe

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ